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32. 八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)多摩(たま)をゆく

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)とは

そのむかし、江戸(えど)時代(じだい)の多摩(たま)には「八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)」と呼(よ)ばれる人(ひと)たちがいた。ふだんは大地(だいち)を耕(たがや)しつつ、ひとたび幕府(ばくふ)から命(めい)がくだれば、刀(かたな)を差(さ)し、武士(ぶし)として、懸命(けんめい)に働(はたら)いた。
「なんだ。八王子(はちおうじ)の話(はなし)なの~」と思(おも)うのは大間違(おおまちが)いだ。
千人同心(せんにんどうしん)たちは、多摩(たま)のあちこちに散(ち)らばって、小平(こだいら)にだって住(す)んでいた。(右(みぎ)の絵(え)を見(み)てちょうだい。)ちなみに、大沼田(おおぬまた(おんた))新田(しんでん)の千人同心(せんにんどうしん)はその名(な)を当麻(たいま)勇蔵(ゆうぞう)さんという。そして、千人同心(せんにんどうしん)たちがなした仕事(しごと)の中(なか)でも武蔵国(むさしのくに)の地誌(ちし)の調査(ちょうさ)などは、今(いま)でもおおいに、多摩(たま)の歴史(れきし)や文化(ぶんか)を研究(けんきゅう)する人(ひと)たちの役(やく)に立(た)っているんだ。
遠(とお)い地方(ちほう)ならともかく、幕府(ばくふ)が直接(ちょくせつ)支配(しはい)する土地(とち)で、半分(はんぶん)武士(ぶし)、半分(はんぶん)農民(のうみん)の組織(そしき)が活躍(かつやく)した例(れい)は他(ほか)にないんだそうだ。しかも、それが江戸(えど)の始(はじ)まりから終(おわ)りまで続(つづ)いたんだからね。一体(いったい)、どんな人(ひと)たちだったんだろう?

千人同心は多摩のあちこちに!

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)年表(ねんぴょう)

八王子千人同心年表
年 できごと
天正(てんしょう)10年(ねん)(1582) 3月(がつ) 武田氏(たけだし)、滅(ほろ)びる。武田(たけだ)の旧臣(きゅうしん)、多(おお)く徳川氏(とくがわし)に召(め)しかかえられる。
6月(がつ) 本能寺(ほんのうじ)の変(へん)で織田(おだ)信長(のぶなが)、死亡(しぼう)。
天正(てんしょう)18年(ねん)(1590) 6月(がつ)23日(にち) 八王子城(はちおうじじょう)、落城(らくじょう)。
7月(がつ) 後北条氏(ごほうじょうし)、滅(ほろ)びる。
7月(がつ)29日(にち) 甲州(こうしゅう)小人頭(こにんがしら)、小人(こにん)250人(にん)、八王子(はちおうじ)城下(じょうか)に移(うつ)って、甲州口(こうしゅうぐち)の警備(けいび)を命(めい)じられる。
8月(がつ)1日(ついたち) 徳川(とくがわ)家康(いえやす)、関東(かんとう)入国(にゅうごく)。
天正(てんしょう)19年(ねん)(1591) 大久保(おおくぼ)長安(ながやす)、八王子(はちおうじ)の奉行(ぶぎょう)となる。八王子宿(はちおうじじゅく)建設(けんせつ)。
12月(がつ)7日(なのか) 甲州口(こうしゅうぐち)を守(まも)る小人(こにん)250人(にん)増(ふ)やす。500人(にん)になる。
文禄(ぶんろく)2年(ねん)(1593) 1月(がつ) 原胤従(はらたねより)ら10人(にん)の小人頭(こにんがしら)と、100人(にん)の小人(こにん)衆(しゅう)、八王子(はちおうじ)城下(じょうか)から、拝領(はいりょう)屋敷(やしき)(八王子市(はちおうじし)千人町(せんにんちょう))に移(うつ)る。
慶長(けいちょう)3年(ねん)(1598) 8月(がつ)18日(にち) 豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)、死亡(しぼう)。
慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600) 1月(がつ)1日(ついたち) 甲州口(こうしゅうぐち)の守(まも)りをかためるため、小人(こにん)を500人(にん)追加(ついか)。1000人(にん)になる。
【八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)の誕生(たんじょう)】
9月(がつ)15日(にち) 関(せき)が原(はら)の戦(たたか)い。千人同心(せんにんどうしん)も参加(さんか)。
慶長(けいちょう)8年(ねん)(1603) 2月(がつ)12日(にち) 家康(いえやす)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸(えど)幕府(ばくふ)を開(ひら)く。
慶長(けいちょう)19年(ねん)(1614) 10月(がつ) 大坂(おおさか)冬(ふゆ)の陣(じん)。
元和(げんな)元(がん)年(ねん)(1615) 4月(がつ) 大坂(おおさか)夏(なつ)の陣(じん)。
5月(がつ) 豊臣氏(とよとみし)、滅(ほろ)びる。
元和(げんな)2年(ねん)(1616) 4月(がつ)17日(にち) 家康(いえやす)、死亡(しぼう)。久能山(くのうざん)(静岡県(しずおかけん))に葬(ほうむ)られる。
元和(げんな)3年(ねん)(1617) 3月(がつ) 家康(いえやす)の遺骨(いこつ)、久能山(くのうざん)から日光(にっこう)へ移(うつ)る。
元和(げんな)4年(ねん)(1618) 4月(がつ) 八王子(はちおうじ)郷(ごう)に代官(だいかん)18人(にん)が置(お)かれ、関東(かんとう)30郡(ぐん)を治(おさ)めることになる。【関東(かんとう)十八代官(だいかん)】
承応(じょうおう)元(がん)年(ねん)(1652) 6月(がつ) 千人同心(せんにんどうしん)、日光(にっこう)火之番(ひのばん)(日光(にっこう)東照宮(とうしょうぐう)火消(ひけし)役(やく))を命(めい)じられる。
寛政(かんせい)4年(ねん)(1792) 9月(がつ)3日(みっか) ロシア使節(しせつ)ラクスマン、漂流民(ひょうりゅうみん)大黒屋(だいこくや)幸(こう)(光)太夫(だゆう)を送(おく)って根室(ねむろ)に来(き)て、日本(にっぽん)に通商(つうしょう)を求(もと)める。
寛政(かんせい)11年(ねん)(1799) 1月(がつ)16日(にち) 東蝦夷(ひがしえぞ)、幕府(ばくふ)の直轄地(ちょっかつち)(直接(ちょくせつ)治(おさ)める領地(りょうち))となる。
寛政(かんせい)12年(ねん)(1800) 3月(がつ)20日(はつか) 原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)、同心(どうしん)や、その子弟(してい)100人(にん)を率(ひき)いて蝦夷(えぞ)へ出発(しゅっぱつ)。
享和(きょうわ)元(がん)年(ねん)(1801) 2月(がつ)10日(とおか) 同心(どうしん)子弟(してい)30人(にん)、蝦夷(えぞ)へ出発(しゅっぱつ)。
享和(きょうわ)2年(ねん)(1802) 2月(がつ)23日(にち) 蝦夷(えぞ)に、蝦夷(えぞ)奉行(ぶぎょう)おかれる。
5月(がつ)11日(にち) 箱館(はこだて)奉行(ぶぎょう)と名(な)をかえる。
文化(ぶんか)6年(ねん)(1809) 11月(がつ)18日(にち) 原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)、千人頭(せんにんがしら)に復帰(ふっき)。
文化(ぶんか)9年(ねん)(1812) 2月(がつ) 原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)、命(めい)をうけ、湯島(ゆしま)の大成殿(たいせいでん)に上(あ)がり、多摩郡(たまぐん)地誌(ちし)の調査(ちょうさ)について話(はな)し合(あ)う。
文化(ぶんか)11年(ねん)(1814) 4月(がつ) 原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)、日光(にっこう)勤番(きんばん)中(ちゅう)に、地誌(ちし)を調査(ちょうさ)する命(めい)をうける。
勤番(きんばん)から帰(かえ)るとすぐそのための人選(じんせん)にかかる。
文化(ぶんか)12年(ねん)(1815) 3月(がつ) 青梅(おうめ)のあたりの地誌(ちし)を調査(ちょうさ)する。
世田谷(せたがや)のあたりの地誌(ちし)を調査(ちょうさ)する。
文化(ぶんか)13年(ねん)(1816) 3月(がつ) 新町村(しんまちむら)(青梅市(おうめし))のあたりの地誌(ちし)を調査(ちょうさ)する。
文政(ぶんせい)3年(ねん)(1820)6月(がつ)~文政(ぶんせい)4年(ねん)(1821)4月(がつ) 高麗(こま)郡(ぐん)の地誌(ちし)を調査(ちょうさ)する。
文政(ぶんせい)4年(ねん)(1821) 植田(うえだ)孟縉(もうしん)、『武蔵(むさし)名所(めいしょ)図会(ずえ)』を完成(かんせい)させる。
文政(ぶんせい)5年(ねん)(1822) 4月(がつ) 『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の多摩郡(たまぐん)の部(ぶ)、完成(かんせい)。湯島(ゆしま)の聖堂(せいどう)に納(おさ)める。
11月(がつ) 『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の高麗(こま)郡(ぐん)の部(ぶ)、完成(かんせい)。湯島(ゆしま)の聖堂(せいどう)に納(おさ)める。
文政(ぶんせい)6年(ねん)(1823)正(しょう)月(がつ)~文政(ぶんせい)7年(ねん)(1824)11月(がつ) 秩父(ちちぶ)郡(ぐん)の地誌(ちし)を調査(ちょうさ)。原稿(げんこう)できあがる。
文政(ぶんせい)8年(ねん)(1825) 『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の秩父(ちちぶ)郡(ぐん)の部(ぶ)、完成(かんせい)。湯島(ゆしま)の聖堂(せいどう)に納(おさ)める。
文政(ぶんせい)10年(ねん)(1827) 原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)、死亡(しぼう)。81歳(さい)。
天保(てんぽう)元(がん)年(ねん)(1830) 『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』完成(かんせい)。幕府(ばくふ)に献上(けんじょう)される。
天保(てんぽう)2年(ねん)(1831) 12月(がつ) 原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤禄(たねとし)、相模国(さがみのくに)津久井県(つくいけん)(神奈川県(かながわけん))の地誌(ちし)の調査(ちょうさ)を命(めい)じられる。
天保(てんぽう)7年(ねん)(1836) 12月(がつ) 原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤禄(たねとし)、『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』の津久井県(つくいけん)の部(ぶ)、
10巻(かん)を献上(けんじょう)する。
嘉永(かえい)6年(ねん)(1853) 6月(がつ)3日(みっか) ペリー、浦賀(うらが)へ来航(らいこう)する。
嘉永(かえい)7年(ねん)(1854) 3月(がつ)3日(みっか) 日米(にちべい)和親(わしん)条約(じょうやく)結(むす)ぶ。その後(ご)あいついで他(ほか)の国(くに)とも条約(じょうやく)を結(むす)ぶ。
安政(あんせい)3年(ねん)(1856) 10月(がつ) 千人同心(せんにんどうしん)、鉄砲方(てっぽうがた)・江川(えがわ)太郎(たろう)左衛門(ざえもん)英敏(ひでとし)に入門(にゅうもん)する。
12月(がつ) 千人同心(せんにんどうしん)へ、200挺(ちょう)の鉄砲(てっぽう)が渡(わた)される。
慶応(けいおう)2年(ねん)(1866) 7月(がつ)20日(はつか) 第(だい)14代(だい)将軍(しょうぐん)、徳川(とくがわ)家茂(いえもち)、死亡(しぼう)。
10月(がつ)28日(にち) 千人同心(せんにんどうしん)、「千人隊(せんにんたい)」と名前(なまえ)をかえる。近代的(きんだいてき)な軍隊(ぐんたい)へとかわってゆく。
慶応(けいおう)3年(ねん)(1867) 10月(がつ)15日(にち) 大政奉還(たいせいほうかん)。江戸(えど)幕府(ばくふ)が朝廷(ちょうてい)に政権(せいけん)を返(かえ)す。
慶応(けいおう)4年(ねん)(1868) 1月(がつ)3日(みっか) 鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦(たたか)い(戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)の始(はじ)まり)。
4月(がつ)11日(にち) 江戸城(えどじょう)、開城(かいじょう)。
閏(うるう)4月(がつ)10日(とおか) 千人頭(せんにんがしら)石坂(いしざか)弥次右衛門(やじえもん)、自殺(じさつ)。
閏(うるう)4月(がつ)20日(はつか) 千人隊(せんにんたい)の一部(いちぶ)、上野(うえの)彰義隊(しょうぎたい)に加(くわ)わる。
5月(がつ)15日(にち) 上野(うえの)戦争(せんそう)。彰義隊(しょうぎたい)、官軍(かんぐん)と戦(たたか)う。
6月(がつ)9日(ここのか) 千人隊(せんにんたい)、解体(かいたい)する。(組織(そしき)がバラバラになること。)
7月(がつ)17日(にち) 江戸(えど)は「東京(とうきょう)」となる。
9月(がつ)8日(ようか) 元号(げんごう)「明治(めいじ)」となる。

