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41. 花(はな)の江戸(えど)城(じょう) Part2(パートツー)

江戸(えど)城内(じょうない)を探検(たんけん)だ!

二の丸中御門

たんけんだあ!
と、言(い)うわけで、今回(こんかい)はいよいよ、江戸(えど)城内(じょうない)にせまりまする。
数(かぞ)えきれない城門(じょうもん)、櫓(やぐら)、多聞(たもん)に御殿(ごてん)が迷路(めいろ)のように立(た)ち並(なら)び、こいつはすごいワンダー・ランドだ。
この中(なか)をいったいどれくらいたくさんの歴史上(れきしじょう)の有名人(ゆうめいじん)が通(とお)っていったんだろう?
みんなもちょっと江戸城(えどじょう)の住人(じゅうにん)の気分(きぶん)になって、あちらこちらをのぞいてみよう。

タイムマシンがなくっても! タイムマシンがなくっても…
江戸城(えどじょう)は火事(かじ)などで失(うしな)われた部分(ぶぶん)もあったけど、明治(めいじ)維新(いしん)の時(とき)にもだいぶとりこわしがおこなわれた。それに関東(かんとう)大震災(だいしんさい)なんかもあったしね。それでも皇居(こうきょ)のまわりには、当時(とうじ)の江戸城(えどじょう)のおもかげがあちらこちらに残(のこ)ってるよ。

地図(ちず)で見(み)る江戸(えど)の移(うつ)り変(か)わり

線路は目安のために入れました

  1. 江戸(えど)の第(だい)1次(じ)建設(けんせつ)  慶長(けいちょう)7年(ねん)(1602)ごろ(「慶長(けいちょう)7年(ねん)江戸(えど)図(ず)」より)

慶長7年江戸図

  1. 江戸(えど)の第(だい)2次(じ)建設(けんせつ)  慶長(けいちょう)13年(ねん)(1608)ごろ(「慶長(けいちょう)13年(ねん)江戸(えど)図(ず)」より)

慶長13年江戸図

  1. 江戸(えど)の第(だい)3次(じ)建設(けんせつ)  寛永(かんえい)9年(ねん)(1632)ごろ(「武州豊嶋郡(ぶしゅうとしまぐん)江戸(えど)庄図(しょうず)」より)

武州豊嶋郡江戸庄図

  1. 江戸(えど)の第(だい)4次(じ)建設(けんせつ)  正保(しょうほう)元年(ねん)(1644)ごろ(「正保(しょうほう)年間(ねんかん)江戸(えど)図(ず)」より)

正保年間江戸図

江戸城(えどじょう)のつくり その1

1.城(しろ)の構造(こうぞう)

お庭番見参!城(しろ)と、その城下町(じょうかまち)は「郭(くるわ)」という、塁(るい)(とりで)と堀(ほり)とでかこまれた部分(ぶぶん)から成(な)り立(た)っている。その中(なか)の仕組(しく)みはこうだ!

外郭(がいかく)(そとのくるわ) 城下町(じょうかまち)全体(ぜんたい)まで含(ふく)める範囲(はんい)のこと。古(ふる)くは「総構(そうがま)え」とも言(い)った。

内郭(ないかく)(うちのくるわ) お城(しろ)のあるところを言(い)う。本丸(ほんまる)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)などからなる。
どうして「まる」なの?
「丸(まる)」とは「郭(くるわ)」(「曲輪」とも書(か)く)と同(おな)じ意味(いみ)。とりでや城(しろ)のまわりにめぐらす、土手(どて)や石垣(いしがき)を言(い)い、またその内側(うちがわ)の場所(ばしょ)をさす。
山城(やまじろ)があったりまえだった鎌倉(かまくら)時代(じだい)、山(やま)のてっぺんをまっ平(たい)らにして郭(くるわ)を築(きず)いたのでその敷地(しきち)は丸(まる)かった。そこから「丸(まる)」と呼(よ)ばれるようになったんだって。
本丸(ほんまる) もっとも重要(じゅうよう)なところ。城主(じょうしゅ)が住(す)んで政治(せいじ)をおこなう役所(やくしょ)。
二(に)の丸(まる) 城主(じょうしゅ)の子(こ)どもなど、近(ちか)い血筋(ちすじ)の者(もの)たちの屋敷(やしき)が建(た)てられる。
三(さん)の丸(まる) 重臣(じゅうしん)たちが住(す)んだり、米(こめ)や武器(ぶき)などの蔵(くら)が置(お)かれる。
大(おお)きい城(しろ)になると、この他(ほか)にこんな丸(まる)もつくる。
山里(やまざと)丸(まる) 城主(じょうしゅ)の別荘(べっそう)。
西(にし)の丸(まる) 本丸(ほんまる)の西(にし)につくる。城主(じょうしゅ)が隠居(いんきょ)した時(とき)の屋敷(やしき)を建(た)てる。

そして、本丸(ほんまる)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)の組(く)み合(あ)わせの基本(きほん)パターンはこうだ!

(1)梯郭式(ていかくしき)

梯郭式三(さん)の丸(まる)の大手(おおて)(正面(しょうめん))から、二(に)の丸(まる)、本丸(ほんまる)と順(じゅん)に梯(てい)(階段(かいだん))をのぼるように高(たか)くなる構(かま)え。山城(やまじろ)、平山城(ひらやまじろ)に多(おお)い。
 

(2)環郭式(かんかくしき)

環郭式本丸(ほんまる)を中心(ちゅうしん)にその外(そと)へ環(かん)(輪(わ))のように二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)をめぐらす構(かま)え。平山城(ひらやまじろ)や平城(ひらじろ)に多(おお)い。
 

(3)連郭式(れんかくしき)

大手(おおて)から、連郭式三(さん)の丸(まる)、二(に)の丸(まる)、本丸(ほんまる)を一列(いちれつ)に連(つ)らねる構(かま)え。平城(ひらじろ)に多(おお)い。
 

(4)渦郭式(かかくしき)

渦郭式三(さん)の丸(まる)から渦(うず)まきのように、二(に)の丸(まる)、本丸(ほんまる)へといたる構(かま)え。平山城(ひらやまじろ)に多(おお)い。

江戸城(えどじょう)は(4)の渦郭式(かかくしき)の構(かま)えをとっている。
本丸(ほんまる)の高台(たかだい)のまわりを、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)、西(にし)の丸(まる)、北(きた)の丸(まる)が渦(うず)まき状(じょう)に取(と)り囲(かこ)む。城(しろ)の構(かま)えとしてはもっとも複雑(ふくざつ)で攻(せ)められにくい。

2.江戸城(えどじょう)の内郭(ないかく)

本丸(ほんまる)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)、西(にし)の丸(まる)、北(きた)の丸(まる)とそろったその面積(めんせき)は全国(ぜんこく)の城(しろ)の中(なか)で、最大(さいだい)規模(きぼ)。