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)の歴史(れきし)

1.武田氏(たけだし)の滅亡(めつぼう)

天正(てんしょう)10年(ねん)(1582)3月(がつ)、甲斐(かい)(今(いま)の山梨県(やまなしけん))の武田氏(たけだし)は、織田(おだ)信長(のぶなが)、徳川(とくがわ)家康(いえやす)の連合軍(れんごうぐん)との戦(たたか)いに敗(やぶ)れ、滅(ほろ)んだ。しかし、3か月(げつ)後(ご)の6月(がつ)には、本能寺(ほんのうじ)の変(へん)で信長(のぶなが)も死亡(しぼう)。甲斐国(かいのくに)は家康(いえやす)の支配(しはい)するところとなる。甲斐国(かいのくに)を治(おさ)めるにあたって、家康(いえやす)は武田氏(たけだし)の軍隊(ぐんたい)のつくり方(かた)や政治(せいじ)のしかたを積極的(せっきょくてき)に取(と)り入(い)れた。そして、できるだけ、武田氏(たけだし)の旧臣(きゅうしん)(もとの家臣(かしん))たちを採用(さいよう)して、徳川(とくがわ)家臣(かしん)の中(なか)に組(く)みこんでいった。

2.後北条氏(ごほうじょうし)の滅亡(めつぼう)

天正(てんしょう)18年(ねん)(1590)7月(がつ)、関東(かんとう)に勢力(せいりょく)をもっていた後北条氏(ごほうじょうし)を滅(ほろ)ぼして、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)の天下(てんか)統一(とういつ)は完成(かんせい)した。
秀吉(ひでよし)は家康(いえやす)に領土替(りょうどが)えを申(もう)し渡(わた)した。8月(がつ)1日(ついたち)、家康(いえやす)は駿河(するが)(今(いま)の静岡県(しずおかけん))から動(うご)き、関東(かんとう)に入国(にゅうごく)する。そして主君(しゅくん)をなくした後北条氏(ごほうじょうし)の旧臣(きゅうしん)たちも、武田氏(たけだし)の旧臣(きゅうしん)と同(おな)じように徳川(とくがわ)家臣(かしん)に取(と)り上(あ)げられていった。

3.国境(こっきょう)警備(けいび)の人(ひと)びと

家康(いえやす)の関東(かんとう)入国(にゅうごく)をきっかけに、9人(にん)の頭(かしら)に率(ひき)いられた250人(にん)の男(おとこ)たちが、甲州口(こうしゅうぐち)の警備(けいび)にあたることになった。この人(ひと)たちは全(すべ)て、武田氏(たけだし)の旧臣(きゅうしん)だ。武田氏(たけだし)に仕(つか)えていた時代(じだい)から、8~9人(にん)の頭(かしら)が2~300人(にん)の同心(どうしん)をまとめて国境(こっきょう)の警備(けいび)にあたっていたのだ。
この250人(にん)の軍団(ぐんだん)が、八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)のもと、なんだ。甲州口(こうしゅうぐち)の警備(けいび)にあたって、八王子(はちおうじ)城下(じょうか)にやって来(き)た。
文禄(ぶんろく)2年(ねん)(1593)1月(がつ)には、千人頭(せんにんがしら)と組頭(くみがしら)のおよそ100人(にん)は拝領(はいりょう)屋敷(やしき)(今(いま)の八王子市(はちおうじし)千人町(せんにんちょう))に移(うつ)り住(す)んだ。しかし、その他(た)の多(おお)くの同心(どうしん)たちは広(ひろ)く、多摩(たま)の地域(ちいき)に散(ち)って住(す)んだ。

4.八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)、誕生(たんじょう)

天正(てんしょう)19年(ねん)(1591)、大久保(おおくぼ)石見守(いわみのかみ)長安(ながやす)が八王子(はちおうじ)奉行(ぶぎょう)となって、宿(しゅく)の建設(けんせつ)がすすむ中(なか)、同心(どうしん)は250人(にん)増(ふ)やされ、500人(にん)となった。
さらに慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600)には、武田氏(たけだし)の旧臣(きゅうしん)ばかりではなく、後北条氏(ごほうじょうし)の旧臣(きゅうしん)や、その他(た)の浪人(ろうにん)など500人(にん)を加(くわ)え、総勢(そうぜい)1,000人(にん)。これで八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)の誕生(たんじょう)だ。
ところで、なぜ、この時期(じき)に同心(どうしん)の人数(にんずう)が増(ふ)やされたんだろう。
秀吉(ひでよし)が天下(てんか)をとった後(あと)も、決(け)っして世(よ)の中(なか)は平和(へいわ)じゃなかった。
慶長(けいちょう)3年(ねん)(1598)3月(がつ)15日(にち)、秀吉(ひでよし)が死(し)ぬと、徳川(とくがわ)と豊臣(とよとみ)の間(あいだ)は危険(きけん)なふんいきになった。豊臣方(とよとみがた)の石田(いしだ)三成(みつなり)は徳川家(とくがわけ)に対抗(たいこう)する動(うご)きを見(み)せはじめている。そして、この時期(じき)、甲斐国(かいのくに)は豊臣(とよとみ)側(がわ)の家臣(かしん)が治(おさ)めていたから、甲州口(こうしゅうぐち)から目(め)を離(はな)せないわけだ。警備(けいび)をさらに厳重(げんじゅう)にするためにも人手(ひとで)が必要(ひつよう)だった。
慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600)9月(がつ)、関(せき)が原(はら)の戦(たたか)いはおこった。天下(てんか)分(わ)け目(め)の戦(たたか)いは徳川(とくがわ)の勝利(しょうり)だった。しかし、豊臣(とよとみ)は秀頼(ひでより)、淀君(よどぎみ)を中心(ちゅうしん)にまだ大坂城(おおさかじょう)に君臨(くんりん)している。ひきつづき千人同心(せんにんどうしん)は甲州口(こうしゅうぐち)の警備(けいび)に目(め)を光(ひか)らせた。

5.八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)と関東(かんとう)十八(じゅうはち)代官(だいかん)

後北条氏(ごほうじょうし)の支城(しじょう)の中(なか)でも、八王子(はちおうじ)の落城(らくじょう)はもっともむごかった。そして、落城(らくじょう)後(ご)も、八王子(はちおうじ)のまわりには落武者(おちむしゃ)や野(の)武士(ぶし)がうろついて、安心(あんしん)できない状態(じょうたい)だったという。その八王子(はちおうじ)で徳川(とくがわ)支配(しはい)の新(あたら)しい町(まち)づくりをするには、政治(せいじ)と警備(けいび)をしっかりとかためなければならない。警備(けいび)を担当(たんとう)したのが八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)だ。一方(いっぽう)、政治(せいじ)を担当(たんとう)したのは関東(かんとう)十八(じゅうはち)代官(だいかん)と呼(よ)ばれる代官(だいかん)たちだった。彼(かれ)らもまた命(めい)を受(う)けて八王子(はちおうじ)に住(す)み、関東(かんとう)地方(ちほう)を治(おさ)めた。
十八(じゅうはち)代官(だいかん)も武田氏(たけだし)の旧臣(きゅうしん)がとても多(おお)い。それから千人同心(せんにんどうしん)と十八(じゅうはち)代官(だいかん)とをとりまとめ、指揮(しき)した大久保(おおくぼ)石見守(いわみのかみ)長安(ながやす)という人(ひと)も、これまた武田氏(たけだし)の旧臣(きゅうしん)だ。
八王子(はちおうじ)が武田(たけだ)の領地(りょうち)の甲斐国(かいのくに)に近(ちか)いという理由(りゆう)もあるだろうけれど、武田氏(たけだし)の旧臣(きゅうしん)には、地方(ちほう)を治(おさ)めるのに、すぐれた能力(のうりょく)を持(も)った人(ひと)が多(おお)かった、ということもあるのかもしれない。

6.大久保(おおくぼ)石見守(いわみのかみ)長安(ながやす)

もともとは、武田氏(たけだし)に仕(つか)えた猿楽師(さるがくし)という。(猿楽(さるがく)というのは、こっけいな味(あじ)の芝居(しばい)。能(のう)や狂言(きょうげん)のもとになった。)のち、武士(ぶし)の身分(みぶん)にとりたてられた。
武田氏(たけだし)が滅(ほろ)んだあとは、家康(いえやす)に見出(みいだ)され、とりわけ、役人(やくにん)としての能力(のうりょく)と、鉱山(こうざん)技術(ぎじゅつ)とを認(みと)められた。八王子(はちおうじ)奉行(ぶぎょう)となったのは天正(てんしょう)19年(ねん)(1591)、慶長(けいちょう)8(1603)年(ねん)には、石見守(いわみのかみ)となる。
また、主君(しゅくん)であった武田(たけだ)信玄(しんげん)の娘(むすめ)、松(まつ)姫(ひめ)を、千人同心(せんにんどうしん)たちとともにのちまでも見(み)守(まも)った。