まず本丸(ほんまる)

将軍(しょうぐん)の住居(じゅうきょ)であり、政治(せいじ)をおこなう役所(やくしょ)でもある。この建物(たてもの)の北西部(ほくせいぶ)には五層(ごそう)の大天守(だいてんしゅ)、南(みなみ)はしには富士見(ふじみ)の三層(さんそう)櫓(やぐら)がそびえ立(た)ち、天下(てんか)を見(み)おろしていた。
まいごになっちゃうよう 本丸(ほんまる)御殿(ごてん)の中(なか)はつぎの3つの区域(くいき)に分(わ)かれる。
表(おもて) 幕府(ばくふ)の役所(やくしょ)。大広間(おおひろま)や遠侍(とおざむらい)、白書院(しろしょいん)や重臣(じゅうしん)の控(ひか)え室(しつ)などがある。「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」で有名(ゆうめい)な松ノ廊下(まつのろうか)(御成廊下(おなりろうか))もここにある。
中奥(なかおく) 将軍(しょうぐん)の住居(じゅうきょ)。「表(おもて)」が公用(こうよう)なのに対(たい)して、ここからは将軍(しょうぐん)の「私(わたくし)」のエリア。御休息(ごきゅうそく)の間(ま)、御座の間、井呂裏之間(いろりのま)、湯殿(ゆどの)などからなる。ここから御鈴(おすず)廊下(ろうか)を通(とお)って、大奥(おおおく)へいたる。
奥(おく) その広(ひろ)さから「大奥(おおおく)」とも呼(よ)ばれるようになる。将軍(しょうぐん)の奥(おく)さんや、奥(おく)女中(じょちゅう)たちの住居(じゅうきょ)。

 

ちょっとひとこと
江戸城(えどじょう)の大天守(だいてんしゅ)は明暦(めいれき)の大火(たいか)(1657)で焼(や)けおちたあと、再建(さいけん)されることはなかった。
その後(ご)は富士見(ふじみ)櫓(やぐら)が大天守(だいてんしゅ)の役割(やくわり)をはたしていた。

二(に)の丸(まる)

将軍(しょうぐん)の別荘(べっそう)として使(つか)われたり、世嗣(よつぎ)(次(つぎ)の将軍(しょうぐん)になる予定(よてい)の息子(むすこ))の住居(じゅうきょ)になることもあった。
二(に)の丸(まる)のいちばん初(はじ)めの工事(こうじ)(寛永(かんえい)7年(ねん)・1630)と、つぎの工事(こうじ)(寛永(かんえい)13年(ねん)・1636)は小堀遠州(こぼりえんしゅう)が設計(せっけい)。桂(かつら)離宮(りきゅう)とくらべられるような、すばらしい庭園(ていえん)が造(つく)られた。明暦(めいれき)の大火(たいか)(1657)や、延享(えんきょう)(1747)、文久(ぶんきゅう)(1863)の火事(かじ)で焼(や)ける度(たび)、再建(さいけん)されたけれど、本丸(ほんまる)同様(どうよう)、豪華(ごうか)さはひかえるようになった。

三(さん)の丸(まる)

ぼくもまよっちゃったみたいだいたい二(に)の丸(まる)と同(おな)じような役割(やくわ)りで使(つか)われた。

西(にし)の丸(まる)

大御所(おおごしょ)(引退(いんたい)した先代(せんだい)将軍(しょうぐん))の隠居所(いんきょじょ)。北(きた)の丘(おか)には紅葉山(もみじやま)の霊廟(れいびょう)(先祖(せんぞ)の霊(れい)をまつってあるところ)があり、まん中(なか)に館(やかた)が立(た)つ。
その西南(せいなん)は山里(やまざと)丸(まる)の庭(にわ)が広(ひろ)がる。宝永(ほうえい)7年(ねん)(1710)には「吹上(ふきあげ)の御庭(おにわ)」も設(もう)けられて、梅園(ばいえん)、馬場(ばば)、田(た)んぼ、花壇(かだん)などがあった。さらにそのあちこちに、滝見(たきみ)茶屋(ちゃや)、花壇(かだん)茶屋(ちゃや)、紅葉(もみじ)茶屋(ちゃや)などの茶室(ちゃしつ)がちらばっていた。
神さまになっちゃった 慶長(けいちょう)20年(ねん)(1615)5月(がつ)、大坂(おおさか)夏(なつ)の陣(じん)で豊臣家(とよとみけ)の滅亡(めつぼう)を見(み)とどけると、よく年(とし)元和(げんな)2年(ねん)(1616)4月(がつ)、家康(いえやす)は亡(な)くなった。そのなきがらは静岡(しずおか)の久能山(くのうざん)にまつられ、後(のち)に日光(にっこう)にうつされた。
東照宮(とうしょうぐう)というのは家康(いえやす)をまつる神社(じんじゃ)なのだけれど、江戸(えど)城内(じょうない)、西(にし)の丸(まる)の紅葉山(もみじやま)にも東照宮(とうしょうぐう)は建(た)てられた。

 

北(きた)の丸(まる)

もともとは重臣(じゅうしん)の屋敷(やしき)のための土地(とち)だった。けれど明暦(めいれき)の大火(たいか)(1657)以降(いこう)は花畑(はなばたけ)とか将軍(しょうぐん)の血筋(ちすじ)の者(もの)の屋敷地(やしきち)になったりした。
火事(かじ)による焼失(しょうしつ)と再建(さいけん)をくりかえし、徳川(とくがわ)の時代(じだい)が終(お)わりを告(つ)げる時(とき)、西(にし)の丸(まる)だけが江戸城(えどじょう)にのこされた最後(さいご)の御殿(ごてん)になっていた。明治(めいじ)維新後(いしんご)はここが皇居(こうきょ)となり、明治(めいじ)6年(ねん)(1873)に焼(や)けてしまうまで使(つか)われた。西(にし)の丸(まる)が皇居(こうきょ)となった理由(りゆう)だ。