7.八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)の組織(そしき)のしくみ

同心(どうしん)は千人頭(せんにんがしら)が10人(にん)、組頭(くみがしら)が100人(にん)、同心(どうしん)が900人(にん)いた。千人頭(せんにんがしら)1人(ひとり)が、組頭(くみがしら)10人(にん)を受(う)け持(も)ち、組頭(くみがしら)1人(ひとり)が9人(にん)の平(ひら)同心(どうしん)をまとめた。千人頭(せんにんがしら)は200~500石(こく)取(ど)りの旗本(はたもと)の待遇(たいぐう)だ。(1石(こく)はお米(こめ)約(やく)180リットル)同心(どうしん)は御家人(ごけにん)の待遇(たいぐう)で、30俵(ぴょう)1人(いちにん)扶持(ぶち)~10俵(ぴょう)1人(いちにん)扶持(ぶち)の給料(きゅうりょう)をもらった。
10俵(ぴょう)1人(いちにん)扶持(ぶち)は家族(かぞく)5人(にん)がなんとか食(た)べてゆける給料(きゅうりょう)だった。そして、この給料(きゅうりょう)の基本(きほん)は、明治(めいじ)維新(いしん)で千人隊(せんにんたい)が解散(かいさん)するまで、ほとんど変(かわ)らなかった。ぎりぎりの給料(きゅうりょう)で武士(ぶし)としてのていさいも整(ととの)えなければならないのだから、足(た)りない分(ぶん)は農業(のうぎょう)をしてかせいだ。
拝領(はいりょう)屋敷(やしき)に住(す)むおよそ100人(にん)の組頭(くみがしら)クラス以外(いがい)の大部分(だいぶぶん)の同心(どうしん)は、農村(のうそん)に住(す)み、同心(どうしん)の仕事(しごと)の時(とき)以外(いがい)は農民(のうみん)として働(はたら)いた。農業(のうぎょう)をすることを幕府(ばくふ)も認(みと)めていたんだ。武士(ぶし)と農民(のうみん)の区別(くべつ)がはっきりとしてきたこの時代(じだい)に、半分(はんぶん)武士(ぶし)で、半分(はんぶん)農民(のうみん)という千人同心(せんにんどうしん)のあり方(かた)はとてもめずらしいものだ。
しかし、大宰(だざい)春台(しゅんだい)という儒学者(じゅがくしゃ)は『経済録(けいざいろく)』(1729年(ねん)発行(はっこう))という本(ほん)の中(なか)で、こう言(い)っている。「このごろの武士(ぶし)はぜいたくばかりして、武士(ぶし)の本分(ほんぶん)を忘(わす)れている。その点(てん)、千人(せんにん)衆(しゅう)はわずかな給料(きゅうりょう)しかもらっていないけれど、田舎(いなか)に住(す)んで、耕作(こうさく)し、親(おや)や妻子(さいし)を十分(じゅうぶん)養(やしな)っている。百姓(ひゃくしょう)の苦労(くろう)を知(し)り、文武(ぶんぶ)に励(はげ)み、主君(しゅくん)に忠誠(ちゅうせい)をちかう、これが本当(ほんとう)の武士(ぶし)だ。」

8.八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)の仕事(しごと)

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)の仕事(しごと)は、甲州口(こうしゅうぐち)の警備(けいび)だけではなかった。慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600)の関(せき)が原(はら)の戦(たたか)いに参加(さんか)して、家康(いえやす)と秀忠(ひでただ)(2代目(だいめ)将軍(しょうぐん))の護衛(ごえい)にあたっているし、慶長(けいちょう)19年(ねん)(1614)と元和(げんな)元(がん)年(ねん)(1615)の大坂(おおさか)夏(なつ)の陣(じん)・冬(ふゆ)の陣(じん)でも秀忠(ひでただ)の護衛(ごえい)をしている。
また、将軍(しょうぐん)たちが日光(にっこう)(徳川(とくがわ)家康(いえやす)をまつった東照宮(とうしょうぐう)がある)にお参(まい)りに行(い)く時(とき)や、京(きょう)にのぼる時(とき)にも、たびたびお供(とも)をしている。
しかし、徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)の力(ちから)が確(たし)かなものとなり、戦乱(せんらん)の心配(しんぱい)もなくなった慶安(けいあん)年間(ねんかん)以降(いこう)(1648~)は、甲州口(こうしゅうぐち)の警戒(けいかい)の心配(しんぱい)もかなり少(すく)なくなった。そこで、幕府(ばくふ)は千人同心(せんにんどうしん)に日光(にっこう)の火災(かさい)の警備(けいび)を命(めい)じた。また寛政(かんせい)時代(じだい)(1788~)になると蝦夷地(えぞち)(今(いま)の北海道(ほっかいどう))の警備(けいび)と開拓(かいたく)にも目(め)を向(む)けるようになった。
日光(にっこう)火之番(ひのばん)
日光(にっこう)の火(ひ)の番(ばん)には、2人(ふたり)の千人頭(せんにんがしら)が50人(にん)ずつ、計(けい)100人(にん)の同心(どうしん)を率(ひき)いて向(む)かう。往復(おうふく)に8日(ようか)かかり、火(ひ)の番(ばん)は50日(にち)おこなう。だいたいこの2ヵ月(げつ)を単位(たんい)に交替(こうたい)して番(ばん)を勤(つと)めた。
承応(じょうおう)元(がん)年(ねん)(1652)6月(がつ)に命(めい)じられてから、慶応(けいおう)4年(ねん)(1868)閏(うるう)4月(がつ)、日光(にっこう)を官軍(かんぐん)にあけ渡(わた)すまでの216年間(ねんかん)に、およそ1,030回(かい)もの日光(にっこう)火(ひ)の番(ばん)を勤(つと)めた。
蝦夷地(えぞち)の警備(けいび)と開拓(かいたく)
寛永(かんえい)の頃(ころ)から、しばしばロシア人(じん)が日本(にっぽん)に南下(なんか)して来(く)るようになった。幕府(ばくふ)は蝦夷地(えぞち)(北海道(ほっかいどう))の守(まも)りを固(かた)めなければならなくなった。その頃(ころ)の蝦夷(えぞ)といえば、住(す)みつく日本人(にっぽんじん)は少(すく)なく、代々(だいだい)、松前藩(まつまえはん)が治(おさ)めてきた土地(とち)だった。けれど、こういう事情(じじょう)で、寛政(かんせい)11年(ねん)(1799)、蝦夷(えぞ)は、幕府(ばくふ)が直接(ちょくせつ)治(おさ)めることになり、享和(きょうわ)2年(ねん)(1802)には、その本拠地(ほんきょち)として、箱館(はこだて)(函館)に奉行所(ぶぎょうしょ)が置(お)かれた。
蝦夷(えぞ)を外国(がいこく)から守(まも)るには、土地(とち)を開拓(かいたく)し、人(ひと)が住(す)みついて、警護(けいご)をしなければならない。
寛政(かんせい)11年(ねん)(1799)3月(がつ)、千人頭(せんにんがしら)原(はら)半左衛門(はんざえもん)は、同心(どうしん)の次男(じなん)、三男(さんなん)を率(ひき)いて、蝦夷地(えぞち)の守(まも)りと開拓(かいたく)の仕事(しごと)につきたい、という内容(ないよう)の願(ねが)いを幕府(ばくふ)に出(だ)した。願(ねが)いは許(ゆる)され、よく年(とし)1月(がつ)、原(はら)半左衛門(はんざえもん)は100人(にん)の同心(どうしん)や、その子弟(してい)を連(つ)れて、蝦夷地(えぞち)へ向(む)かった。享和(きょうわ)元(がん)年(ねん)(1801)にはさらに30人(にん)加(くわ)わった。また安政(あんせい)5年(ねん)(1858)には、およそ300人(にん)が渡(わた)っている。けれど厳(きび)しい自然(しぜん)と気候(きこう)の前(まえ)に、多(おお)くの犠牲(ぎせい)を出(だ)すこととなった。

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)は、軍隊(ぐんたい)としてばかりではない。文化(ぶんか)の面(めん)でも、いろいろな活(かつ)やくをした。
寛政(かんせい)の改革(かいかく)(1787~93)で学問(がくもん)にも、武術(ぶじゅつ)にも励(はげ)むことがすすめられ、千人同心(せんにんどうしん)でも剣道(けんどう)や槍(やり)など、武術(ぶじゅつ)の修行(しゅぎょう)が盛(さか)んになった。学問(がくもん)の面(めん)でも、千人頭(せんにんがしら)や組頭(くみがしら)の子弟(してい)は江戸(えど)昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)に通(かよ)った。
昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)
またの名(な)を昌平黌(しょうへいこう)ともいう。寛永(かんえい)7年(ねん)(1630)、林(はやし)羅山(らざん)が上野(うえの)忍岡(しのぶがおか)に邸地(やしきち)をたまわって、聖廟(せいびょう)(昔(むかし)の中国(ちゅうごく)の有名(ゆうめい)な学者(がくしゃ)、儒学(じゅがく)の祖(そ)の孔子(こうし)をお祭(まつ)りするところ)を建(た)てたのが始(はじ)まり。元禄(げんろく)3年(ねん)(1690)11月(がつ)20日(はつか)、聖廟(せいびょう)は神田台(かんだだい)に引(ひ)っ越(こ)す。これが湯島(ゆしま)聖堂(せいどう)だ。
寛永(かんえい)9年(ねん)(1797)には、林(りん)家(け)8代目(だいめ)の述斎(じゅっさい)が幕府(ばくふ)に、官立(かんりつ)(つまり国立(こくりつ)だ)の学問所(がくもんじょ)をここに開(ひら)くことを提案(ていあん)する。
この年(とし)の12月(がつ)1日(ついたち)には「昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)」という名(な)がついて旗本(はたもと)、御家人(ごけにん)やその子弟(してい)のための最高(さいこう)の教育(きょういく)の場(ば)になった。「身分(みぶん)の高(たか)い低(ひく)いは問(と)わない。次男(じなん)、三男(さんなん)でも志(こころざし)があればよい」という、当時(とうじ)としては自由(じゆう)な気風(きふう)だった。
八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)でも、千人頭(せんにんがしら)はじめ、同心(どうしん)やその子弟(してい)で入学(にゅうがく)をした者(もの)はそうとうな人数(にんずう)だとみられている。
千人同心(せんにんどうしん)の文化人(ぶんかじん)の中(なか)でも、ひときわ名(な)高(だか)い、植田(うえだ)孟縉(もうしん)、塩野(しおの)適斎(てきさい)もここで学(まな)んでいる。
あちこちの藩(はん)から優秀(ゆうしゅう)な学生(がくせい)が集(あつ)まり、幕末(ばくまつ)にはたいそう活気(かっき)があった。しかし、明治(めいじ)維新(いしん)で新政府(しんせいふ)の手(て)に渡(わた)り、明治(めいじ)3年(ねん)(1870)に休校(きゅうこう)となり、よく年(とし)には、閉(と)じられてしまった。

9.幕末(ばくまつ)の八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)

安政(あんせい)2年(ねん)(1855)、千人同心(せんにんどうしん)は、老中(ろうじゅう)阿部(あべ)正弘(まさひろ)から、西洋銃(せいようじゅう)の修行(しゅぎょう)を命(めい)じられた。慶応(けいおう)2年(ねん)(1866)には「千人隊(せんにんたい)」と名前(なまえ)を変(か)え、幕末(ばくまつ)の動乱(どうらん)の中(なか)、西洋式(せいようしき)の軍隊(ぐんたい)を目指(めざ)す。
千人同心(せんにんどうしん)たちもまた、大(おお)きな時代(じだい)の流(なが)れに巻(ま)きこまれてゆくのだった。

西へ東へ この時期(じき)の千人同心(せんにんどうしん)はほんと!忙(いそが)しい

  • 天狗党(てんぐとう)(甲府(こうふ)の賊(ぞく))の追討(ついとう)に向(む)かう。(1864年(ねん)11月(がつ))
  • 芸州(げいしゅう)・広島(ひろしま)へ出陣(しゅつじん)。(1866年(ねん)4月(がつ))
  • 日野(ひの)農兵隊(のうへいたい)と共(とも)に武州(ぶしゅう)一揆(いっき)の鎮圧(ちんあつ)に向(む)かう。(1866年(ねん)6月(がつ))
  • 相模国(さがみのくに)(神奈川県(かながわけん))で暴(あば)れている浪人(ろうにん)たち、八王子(はちおうじ)に来(く)るといわれ、全員(ぜんいん)残(のこ)らず追討(ついとう)に向(む)かう。(1867年(ねん)12月(がつ))

慶応(けいおう)4年(ねん)(1868)3月(がつ)、官軍(かんぐん)は甲州(こうしゅう)勝沼(かつぬま)で近藤勇(こんどういさみ)の甲陽(こうよう)鎮撫隊(ちんぶたい)をやぶり、その月(つき)11日(にち)、八王子(はちおうじ)にはいった。
千人隊(せんにんたい)は官軍(かんぐん)参謀(さんぼう)板垣(いたがき)退助(たいすけ)に兵器(へいき)をさしだし、新政府(しんせいふ)につつしんで従(したが)った。隊士(たいし)の中(なか)には上野(うえの)彰義隊(しょうぎたい)に加(くわ)わったり、函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にこもって、最後(さいご)まで戦(たたか)う者(もの)もあった。また、最後(さいご)の日光(にっこう)火(ひ)の番(ばん)の頭(かしら)となった石坂(いしざか)弥次右衛門(やじえもん)義礼(よしかた)は、日光(にっこう)を官軍(かんぐん)にあけわたした責任(せきにん)をとって自害(じがい)。60歳(さい)だった。
この年(とし)6月(がつ)9日(ここのか)、280年(ねん)近(ちか)く続(つづ)いた八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)の歴史(れきし)は終(お)わりを告(つ)げる。ある者(もの)は徳川家(とくがわけ)に、またある者(もの)は新政府(しんせいふ)に属(ぞく)することとなったけれど、大多数(だいたすう)は武士(ぶし)を捨(す)て、農民(のうみん)を選(えら)んだ。

『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)がのちの世(よ)にのこした仕事(しごと)

植田(うえだ)孟縉(もうしん)、塩野(しおの)適斎(てきさい)、並木(なみき)以寧(これやす?もちやす?)、設楽(しだら)三蔵(さんぞう)、松本斗機蔵(まつもとときぞう)などの組頭(くみがしら)たちはまた、千人同心(せんにんどうしん)の中(なか)でも私塾(しじゅく)を作(つく)り、子弟(してい)たちに漢学(かんがく)や書道(しょどう)を教(おし)えた。組頭(くみがしら)は、組(くみ)をまとめてゆくためにも学問(がくもん)に、武術(ぶじゅつ)に励(はげ)む必要(ひつよう)があったからだ。
文化(ぶんか)文政(ぶんせい)の頃(ころ)には、幕府(ばくふ)の地誌(ちし)編(へん)さんの仕事(しごと)に参加(さんか)して『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』や『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』という本(ほん)のため、調査(ちょうさ)にあたっている。知識(ちしき)と体力(たいりょく)のいる仕事(しごと)なのだけれど、やりとげられたのも、ふだんのこういう努力(どりょく)の結果(けっか)かもしれないね。

塩野(しおの)適斎(てきさい) 千人同心(せんにんどうしん)・有名人(ゆうめいじん) その1

字(あざな)は所左衛門(しょざえもん)。名(な)は轍(とおる)。安永(あんえい)4年(ねん)(1775)、八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)の組頭(くみがしら)の河西家(かさいけ)に生(う)まれ、同(おな)じ組頭(くみがしら)の塩野(しおの)家(け)の養子(ようし)になる。文学者(ぶんがくしゃ)としても、剣術家(けんじゅつか)としても、すぐれた才能(さいのう)があった。
文化(ぶんか)11年(ねん)(1814)9月(がつ)から『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』のための調査(ちょうさ)の仕事(しごと)に参加(さんか)した。
また、長(なが)い間(あいだ)、調(しら)べたり、集(あつ)めたりした史料(しりょう)をもとに、文政(ぶんせい)10年(ねん)(1827)に『桑都(そうと)日記(にっき)』(正編(せいへん))を、天保(てんぽう)5年(ねん)(1834)には『桑都(そうと)日記(にっき) 続編(ぞくへん)』をあらわした。
他(ほか)にも盛(さか)んに文章(ぶんしょう)を書(か)いた。弘化(こうか)4年(ねん)(1847)11月(がつ)16日(にち)、73歳(さい)で死亡(しぼう)。八王子(はちおうじ)市内(しない)の極楽寺(ごくらくじ)に葬(ほうむ)られた。