3.江戸城(えどじょう)の石垣(いしがき)積(つ)み

慶長(けいちょう)10年(ねん)(1605)4月(がつ)、家康(いえやす)は隠居(いんきょ)し、二(に)代(だい)将軍(しょうぐん)秀忠(ひでただ)が本格的(ほんかくてき)な天下(てんか)普請(ふしん)を受(う)け継(つ)いだ。城(しろ)のまわりの石垣(いしがき)を築(きず)く仕事(しごと)も大名(だいみょう)たちに割(わ)り当(あ)てられた。
日比谷(ひびや)入江(いりえ)の埋(う)め立(た)て地(ち)に積(つ)むと、重(おも)い石垣(いしがき)は沈(しず)んでしまう。そこで「筏地形(いかだじぎょう)」といって、埋(う)め立(た)ての泥(どろ)の中(なか)に筏(いかだ)を組(く)んで止(と)めてから、石垣(いしがき)を積(つ)む方法(ほうほう)がとられた。それでも石垣(いしがき)はくずれ、工事中(こうじちゅう)の事故(じこ)でたくさんの死傷者(ししょうしゃ)が出(で)た。
そんななかで、加藤(かとう)清正(きよまさ) (注釈)は、 武蔵野(むさしの)に茂(しげ)る茅(かや)を刈(か)りとらせ、泥地(どろち)に敷(し)きつめると、10~15歳(さい)の子(こ)どもを集(あつ)め、その上(うえ)で遊(あそ)ばせた。こうしてじゅうぶん踏(ふ)みかためてから、石垣(いしがき)を築(きず)いた。おかげで、時間(じかん)はかかったけれど、地震(じしん)にもびくともしない頑丈(がんじょう)な石垣(いしがき)ができあがったということだ。

秀吉様にはおトラとかわいがられました(注釈)加藤(かとう)清正(きよまさ)(1562-1611)
通称(つうしょう)、虎之助(とらのすけ)。幼(おさ)ない頃(ころ)から豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)に仕(つか)え、多(おお)くの手(て)がらをたてた。関ヶ原(せきがはら)の戦(たたか)いでは徳川(とくがわ)方(がた)についたが、秀吉(ひでよし)の恩(おん)を思(おも)って、豊臣家(とよとみけ)も大事(だいじ)にした。家康(いえやす)からは肥後国(ひごのくに)を与(あた)えられ、熊本(くまもと)城主(じょうしゅ)。築城(ちくじょう)・治水(ちすい)工事(こうじ)の名人(めいじん)といわれたうえ、文学(ぶんがく)や芸術(げいじゅつ)にも理解(りかい)が深(ふか)く、論語(ろんご)をよく読(よ)み、信仰心(しんこうしん)のあつい人(ひと)だった。

石垣(いしがき)積(つ)みは、織田(おだ)信長(のぶなが)の安土城(あづちじょう)以来(いらい)、城(しろ)を築(きず)くさいに大名(だいみょう)たちが一番(いちばん)力(ちから)を入(い)れるところ。石垣(いしがき)に使(つか)う石(いし)は、安山岩(あんざんがん)や花崗岩(かこうがん)、片麻岩(へんまがん)などだ。
そして、石(いし)の積(つ)み方(かた)にはいくつかの方法(ほうほう)がある。

(1)野面積(のづらづ)み

自然(しぜん)の石(いし)をそのまま積(つ)む、というもっとも古(ふる)いやり方(かた)。古代(こだい)・中世(ちゅうせい)の城(しろ)の石垣(いしがき)はこの方法(ほうほう)。

(2)打(う)ち込(こ)みハギ

自然しぜんの石いしを積つみ上あげてから、石垣いしがきの外側そとがわの部分ぶぶんだけを平たいらに仕上しあげる。それから、石いしと石いしの間あいだのつなぎに小石こいしをはさんで打うち込こむ。
信長(のぶなが)の安土城(あづちじょう)以来(いらい)、広(ひろ)まった方法(ほうほう)でこの当時(とうじ)の城(しろ)はこのやり方(かた)を用(もち)いた。

(3)切きり込こみハギ

たて・横よこ・長ながさの比ひをおよそ1対たい1対たい2の割合わりあいの直方体ちょくほうたい(キャラメルの箱はこの形かたち)にして切きり出だした石いしを積つんでゆく。
石(いし)と石(いし)の間(あいだ)にほとんどすき間(ま)がない。江戸(えど)の初(はじ)めに盛(さか)んになった方法(ほうほう)。
もちろん江戸城(えどじょう)の石垣(いしがき)は、これ。
石の積み方
石垣(いしがき)の勾配(こうばい)は、野面積(のづらづ)みで67.5度(ど)、打(う)ち込(こ)みハギで75度(ど)、切(き)り込(こ)みハギで75度(ど)というのが基本(きほん)。
くずれたらコワイぞ… そして大事(だいじ)なのは、石垣(いしがき)の下(した)から中央(ちゅうおう)まで、たるみがありながら、上(うえ)はしは垂直(すいちょく)になっているってことなんだ。これを「立水(たてみず)」(水平(すいへい)にしたものを垂直(すいちょく)にたてるという意味(いみ))という。さらに石積(いしづ)みの技術(ぎじゅつ)が発達(はったつ)すると、石垣(いしがき)の上端(うえはし)が外側(そとがわ)にソリ出(で)てくる。これを「忍(しの)び返(がえ)し」という。
 

4.そびえる天守(てんしゅ)

やぐらって何よ? 天守(てんしゅ)というのは本丸(ほんまる)にある最大(さいだい)の櫓(やぐら)をいう。戦争(せんそう)のさいには展望台(てんぼうだい)、司令塔(しれいとう)、そして最後(さいご)のとりでともなる重要(じゅうよう)な拠点(きょてん)だ。
天守(てんしゅ)は家康(いえやす)時代(じだい)の慶長(けいちょう)12年(ねん)(1607)の工事(こうじ)では「環立式(かんりつしき)」という形(かたち)をとった。これは戦国(せんごく)の実戦用(じっせんよう)のつくりだった。本丸(ほんまる)の中心(ちゅうしん)にそびえ立(た)つ、大天守(だいてんしゅ)の東(ひがし)、北(きた)、西(にし)に順番(じゅんばん)に小(しょう)天守(てんしゅ)を建(た)てて、輪(わ)のようにつなぐ。こうすると本丸(ほんまる)の中(なか)にさらに四(よっ)つの天守(てんしゅ)で囲(かこ)んだ「天守(てんしゅ)丸(まる)」という郭(くるわ)ができて、本丸(ほんまる)が敵(てき)に攻(せ)めこまれても、この天守(てんしゅ)丸(まる)だけで籠城(ろうじょう)できる。
それが二(に)代(だい)将軍(しょうぐん)秀忠(ひでただ)の時代(じだい)になると、元和(げんな)9年(ねん)(1623)の工事(こうじ)で「単立式(たんりつしき)」という形(かたち)に建(た)てかえられた。天守(てんしゅ)は城(しろ)のシンボルにすぎなくなった。
環立式単立式
さらに三(さん)代(だい)将軍(しょうぐん)家光(いえみつ)の時代(じだい)、寛永(かんえい)15年(ねん)(1638)に工事(こうじ)があって、この時(とき)完成(かんせい)した天守(てんしゅ)はどの方向(ほうこう)から見(み)ても正面(しょうめん)に見(み)えるデザインだったので、「八方(はっぽう)正面(しょうめん)」と呼(よ)ばれた。
江戸城(えどじょう)の天守(てんしゅ)は地震(じしん)や台風(たいふう)に強(つよ)く、木造(もくぞう)でも土壁(つちかべ)が厚(あつ)く、屋根(やね)は銅瓦(どうがわら)ぶきの耐火(たいか)建築(けんちく)だった。
このころは土瓦(つちがわら)がふつうで、金属(きんぞく)瓦(がわら)を使(つか)ったのは江戸城(えどじょう)が日本(にっぽん)最初(さいしょ)、だった。けれども開(ひら)いた窓(まど)から火(ひ)がはいってしまったおかげで、明暦(めいれき)の大火(たいか)(1657)により焼(や)けてしまい、その後(ご)建(た)て直(なお)されることはなかった。