植田(うえだ)孟縉(もうしん) 千人同心(せんにんどうしん)・有名人(ゆうめいじん) その2

宝暦(ほうれき)7年(ねん)(1757)12月(がつ)8日(ようか)、熊本(くまもと)自庵(じあん)の子(こ)として江戸(えど)屋敷(やしき)で生(う)まれ、安永(あんえい)4年(ねん)(1775)11月(がつ)、19歳(さい)の時(とき)、八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)組頭(くみがしら)、植田(うえだ)元政(もとまさ)の養子(ようし)になった。字(あざな)は十兵衛(じゅうべえ)。
塩野(しおの)適斎(てきさい)らと一緒(いっしょ)に『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の仕事(しごと)にたずさわる。その間(かん)、文政(ぶんせい)6年(ねん)(1823)10月(がつ)には『武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』(多摩郡(たまぐん)を中心(ちゅうしん)とした地誌(ちし))をあらわして、昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)の林述斎(はやしじゅっさい)に献上(けんじょう)している。
また、日光(にっこう)火(ひ)の番(ばん)のあいまに調(しら)べて書(か)いた地誌(ちし)『日光(にっこう)山志(さんし)』(5巻(かん))では日光(にっこう)の植物(しょくぶつ)や動物(どうぶつ)をていねいに観察(かんさつ)して写生(しゃせい)。
『日光(にっこう)山志(さんし)』は天保(てんぽう)8年(ねん)(1837)、孟縉(もうしん)81歳(さい)の時(とき)、幕府(ばくふ)の許(ゆる)しを得(え)て刊行(かんこう)された。渡辺(わたなべ)崋山(かざん)、椿(つばき)椿山(ちんざん)など、当時(とうじ)の有名(ゆうめい)な画家(がか)がさし絵(え)をかいている。
他(ほか)にも、
『 鎌倉(かまくら)攬勝考(らんしょうこう)』(10巻(かん) ): 鎌倉(かまくら)の地誌(ちし)。
『 日光(にっこう)名勝(めいしょう)考(こう)』(10巻(かん) ): 日光(にっこう)の地誌(ちし)。
『 鎌倉(かまくら)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』(10巻(かん) ): 鎌倉(かまくら)の地誌(ちし)。
『 浅草寺(せんそうじ)旧跡(きゅうせき)考(こう)』(5巻(かん) ): 寺院(じいん)の旧跡(きゅうせき)について書(か)かれたもの。
『 横山(よこやま)史跡(しせき)拾遺(しゅうい)』(5巻(かん) ): 八王子(はちおうじ)の横山(よこやま)の史跡(しせき)について書(か)かれたもの。
といった著作(ちょさく)があって、なんてエネルギッシュな人(ひと)なんだ! と驚(おどろ)いてしまう。
天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)12月(がつ)14日(か)、87歳(さい)で死亡(しぼう)。八王子(はちおうじ)市内(しない)の宗徳寺(そうとくじ)に葬(ほうむ)られた。

『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』とは、何(なん)なんだ?

なんなんだ 「風土記(ふどき)」とは、地方(ちほう)ごとに風土(ふうど)や文化(ぶんか)など、その土地(とち)の様子(ようす)を記(しる)したもののことをいう。つまり、「地誌(ちし)」だね。
日本(にっぽん)では、和銅(わどう)6年(ねん)(713)、元明天皇(げんめいてんのう)の詔(みことのり)で、諸国(しょこく)に地名(ちめい)の由来(ゆらい)だの、産物(さんぶつ)だの、伝説(でんせつ)などの記録(きろく)を出(だ)させ、編(へん)さんしたのが風土記(ふどき)の初(はじ)めて。でも、その中(なか)できちんと残(のこ)っているのは『出雲国(いずものくに)(今(いま)の島根県(しまねけん)東部(とうぶ))風土記(ふどき)』ぐらい。
文化(ぶんか)7年(ねん)(1810)、林述斎(はやしじゅっさい)は新(あたら)しい風土記(ふどき)を作(つく)りましょう!と幕府(ばくふ)に提案(ていあん)。さっそく昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)に地理局(ちりきょく)をつくり、編(へん)さんの事業(じぎょう)にとりかかった。
『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』は、その地誌(ちし)編(へん)さん事業(じぎょう)の最初(さいしょ)のものとして、できあがったんだ。
頭(あたま)に“新編(しんぺん)”とあるのは、和銅(わどう)の頃(ころ)の風土記(ふどき)に対(たい)して、「新(あたら)しく編(へん)さんした」という意味(いみ)。“稿(こう)(下書(したが)きの意味(いみ))”の字(じ)が最後(さいご)についているのは、これを資料(しりょう)として、完成(かんせい)書(しょ)をつくろうと思(おも)っていたからなんだ。(実現(じつげん)しなかったんだけどね。)
けれど文化(ぶんか)文政(ぶんせい)時代(じだい)の武蔵国(むさしのくに)の村々(むらむら)を書(か)きつくし、現在(げんざい)、このへんの歴史(れきし)・文化(ぶんか)を研究(けんきゅう)するのに欠(か)かせない、ねうちのある資料(しりょう)だ。
全(ぜん)巻(かん)266巻(かん)(うち、編(へん)さん者(しゃ)の名(な)を記(しる)した付録(ふろく)が1巻(かん))。文化(ぶんか)7年(ねん)(1810)に稿(こう)をおこし、文政(ぶんせい)11年(ねん)(1828)に稿(こう)を終(お)え、少(すこ)し誤(あやま)りを正(ただ)して、天保(てんぽう)元(がん)年(ねん)(1830)、幕府(ばくふ)に献上(けんじょう)された。
20年って長いね 費(つい)やした時間(じかん)、20年(ねん)。仕事(しごと)にたずさわった人(ひと)は40名(めい)あまり。編(へん)さんにあたって、幕府(ばくふ)は村々(むらむら)の役人(やくにん)に連絡(れんらく)して、「地誌(ちし)取調(とりしらべ)書上(かきあげ)」(調査書(ちょうさしょ)だね)を提出(ていしゅつ)させ、武蔵国(むさしのくに)以外(いがい)の国(くに)や郡(ぐん)からも必要(ひつよう)な資料(しりょう)を集(あつ)めた。そして、この調査書(ちょうさしょ)をもとに2~3人(にん)1組(くみ)で、調査員(ちょうさいん)が直接(ちょくせつ)村々(むらむら)に出向(でむ)いて、住(す)んでいる人(ひと)たちに聞(き)いたり、ひとつひとつ事実(じじつ)を確(たし)かめていった。だから、内容(ないよう)はとてもくわしく、かつ正確(せいかく)だ。
調査(ちょうさ)のさいには「自然(しぜん)に人物(じんぶつ)、神社(じんじゃ)、寺(てら)、名所(めいしょ)、旧跡(きゅうせき)、旧家(きゅうか)(その村(むら)につづく古(ふる)い家柄(いえがら))、古文書(こもんじょ)にいたるまでことごとく調査(ちょうさ)し、記録(きろく)」するように命令(めいれい)がでていたからね。
『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』が完成(かんせい)した天保(てんぽう)元(がん)年(ねん)(1830)には、息(いき)つくひまなく『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』の編(へん)さんが始(はじ)まっている。天保(てんぽう)12年(ねん)(1842)に完成(かんせい)。126巻(かん)。
そして八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)は『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の多摩郡(たまぐん)と、ついで『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』の津久井(つくい)郡(ぐん)(今(いま)の神奈川県(かながわけん)北部(ほくぶ))の実地(じっち)調査(ちょうさ)を命(めい)じられたのだった。

これが『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』のなかみだ!!