今の皇居の図

かつての江戸城(えどじょう)を忍(しの)ぶばかりが能(のう)じゃないぞ!
皇居(こうきょ)のまわりは科学(かがく)技術館(ぎじゅつかん)あり、国立(こくりつ)近代(きんだい)美術館(びじゅつかん)あり、春(はる)のお花見(はなみ)、千鳥ヶ淵(ちどりがふち)のボート乗(の)りと遊(あそ)べる、遊(あそ)べる。

江戸城(えどじょう)のつくり その2

5.城門(じょうもん)、たくさん

「幕末江戸城門絵図」を見ながら読んでね城門(じょうもん)は「見付(みつけ)」とも呼(よ)ばれ、堀(ほり)の節(ふし)になっていた。「見付(みつけ)」は「見付(みつ)ける」-つまり、見張(みは)りのための場所(ばしょ)。そして、郭(くるわ)の出入口(でいりぐち)になっているような重要(じゅうよう)な門(もん)はほとんどが枡形(ますがた)門(もん)といわれるもの。枡形(ますがた)門(もん)というのは、出入口(でいりぐち)に四角形(しかくけい)の一画(いっかく)を設(もう)けて、城(しろ)の外側(そとがわ)に「一の門(もん)」、城(しろ)の内側(うちがわ)に「二(に)の門(もん)」とふたつの関(かん)門(もん)を設(もう)けるもの。これは敵(てき)に攻(せ)めこまれにくいように、という工夫(くふう)のひとつだ。
門の数は90くらいあったとか
枡形門のしくみ 寛永(かんえい)3年(ねん)(1626)には警備(けいび)の規則(きそく)もできあがり、大手(おおて)門(もん)、中(なか)の門(もん)、中雀(ちゅうじゃく)門(もん)など、中心(ちゅうしん)に近(ちか)い門(もん)の警備(けいび)は、旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)が担当(たんとう)した。本丸(ほんまる)、西(にし)の丸(まる)の門(もん)と内郭(ないかく)の門(もん)は大名(だいみょう)が担当(たんとう)した。
江戸城(えどじょう)の門(もん)は俗(ぞく)に「三十六見付(みつけ)」とよばれ、それだけたくさんあったんだってことなんだ。今(いま)はもうなくなってしまった門(もん)も多(おお)いけれど、そのいくつかを紹介(しょうかい)してみるね。
(カッコ)内(ない)は「城門(じょうもん)絵図(えず)」の中(なか)の位置(いち)番号(ばんごう)。
 

牛込(うしごめ)門(もん)

江戸城(えどじょう)外郭(がいかく)の北(きた)。寛永(かんえい)13年(ねん)(1636)に建(た)てたといわれる。そのころ、このあたりはカエデの林(はやし)だったので、「紅葉(もみじ)門(もん)」とも呼(よ)ばれた。(44)

数寄屋橋(すきやばし)門(もん)

日比谷(ひびや)門(もん)から数寄屋町(すきやまち)への出口(でぐち)にあたっていたので、この名(な)がついた。数寄屋町(すきやまち)というのは江戸(えど)の初(はじ)めにこのあたりに住(す)んだ織田(おだ)有楽斎(うらくさい)(注釈)の数寄屋造(すきやづく)りの茶室(ちゃしつ)が有名(ゆうめい)だったのでうまれた町名(ちょうめい)だとか。(他(ほか)にも説(せつ)はあるらしいけれど。)(36)
(注釈)織田(おだ)有楽斎(うらくさい)(1547~1621)
織田(おだ)信長(のぶなが)の弟(おとうと)。千利休(せんのりきゅう)から作法(さほう)を伝授(でんじゅ)された茶人(ちゃじん)でもある。数寄屋橋(すきやばし)門(もん)外(がい)の屋敷(やしき)跡(あと)は「有楽町(ゆうらくちょう)」という名(な)が今(いま)ものこる。

西(にし)の丸(まる)大手(おおて)門(もん)

やっぱりほら将軍のすまいだから 今(いま)の皇居(こうきょ)の正(せい)門(もん)で二重橋(にじゅうばし)のところだ。家康(いえやす)の隠居所(いんきょじょ)として建(た)てられた西(にし)の丸(まる)の正(せい)門(もん)だった。堀(ほり)を渡(わた)る橋(はし)が内(うち)と外(そと)に二重(にじゅう)にかけられて、「一(いち)の橋(はし)」を渡(わた)って「一(いち)の門(もん)」にはいり、さらに「二(に)の橋(はし)」を渡(わた)らなければ城内(じょうない)にはいれない、というつくりで、警備(けいび)のかたい門構(もんがま)え。(今(いま)の二重橋(にじゅうばし)とはつくりがちがっていた。)(1)

半蔵(はんぞう)門(もん)

ちょっとめいわくかも…家康(いえやす)の時代(じだい)、伊賀(いが)者(もの)たちの組頭(くみがしら)で、「鬼(おに)半蔵(はんぞう)」と呼(よ)ばれた服部(はっとり)石見守(いわみのかみ)正成(まさなり)(1542~1596)の組(くみ)屋敷(やしき)があったので、この名(な)がついた、と『御府内(ごふない)備考(びこう)』に書(か)かれている。江戸城(えどじょう)から甲州(こうしゅう)街道(かいどう)へ通(つう)じる重要(じゅうよう)な門(もん)だ。(26)
 

坂下(さかした)門(もん)

江戸(えど)時代(じだい)には「西(にし)の丸(まる)坂下(さかした)門(もん)」といった。西(にし)の丸(まる)から下(くだ)った坂(さか)の下(した)にあったからだろう。今(いま)は宮内庁(くないちょう)の出入口(でいりぐち)になっている。(2)

田安(たやす)門(もん)

このあたり、むかしは田安(たやす)村(むら)といい、月見(つきみ)の名所(めいしょ)だったそうな。家康(いえやす)の入国後(にゅうごくご)は、関(かん)八州(はっしゅう)の役人(やくにん)たちの屋敷(やしき)が設(もう)けられ、代官(だいかん)町となった。八代(はちだい)将軍(しょうぐん)吉宗(よしむね)は、次男(じなん)の屋敷(やしき)をこの門(もん)の内(うち)に建(た)てて、徳川(とくがわ)三卿(さんきょう)のひとつ、田安(たやす)家(け)をつくった。(27)

日比谷(ひびや)門(もん)

あっちこっちに歴史上の有名人のなごりが!寛永(かんえい)4年(ねん)(1627)に建(た)てられた。広島(ひろしま)の浅野(あさの)家(け)が石壁(いしかべ)をつくり、あの、伊達(だて)正宗(まさむね)が枡形(ますがた)を築(きず)いた。(24)
 

四谷(よつや)門(もん)

寛永(かんえい)13年(ねん)(1636)の建築(けんちく)といわれる。半蔵(はんぞう)門(もん)を通(とお)って、この門(もん)に出(で)て、そこからが甲州(こうしゅう)街道(かいどう)のスタートだ。そして、武蔵野(むさしの)台地(だいち)が扇形(おうぎがた)に広(ひろ)がる、要(かなめ)の部分(ぶぶん)にあたる重要(じゅうよう)な門(もん)。だから、ここには徳川(とくがわ)ご三家(さんけ)のうちの、紀州(きしゅう)・尾張(おわり)両(りょう)大名(だいみょう)の屋敷(やしき)が置(お)かれた。(42)

桜田(さくらだ)門(もん)

警視庁(けいしちょう)の建物(たてもの)と向(む)かい合(あ)っている。文禄(ぶんろく)年間(ねんかん)(1592~1596)に西(にし)の丸(まる)が建(た)てられた時(とき)、内(うち)桜田(さくらだ)門(もん)に対(たい)して、ここを外桜田(そとさくらだ)門(もん)とした。万延元(まんえんがん)年(ねん)(1860)3月(がつ)には、ここで大老(たいろう)井伊(いい)直弼(なおすけ)が暗殺(あんさつ)されている。(25)

常磐橋(ときわばし)門(もん)

慶長(けいちょう)年間(ねんかん)の古(ふる)い絵図(えず)では「浅草口(あさくさぐち)」、寛永(かんえい)年間(ねんかん)の図(ず)では「追手口(おってぐち)」と記(しる)されている。門(もん)の名(な)まえも時代(じだい)でかわるんだね。ここは江戸城(えどじょう)外郭(がいかく)の正(せい)門(もん)であります。(33)


徳川(とくがわ)家(け) 三家(さんけ)・家門(かもん)・三卿(さんきょう)・庶流(しょりゅう)

三卿について…家康(いえやす)が慶長(けいちょう)8年(ねん)(1603)に幕府(ばくふ)を開(ひら)いてから265年間(ねんかん)、徳川(とくがわ)家(け)は代々(だいだい)将軍(しょうぐん)職(しょく)を受(う)け継(つ)いで来(き)た。そして、将軍(しょうぐん)家(け)の分家(ぶんけ)は、「三家(さんけ)」、「家門(かもん)」、「三卿(さんきょう)」、「庶流(しょりゅう)」に分(わ)けられていった。
御三家(ごさんけ) 本家(ほんけ)を継(つ)ぐ権利(けんり)を持(も)つ、つぎの家系(かけい)。
家康(いえやす)の 9子(し)、義直(よしなお)を初代(しょだい)とする尾張(おわり)家(け)。
10子(し)、頼宣(よりのぶ)を初代(しょだい)とする紀州(きしゅう)家(け)。
11子(し)、頼房(よりふさ)を初代(しょだい)とする水戸(みと)家(け)。
三卿(さんきょう) のちに御三家(ごさんけ)同様(どうよう)、本家(ほんけ)を継(つ)ぐ権利(けんり)をもつ家系(かけい)に加(くわ)わる。
八代(はちだい)将軍(しょうぐん)吉宗(よしむね)の子(こ)、宗武(むねたけ)を初代(しょだい)とする田安(たやす)家(け)。
同(おな)じく吉宗(よしむね)の子(こ)、宗尹(むねただ)を初代(しょだい)とする一橋(ひとつばし)家(け)。
九代(きゅうだい)将軍(しょうぐん)家重(いえしげ)の子(こ)、重好(しげよし)を初代(しょだい)とする清水(しみず)家(け)。
以上(いじょう)の六家(ろっけ)は「徳川(とくがわ)」姓(せい)を名(な)のった。
家門(かもん) 家康(いえやす)の次男(じなん)、結城(ゆうき)秀康(ひでやす)を初代(しょだい)とする越前(えちぜん)松平(まつだいら)家(け)。
二(に)代(だい)将軍(しょうぐん)秀忠(ひでただ)の子(こ)保科(ほしな)正之(まさゆき)(のち松平(まつだいら)をなのる)の会津(あいづ)松平(まつだいら)家(け)。
庶流(しょりゅう) 以上(いじょう)の家(いえ)の子ども(こども)たちのうち、大名(だいみょう)になった者(もの)たちをいう。「松平(まつだいら)」姓(せい)を名(な)のった。

6.大名(だいみょう)小路(こうじ)

一年(いちねん)を自分(じぶん)の領地(りょうち)で、つぎの一年(いちねん)を江戸(えど)で暮(く)らすという大名(だいみょう)の参勤(さんきん)交代(こうたい)制度(せいど)は、江戸(えど)にたくさんの大名(だいみょう)屋敷(やしき)をつくりだすことになった。
大名(だいみょう)屋敷(やしき)はその役割(やくわり)で、みっつに区別(くべつ)される。
上(かみ)屋敷(やしき) 大名(だいみょう)小路(こうじ)など、江戸城(えどじょう)内郭(ないかく)におかれ(明暦(めいれき)の大火(たいか)以前(いぜん)はね)、大名(だいみょう)本人(ほんにん)が住(す)み、江戸城(えどじょう)へ出仕(しゅっし)(出勤(しゅっきん))するのに便利(べんり)。
中(なか)屋敷(やしき) 外堀(そとぼり)の内側(うちがわ)にあって、大名(だいみょう)の奥(おく)さんや子ども(こども)たちが住(す)む屋敷(やしき)。上(かみ)屋敷(やしき)を補佐(ほさ)する役目(やくめ)もある。
下(しも)屋敷(やしき) 外堀(そとぼり)の外(そと)に建(た)てられた。大(おお)きな庭園(ていえん)などがあって別荘(べっそう)として使(つか)われた。

江戸城(えどじょう)の東(ひがし)部分(ぶぶん)、「大名(だいみょう)小路(こうじ)」とよばれる地域(ちいき)は大名(だいみょう)屋敷(やしき)がずらりとならんだ。もっとも、明暦(めいれき)の大火(たいか)(1657)以降(いこう)は、御三家(ごさんけ)の引(ひ)っ越(こ)しにともなって、これらの大名(だいみょう)たちも屋敷(やしき)替(が)えをしなければならなかったけれど。それまでは、だいたいこんな配置(はいち)だった。