さて、『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』。実際(じっさい)のなかみにはどんなことが書(か)いてあるのかな、と。では、小平市(こだいらし)のはじまり、小川(おがわ)村(むら)のところをちょいとのぞいてみようかな。

小川(おがわ)村(むら)は、多摩郡(たまぐん)の東北(とうほく)、村山(むらやま)郷(ごう)にある。東(ひがし)は小川(おがわ)新田(しんでん)(今(いま)の喜平町(きへいちょう)のへん)、南(みなみ)は南野中(みなみのなか)新田(しんでん)と榎戸(えのきど)新田(しんでん)(国分寺市(こくぶんじし))、西(にし)は砂川(すながわ)(立川市(たちかわし))、芋窪(いもくぼ)、高木(たかぎ)(東(ひがし)大和市(やまとし))の村々(むらむら)、北(きた)は野口(のぐち)村(むら)(東(ひがし)村山市(むらやまし))。砂川(すながわ)村(むら)から野口(のぐち)村(むら)のあたりは、野火止(のびどめ)用水(ようすい)が境界(きょうかい)だ。
東西(とうざい)およそ一里(り)(四キロメートルくらい)。南北(なんぼく)は二町(ちょう)(二二〇メートルくらい)余(あま)り。四方(しほう)平(たい)らな土地(とち)で、人家(じんか)は二二〇軒(けん)。林(はやし)が多(おお)く、水田(すいでん)はなく、陸田(りくでん)だけだ。
村(むら)の中(なか)には古(ふる)い街道(かいどう)があって、道幅(みちはば)は二間(けん)(三・六メートル)ばかり。府中(ふちゅう)から国分寺(こくぶんじ)、恋(こい)が窪(くぼ)などの村(むら)を通(とお)ってここに通(つう)じ、北(きた)へ折(お)れると久米川(くめがわ)の方(ほう)へ行(い)く。鎌倉(かまくら)から陸奥(むつ)(青森県(あおもりけん))への道(みち)だ。
この村(むら)が開(ひら)かれた時(とき)のことをたずねると、小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)という人(ひと)が岸(きし)村(むら)にいて、武蔵野(むさしの)の石塔ヶ窪(せきとうがくぼ)という所(ところ)を開発(かいはつ)する願(ねが)いを出(だ)した。小川(おがわ)という人(ひと)が開(ひら)いたので、小川(おがわ)新田(しんでん)といったけれど、その後(ご)、子孫(しそん)が新田(しんでん)を開(ひら)いたので、小川(おがわ)村(むら)というようになった、という。
高札場(こうさつば)(高札(こうさつ)をたてる場所(ばしょ)) 村(むら)の中(なか)ほど
橋(はし) 小川(おがわ)橋(ばし)ほかニか所(しょ)。玉川上水(たまがわじょうすい)にかかっている。
水利(すいり)(水(みず)の便利(べんり))
玉川上水(たまがわじょうすい)・砂川(すながわ)村(むら)からはいり、小川(おがわ)新田(しんでん)にそそぐ。
野火止(のびどめ)用水(ようすい)・これも砂川(すながわ)村(むら)からはいり、となり村(むら)との境界(きょうかい)になっている。
神社(じんじゃ)
神明宮(しんめいぐう) 小川(おがわ)村(むら)の鎮守(ちんじゅ)。例祭(れいさい)は九月(がつ)十九日(にち)。神主(かんぬし)は殿ヶ谷(とのがや)村(むら)(瑞穂町(みずほまち))の阿豆(あず)佐美(さみ)天神(てんじん)の神主(かんぬし)、宮崎(みやざき)なんとか、という人(ひと)の配下(はいか)の、宮崎(みやざき)加賀(かが)という人(ひと)だ。
日吉(ひえ)山王社(さんのうしゃ) 江戸(えど)麹町(こうじまち)山王(さんのう)の神主(かんぬし)、樹下(きのした)氏(し)の配下(はいか)、山口(やまぐち)大和(やまと)という人(ひと)が神主(かんぬし)だ。
寺院(じいん)
小川寺(しょうせんじ) 江戸(えど)市ヶ谷(いちがや)(新宿区(しんじゅくく))月桂寺(げっけいじ)の末寺(まつじ)。碩林(せきりん)という僧(そう)が開(ひら)いた。建(た)てたのは小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)なので、その名(な)をとって、小川寺(しょうせんじ)とする。臨済宗(りんざいしゅう)。
妙法寺(みょうほうじ) 中藤(なかとう)村(むら)(武蔵(むさし)村山市(むらやまし))長円寺(ちょうえんじ)の末寺(まつじ)。開(ひら)いた僧(そう)はわからないが、今(いま)の名主(なぬし)、弥四郎(やしろう)の祖先(そせん)と吉野(よしの)又兵衛(またべえ)の二人(ふたり)が力(ちから)を合(あ)わせてつくったそうだ。
小川(おがわ)一小(いっしょう)(小川(おがわ)町(ちょう)一丁目(ちょうめ))のあたりにあったけれど、明治(めいじ)四二年(ねん)八月(がつ)国分寺市(こくぶんじし)にひっこした。
旧家(きゅうか)
百姓(ひゃくしょう)弥四郎(やしろう) 今(いま)の名主(なぬし)。祖先(そせん)の小川(おがわ)次郎(じろう)助義(すけよし)は治承(じしょう)の頃(ころ)(平安(へいあん)時代(じだい))戦(いく)さで手(て)がらをたてた。その子孫(しそん)九郎兵衛(くろべえ)がこの村(むら)をひらく。もと、後北条氏(ごほうじょうし)家臣(かしん)。武蔵(むさし)七党(しちとう)の西党(にしとう)に小川(おがわ)の名(な)あり。
江戸時代の小川村!

多摩郡(たまぐん)の調査(ちょうさ)をした千人同心(せんにんどうしん)メンバー表(ひょう)

原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)(この仕事(しごと)の責任者(せきにんしゃ)。千人頭(せんにんがしら)。)
原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤廣(たねひろ)(胤敦(たねあつ)の弟(おとうと)で、その死後(しご)、原(はら)家(け)11代目(だいめ)をつぐことになる。)
原(はら)新七郎(しんしちろう)胤禄(たねとし)(胤廣(たねひろ)の後継(あとつ)ぎで、原(はら)家(け)12代目(だいめ)…つまり原(はら)家(け)は3代(だい)にわたってこの仕事(しごと)にたずさわったわけ。)
植田(うえだ)十兵衛(じゅうべえ)孟縉(もうしん)(山本組(やまもとぐみ)、組頭(くみがしら)。)
塩野(しおの)所左衛門(しょざえもん)轍(とおる)(原(はら)組(ぐみ)、組頭(くみがしら)。つまり適斎(てきさい)。)
秋山(あきやま)喜左衛門(きざえもん)定克(さだかつ)(石坂(いしざか)組(ぐみ)、組頭(くみがしら)。)
筒井(つつい)恒蔵(つねぞう)元恕(もとよし)[怒](河野組(こうのぐみ)、組頭(くみがしら)。)
風祭(かざまつり)彦右衛門(ひこえもん)公寛(ただひろ)(志村組(しむらぐみ)、組頭(くみがしら)。)
八木(やぎ)孫右衛門(まごえもん)[甚右衛門(じんえもん)とも]忠譲(ただのり?ただよし?)(志村組(しむらぐみ)、組頭(くみがしら)。)
神宮寺(じんぐうじ)豊五郎(とよごろう)正敷(まさのぶ)(荻原(おぎわら)頼母組(たのもぐみ)、組頭(くみがしら)。)
河西(かさい)井三郎(いさぶろう)愛貴(よしたか)(山本組(やまもとぐみ)、組頭(くみがしら)。)
原(はら)利兵衛(りへえ)胤明(たねあき)(原(はら)組(ぐみ)、組頭(くみがしら)。原(はら)半左衛門(はんざえもん)家(け)の親(しん)せき筋(すじ)ではないか、と。)