譜代(ふだい)大名(だいみょう)の屋敷(やしき)(関ヶ原(せきがはら)の戦(たたか)い前(まえ)からの徳川(とくがわ)の家臣(かしん))

江戸城(えどじょう)正(せい)門(もん)(大手(おおて)門(もん))一帯(いったい)。中(なか)でも、老中(ろうじゅう)・若年寄(わかどしより)といった幕府(ばくふ)の重要(じゅうよう)な役職(やくしょく)者の屋敷(やしき)は、本丸(ほんまる)大手(おおて)門(もん)、西(にし)の丸(まる)大手(おおて)門(もん)に近(ちか)い「西(にし)の丸(まる)下(した)」に置(お)かれた。このあたりはもう「松平(まつだいら)」姓(せい)の屋敷(やしき)のオンパレードなんだ。

外様(とざま)大名(だいみょう)の屋敷(やしき)(関ヶ原(せきがはら)の戦(たたか)い後(ご)に徳川(とくがわ)の家臣(かしん)となった大名(だいみょう))

大名(だいみょう)小路(こうじ)の右(みぎ)うずまきを延(の)ばした先(さき)の日比谷(ひびや)門(もん)に区切(くぎ)られたむこうに屋敷(やしき)が置(お)かれた。日比谷(ひびや)、桜田(さくらだ)、霞ヶ関(かすみがせき)の一帯(いったい)で、赤坂(あかさか)ため池(いけ)まで続(つづ)いた。

 

おまけ 大名(だいみょう)じゃないんだけど

旗本(はたもと)屋敷(やしき)

旗本とは…赤坂(あかさか)門(もん)から喰違(くいちがい)門(もん)、四谷(よつや)門(もん)、市ヶ谷(いちがや)門(もん)、牛込(うしごめ)門(もん)、筋違橋(すじちがいばし)門(もん)の一帯(いったい)にあった。このあたりは麹町(こうじまち)台地(だいち)があって川(かわ)が少(すく)なく、自然(しぜん)の地形(ちけい)だけでは防衛(ぼうえい)が十分(じゅうぶん)でなかった。だから、将軍(しょうぐん)直属(ちょくぞく)の家臣(かしん)である旗本(はたもと)をたくさん置(お)いて、江戸城(えどじょう)の守(まも)りをかためた。そこから「番町(ばんちょう)」という町(まち)の名(な)もおこった。

江戸城内郭全図

幕末(ばくまつ)江戸(えど)城門(じょうもん)絵図(えず)

幕末江戸城門絵図

  1. 西(にし)の丸(まる)大手(おおて)門(もん)
  2. 坂下(さかした)門(もん)
  3. 西(にし)の丸(まる)書院前(しょいんまえ)門(もん)
  4. 西(にし)の丸(まる)裏(うら)門(もん)
  5. 仲仕切(なかしきり)門(もん)
  6. 吹上(ふきあげ)門(もん)
  7. 山里(やまざと)門(もん)
  8. 大田(おおた)門(もん)
  9. 紅葉山(もみじやま)下(した)門(もん)
  10. 半蔵(はんぞう)御庭(おにわ)入口(いりぐち)門(もん)
  11. 西(にし)門(もん)
  12. 植木(うえき)門(もん)
  13. 矢来(やらい)門(もん)
  14. 新門(しんもん?あたらしもん?)
  15. 一之(いちの)門(もん)
  16. ニ之(にの)門(もん)
  17. 入隅(いりすみ)門(もん)
  18. 御成(おなり)門(もん)
  19. 十三間(じゅうさんげん)門(もん)
  20. 鷹(たか)門(もん)
  21. 御橋(おはし)門(もん)
  22. 和田倉(わだくら)門(もん)
  23. 馬場先(ばばさき)門(もん)
  24. 日比谷(ひびや)門(もん)
  25. 外桜田(そとさくらだ)門(もん)
  26. 半蔵(はんぞう)門(もん)
  27. 田安(たやす)門(もん)
  28. 清水(しみず)門(もん)
  29. 雉子橋(きじばし)門(もん)
  30. 竹橋(たけばし)門(もん)
  31. 一ツ橋(ひとつばし)門(もん)
  32. 神田橋(かんだばし)門(もん)
  33. 常磐橋(ときわばし)門(もん)
  34. 呉服橋(ごふくばし)門(もん)
  35. 鍛冶橋(かじばし)門(もん)
  36. 数寄屋橋(すきやばし)門(もん)
  37. 山下橋(やましたばし)門(もん)
  38. 幸橋(さいわいばし)門(もん)
  39. 虎ノ(とらの)門(もん)
  40. 赤坂(あかさか)門(もん)
  41. 喰違(くいちがい)門(もん)
  42. 四谷(よつや)門(もん)
  43. 市ヶ谷(いちがや)門(もん)
  44. 牛込(うしごめ)門(もん)
  45. 小石川(こいしかわ)門(もん)
  46. 筋違橋(すじちがいばし)門(もん)
  47. 浅草橋(あさくさばし)門(もん)

これが江戸城(えどじょう)本丸(ほんまる)御殿(ごてん)内部(ないぶ)だ!

江戸城本丸御殿内部

 これが江戸城(えどじょう)本丸(ほんまる)御殿(ごてん)内部(ないぶ)だ!  解説編(かいせつへん) 

表(おもて)

将軍(しょうぐん)への謁見(えっけん)(お目通(めどお)り)その他(た)の儀式(ぎしき)のための広間(ひろま)とか、ふだん役人(やくにん)たちが仕事(しごと)をする座敷(ざしき)などがある。
江戸城(えどじょう)の「役所(やくしょ)」のエリアだ。
  1. 中雀(ちゅうじゃく)門(もん)
  2. 能(のう)舞台(ぶたい) 公(おおやけ)の儀式(ぎしき)の日(ひ)などに、ここで能(のう)がおこなわれる。
  3. 大広間(おおひろま) 畳(たたみ)の数(かず)で400畳(じょう)をこす、文字通(もじどお)りの大広間(おおひろま)。儀式(ぎしき)・公式(こうしき)行事用(ぎょうじよう)の部屋(へや)。
  4. 松之(まつの)廊下(ろうか)
  5. 柳(やなぎ)之間(のま) 大名(だいみょう)が登城(とじょう)した時(とき)の詰所(つめしょ)。(つまり控(ひか)えの間(ま))
  6. 蘇鉄(そてつ)の間(ま) 大名(だいみょう)の供侍(ともざむらい)の詰所(つめしょ)。
  7. 虎(とら)之間(のま) 書院番(しょいんばん)の詰所(つめしょ)。書院番(しょいんばん)というのは江戸城(えどじょう)の警備(けいび)や、将軍(しょうぐん)の江戸(えど)市中(しちゅう)への巡回(じゅんかい)に従(したが)うことなどが主(おも)な仕事(しごと)。
  8. 遠侍(とおざむらい) 御徒(おかち)の詰所(つめしょ)。お目通(めどお)り以下(いか)の下級(かきゅう)武士(ぶし)で、将軍(しょうぐん)の警備(けいび)にあたるのが御徒(おかち)だ。
  9. 目付衆(めつけしゅう)御用所(ごようしょ) 「目付(めつけ)」とは監督(かんとく)する役(やく)の人(ひと)。江戸(えど)時代(じだい)、大名(だいみょう)を監督(かんとく)する役人(やくにん)を「大目付(おおめつけ)」、旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)の監督(かんとく)を「目付(めつけ)」といった。
  10. 帝鑑(ていかん)之間(のま) ここも大名(だいみょう)登城(とじょう)のさいの詰所(つめしょ)。
  11. 白書院(しろしょいん) 公式(こうしき)行事用(ぎょうじよう)の部屋(へや)だけれど「大広間(おおひろま)」にくらべると、ちょっと内輪(うちわ)の儀式(ぎしき)用(よう)。
  12. 菊(きく)之間(のま) 番頭(ばんがしら)の詰所(つめしょ)。警備(けいび)、護衛(ごえい)の仕事(しごと)をする人(ひと)を番方(ばんかた)(または番衆(ばんしゅう))といったが、番頭(ばんがしら)はその頭(かしら)の人(ひと)のこと。
  13. 大名のおべんとうって…すごくごうかなんだろうなあ 雁(かり)之間(のま) ここも大名(だいみょう)登城(とじょう)のさいの詰所(つめしょ)。
  14. 芙蓉(ふよう)之間(のま) 勘定(かんじょう)奉行(ぶぎょう)、寺社(じしゃ)奉行(ぶぎょう)、町(まち)奉行(ぶぎょう)など江戸(えど)時代(じだい)にはいろいろな「お奉行(ぶぎょう)さま」がいたが、その詰所(つめしょ)。
  15. 黒書院(くろしょいん) 11白書院(しろしょいん)と役割(やくわ)り同(おな)じ。
  16. 御用(ごよう)部屋(べや) 老中(ろうじゅう)・若年寄(わかどしより)が詰(つ)める。かなり奥(おく)まった位置(いち)にあるし、部屋(へや)の中(なか)に、密談(みつだん)の時(とき)、火(ひ)ばしで字(じ)を書(か)くための「いろり」があるところなど、なかなかのもんだ。
  17. 台所(だいどころ) 将軍(しょうぐん)の食事(しょくじ)を用意(ようい)するところ。大名(だいみょう)たちは、登城(とじょう)の時(とき)はそれぞれの屋敷(やしき)からお弁当(べんとう)が届(とど)いたらしい。
  18.  台所(だいどころ)前(まえ)三重(さんじゅう)櫓(やぐら) 

中奥(なかおく)

将軍(しょうぐん)の官邸(かんてい)。住居(じゅうきょ)であるとともに、将軍(しょうぐん)が書類(しょるい)に目(め)を通(とお)す仕事(しごと)の場(ば)でもあった。「表(おもて)」とひとつづきだ。

  1. 地震(じなえ)之間(のま) 耐震(たいしん)建築(けんちく)。さすがに地震(じしん)国(こく)日本(にっぽん)。こういう施設(しせつ)もあったんだねえ。
  2. 御休息(ごきゅうそく) 将軍(しょうぐん)の寝室(しんしつ)。
  3. 湯殿(ゆどの) もちろん、おフロだ。
  4. 井呂裏之間(いろりのま) 将軍(しょうぐん)がおそばの者(もの)と楽(たの)しくおしゃべりするための部屋(へや)。
  5. 御座(ござ)之間(のま) 将軍(しょうぐん)のふだんの部屋(へや)であるとともに仕事(しごと)部屋(べや)でもある。
  6. 奥(おく)能(のう)舞台(ぶたい) こちらの能(のう)舞台(ぶたい)は「表(おもて)」の舞台(ぶたい)とちがって、将軍(しょうぐん)自身(じしん)の楽(たの)しみのためのもの。
  7. 側用人(そばようにん)の部屋(へや) このあたりは将軍(しょうぐん)の身(み)のまわりの世話(せわ)をする側用人(そばようにん)の控(ひか)えの部屋(へや)などがある。
  8. 奥(おく)坊主(ぼうず)部屋(べや) 将軍(しょうぐん)にお茶(ちゃ)をいれたり、大名(だいみょう)の接待(せったい)をする役(やく)の坊主(ぼうず)を奥(おく)坊主(ぼうず)といった。

奥(おく)(おく、またの名(な)を「大奥(おおおく)」)

将軍(しょうぐん)の私邸(してい)。御台所(みだいどころ)(奥(おく)さん)を中心(ちゅうしん)に、将軍(しょうぐん)の子(こ)どもや奥(おく)女中(じょちゅう)たちが生活(せいかつ)する。「中(なか)奥(おく)」とは塀(へい)で仕切(しき)られていて、「御鈴(おすず)廊下(ろうか)」と呼(よ)ぶ、長(なが)い廊下(ろうか)だけでつながっている。中(なか)は大(おお)きく3つのエリアに分(わ)かれる。

くるしゅうなーい (1)大奥(おおおく)御殿(ごてん)向(むき) 将軍(しょうぐん)の御台所(みだいどころ)(奥(おく)さん)の住居(じゅうきょ)のエリア。

(2)御広敷(おひろしき) 大奥(おおおく)の事務(じむ)をとり扱(あつか)う役所(やくしょ)のエリア。

(3)長局向(ながつぼねむき) 奥(おく)女中(じょちゅう)たちの生活(せいかつ)するエリア。

  1. 新座敷(しんざしき) 将軍(しょうぐん)のお母(かあ)さんの住居(じゅうきょ)。
  2. 御殿(ごてん)
  3. 対面所(たいめんしょ) 外(そと)からのお客(きゃく)さまを接待(せったい)するための部屋(へや)。
  4. 御座(ござ)之間(のま) このあたりが将軍(しょうぐん)と御台所(みだいどころ)(奥(おく)さん)が対面(たいめん)するための部屋(へや)。
  5. 御休息(ごきゅうそく)之間(のま)、御化粧(おけしょう)之間(のま) このあたりが御台所(みだいどころ)(奥(おく)さん)のふだんの部屋(へや)。
  6. 長局(ながつぼね) 奥(おく)女中(じょちゅう)たちの部屋(へや)。

7.虎(とら)之間(のま)

将軍しょうぐんと対面たいめんの儀式ぎしきなどをするの虎之間に大名だいみょうたちは玄関げんかんからはいり、遠侍とおざむらいを通とおって大広間おおひろまへ向むかう。
虎とら之間のまは遠侍とおざむらいと大広間おおひろまをつなぐ位置いちにある部屋へや。大名だいみょうや将軍しょうぐんの館やかたでは、玄関げんかんや、それにつづくお客きゃくを迎むかえる部屋へやを虎とらと竹たけの絵えで飾かざることが多おおい。
虎とら之間のまは36畳じょうもある広ひろい部屋へやだ。虎とらと竹たけのふすま絵えは幕府ばくふの権威けんいと武士ぶしの勇いさましさの象徴しょうちょうだ。入側いりがわを通とおる大名だいみょうたちが建具たてぐのすきまからこの部屋へやをのぞいた時ときに目めにはいるよう、虎とらは部屋へやの東面ひがしめんと北面きためんに描えがかれていた。


ぼくってそんないさましい?