林述斎(はやしじゅっさい)が地誌(ちし)編(へん)さんの事業(じぎょう)をはじめて2年(ねん)後(ご)の文化(ぶんか)9年(ねん)(1812)2月(がつ)、千人頭(せんにんがしら)、原(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)は、命(めい)を受(う)けて、湯島(ゆしま)の大成殿(たいせいでん)でおこなわれる多摩郡(たまぐん)の地誌(ちし)の編(へん)さんについての話(はな)し合(あ)いに加(くわ)わるようになった。さらに文化(ぶんか)11年(ねん)(1814)4月(がつ)には、地誌(ちし)の調査(ちょうさ)をするよう命令(めいれい)がおりて、原(はら)半左衛門(はんざえもん)はただちに参加者(さんかしゃ)の顔(かお)ぶれを選(えら)んだ。メンバーは皆(みな)、組頭(くみがしら)として、ひときわ学問(がくもん)もあり、ものの見方(みかた)もしっかりしている人(ひと)たちばかりだった。
あるいて調べて書いてスケッチまでこなしてたんだ 千人同心(せんにんどうしん)がかかわった地誌(ちし)の調査(ちょうさ)は、
武蔵国(むさしのくに)のうち 多摩郡(たまぐん) 40巻(かん)
高麗(こま)郡(ぐん) 10巻(かん)
秩父(ちちぶ)郡(ぐん) 20巻(かん)
以上(いじょう)の編(へん)さんを文政(ぶんせい)8年(ねん)(1825)までに終(お)え、『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』は完成(かんせい)。さらに天保(てんぽう)4年(ねん)(1833)から天保(てんぽう)7年(ねん)(1836)までは原(はら)胤禄(たねとし)を責任者(せきにんしゃ)に『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』の津久井県(つくいけん)(郡(ぐん))の調査(ちょうさ)をおこなった。実(じつ)に20年(ねん)の月日(つきひ)だった。

 

 

そう、オンパレード その人物(じんぶつ)の名前(なまえ)について、ど~しても読(よ)みがわからないものについては、『寛政(かんせい)重修(ちょうしゅう)諸家(しょか)譜(ふ)』の読(よ)み方(かた)にしたがいました。これは江戸(えど)時代(じだい)、寛政(かんせい)年間(ねんかん)(1789~1801)に幕府(ばくふ)が編(へん)さんした、お目(め)見(み)え以上(いじょう)の武士(ぶし)たちの家系(かけい)の本(ほん)で、名(な)まえ、名(な)まえのオンパレードだ。
千人同心の人たちってからだも丈夫だったのね

「桑都(そうと)日記(にっき)」に見(み)る多摩郡(たまぐん)調査(ちょうさ)の日々(ひび)

わたし、塩野(しおの)適斎(てきさい)は、同僚(どうりょう)原(はら)利兵衛(りへえ)胤明(たねあき)とともに命(めい)をうけて、多摩(たま)の地誌(ちし)の調査(ちょうさ)をしているのである…。

4月(がつ)8日(ようか) 雨(あめ)

戸倉(とくら)村(むら)にて 名主(なぬし)、常右衛門(つねえもん)に道案内(みちあんない)をたのんだら…
領主さまの命令がないとできません
乙津(おつ)村(むら)にて 名主(なぬし)、弥兵衛(やへえ)いわく、「この里(さと)は13の部(ぶ)に分(わ)かれて、部(ぶ)ごとに1人(ひとり)ずつ、村(むら)役人(やくにん)がいます。全員(ぜんいん)あつまってからでないと、あなたのご質問(しつもん)に答(こた)えるわけにはゆきません。」
はい、全員集合ね

その後(ご)…
あさよーっ 13人(にん)全員(ぜんいん)集(あつ)まってから、この村(むら)についていろいろ質問(しつもん)する。半分(はんぶん)もすまないうちにニワトリが鳴(な)いて午前(ごぜん)5時(じ)。つい夢中(むちゅう)になって徹夜(てつや)してしまった。
気分はハイだ

4月(がつ)9日(ここのか) ちょびっと雨(あめ)

霧雨(きりさめ)の中(なか)、吊(つ)り橋(ばし)を渡(わた)る。梁(はり)に柱(はしら)はなくて、長(なが)さは18メートル。水底(みなぞこ)まで9メートル。渡(わた)る時(とき)、目(め)がくらみ、足(あし)がちぢむ。おそれおののいて、息(いき)を殺(ころ)して渡(わた)る。
こわくなんかあるもんかあ

4月(がつ)10日(とおか) 出(で)かけるのに苦労(くろう)なほどの大雨(おおあめ)!

合羽(かっぱ)を着(き)て、杖(つえ)を持(も)ってゆく。坂道(さかみち)のぬかるみに1歩(ぽ)あるいては立(た)ち止(ど)まり、木(き)の下(した)で休(やす)み、石(いし)の上(うえ)でうずくまり、書(か)きしるしている。
なんでこう雨ばっかり!

4月(がつ)11日(にち) ようやく晴(は)れ

養沢(ようざわ)から御岳山(みたけさん)に向(む)かう。とちゅう高(たか)さ6メートルの岩(いわ)がどーん。腹(はら)ばいになってのぼる。なんのっ!
 

4月(がつ)12日(にち) 晴(は)れ

御岳(みたけ)神社(じんじゃ)の調査(ちょうさ)をしてから、大岳山(おおたけさん)に登(のぼ)る。標高(ひょうこう)1,267メートル。のぼりはけわしく、岩場(いわば)では木(き)をかけて渡(わた)ったり、腹(はら)ばいになって渡(わた)ったり。
戻(もど)りに近道(ちかみち)をしたら、踏(ふ)み跡(あと)はあるけれど、道(みち)はないっ!
胤明(たねあき)はふくらはぎをくじいたり、何度(なんど)もころんだりして、もう大変(たいへん)。とっても、とっても疲(つか)れた1日(にち)だった…。

またかっ?

4月(がつ)13日(にち) 晴(は)れ

胤明(たねあき)と記録(きろく)をとりつづけ、休(やす)まず。
御岳(みたけ)村(むら)滝本(たきもと)の名主(なぬし)の家(いえ)で夕食(ゆうしょく)に山女魚(やまめ)がでて、とってもおいしかった!
夜(よる)、10時(じ)まで聞(き)きとりをする。
あしたもがんばろうな

4月(がつ)14日(か) 晴(は)れ

その橋ね、舟にのるつもりで渡るんですよ沢井(さわい)村(むら)をめざし、永久橋(えいきゅうばし)という橋(はし)を渡(わた)る。この橋(はし)もすごかった。舟(ふね)に乗(の)っているみたいにめちゃくちゃゆれる橋(はし)で、おまけにまん中(なか)のつなぎ目(め)は古(ふる)くなって、くさっている。

この時(とき)、2人(ふたり)が歩(ある)いた地域(ちいき)は今(いま)の五日市町(いつかいちまち)~青梅市(おうめし)のあたり。その奮闘(ふんとう)ぶりがしのばれる、適斎(てきさい)の日記(にっき)でありまする。

 

 

 

参考(さんこう)にした本(ほん)

「八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)史(し)」
「わが町(まち)の歴史(れきし) 八王子(はちおうじ)」
「多摩(たま)のあゆみ  第(だい)23号(ごう)  特集(とくしゅう)八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)」
「江戸(えど)幕府(ばくふ)八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)」
「八王子(はちおうじ)市史(しし) 下(げ)巻(かん)」
「江戸(えど)時代(じだい)の八王子宿(はちおうじじゅく)」
「八王子(はちおうじ)物語(ものがたり) 中(ちゅう)」
「新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)」
「桑都(そうと)日記(にっき) 続編(ぞくへん)」そのほか、いろいろ…。

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掲載日 令和7年8月1日