10.帝鑑(ていかん)之間(のま

格天井帝鑑の間

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごうてんじょう (注釈)で、ふすまには 唐とう(むかしの中国ちゅうごくの王朝おうちょう)の皇帝こうていが描えがかれている。
10万石まんごく以上いじょうの譜代ふだい大名だいみょうや交代こうたい寄合よりあい(3,000石

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごく以上いじょうの旗本はたもとで役職やくしょくにつかない者もの。大名だいみょうに準じゅんじる。)が詰つめる部屋へや。
本丸ほんまる御殿ごてんの表おもてには大広間おおひろまから白書院しろしょいん・黒書院くろしょいんのエリアにかけて柳やなぎ之間のま・雁かり之間のま・大おお廊下ろうかなど大名だいみょうの詰所つめしょとなる部屋へやがあちこちにある。
どの大名だいみょうがどの部屋へやに詰つめるかは、その格式かくしきによって、きっちり、厳きびしく定さだめられていた。
(注釈)格天井ごうてんじょう;木きを1メートルくらいの間隔かんかくで正方形せいほうけいに組くみ、上うえに板いたを張はった天井てんじょう。


入側とは座敷と縁側の間の通路のことなんだよ

31.大奥(おおおく)新(しん)御殿(ごてん)(御休息(ごきゅうそく)之間(のま)など)

大奥(おおおく)新(しん)御殿(ごてん)の上段(じょうだん)・下段(げだん)・ニ(に)之大奥新御殿間(のま)・御休息(ごきゅうそく)之間(のま)の4部屋(へや)には、春(はる)の桜(さくら)、秋(あき)の紅葉(もみじ)など、四季(しき)の風景(ふうけい)が色(いろ)あざやかに描(えが)かれていた。
なんて華やかなお部屋!
 

総構(そうがま)え完成(かんせい)(寛永(かんえい)17年(ねん)・1640)のころの江戸城(えどじょう)外観(がいかん)

総構え完成(1640)のころの江戸城外観

大手門から本丸御殿表玄関まではおよそ600メートル

  1. 富士見(ふじみ)櫓(やぐら) 慶長(けいちょう)11年(ねん)(1606)に建(た)てられた三重(さんじゅう)櫓(やぐら)。伏見(ふしみ)櫓(やぐら)、桜田(さくらだ)巽(たつみ)櫓(やぐら)とともに今(いま)も残(のこ)る。
  2. 月見(つきみ)櫓(やぐら)
  3. 能(のう)舞台(ぶたい)
  4. 中雀(ちゅうじゃく)門(もん)
  5. 大広間(おおひろま)
  6. 松之(まつの)廊下(ろうか)
  7. 白書院(しろしょいん)
  8. 黒書院(くろしょいん)
  9. 地震(じなえ)之間(のま)
  10. 御座(ござ)之間(のま)
  11. 御休息(ごきゅうそく)之間(のま)
  12. 仕切(しき)り垣(がき) 奥(おく)と中(なか)奥(おく)の仕切(しき)り
  13. 御守殿(ごしゅでん)
  14. 遠侍(とおざむらい)
  15. 大(おお)台所(だいどころ)
  16. 大天守(だいてんしゅ)
  17. 乾(いぬい)櫓(やぐら)
  18. 北拮橋(きたはねばし)門(もん)
  19. 五十三間(ごじゅうさんげん)櫓(やぐら)
  20. 局(つぼね)
  21. 上梅林坂(かみばいりんざか)門(もん)
  22. 梅林坂(ばいりんざか) 文明(ぶんめい)10年(ねん)(1478)、道灌(どうかん)がここに菅原道真(すがわらみちざね)(天神(てんじん)さまだ)をまつった時(とき)、梅(うめ)の木(き)を数百本(すうひゃっぽん)植(う)えたので、その時(とき)からついた名(な)かもしれない。
  23. 下梅林坂(しもばいりんざか)門(もん)
  24. 北(きた)櫓(やぐら)
  25. 艮(うしとら)櫓(やぐら)
  26. 文庫(ぶんこ)
  27. 松倉(まつくら)櫓(やぐら)
  28. 東照宮(とうしょうぐう)
  29. 汐見坂(しおみざか) 二(に)の丸(まる)から本丸(ほんまる)へあがる坂(さか)。日比谷(ひびや)入江(いりえ)を埋(う)め立(た)てる前(まえ)は、ここから海(うみ)が見(み)えた。それで「汐見(しおみ)」と名(な)がついている。
  30. 茶亭(ちゃてい)
  31. 下乗橋(げじょうばし)
  32. 白鳥堀(しらとりぼり)
  33. 台所(だいどころ)前(まえ)櫓(やぐら) これも慶長(けいちょう)11年(ねん)(1606)建築(けんちく)か?三重(さんじゅう)櫓(やぐら)でありました。
  34.  大手(おおて)三(さん)の門(もん) 
  35. 中(なか)の門(もん)
  36. 寺沢(てらざわ)櫓(やぐら) いつごろの建築(けんちく)かは不明(ふめい)。明治(めいじ)6年(ねん)(1873)ごろ、とりこわされたのかも…(不明(ふめい)なんです。)二重(にじゅう)櫓(やぐら)だったのではないかという。

皇居へいったら

 

 参考(さんこう)資料(しりょう)はパート1を見(み)てね! 

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13.小平こだいらの道 14.小平歳時記
15.小平の新田 16.古い地名
19.公園に行こうよ! 26.小平のごちそう うどん
36.ぼくらの町の仕事(1)こだいらの農業 37.ぼくらの町の仕事(2)こだいらの商業

多摩に関すること

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20.風雲!新選組 21.楽しい施設ガイド
25.東京のできるまで 27.神奈川県から東京府へ多摩移管百年うそ?ほんと?クイズ
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35.多摩の酒造 39.江戸時代の東京  文化文政(1800年代初め)の三多摩編

江戸・東京に関すること

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23.幸運招来! 東京七福神めぐり 24.東京の水道
28.江戸をたのしむ 30.わたしのまちの木・花・鳥とシンボルマーク
38.江戸時代の東京  文化文政(1800年代初め)の特別区編 40.花の江戸城  Part1
41.花の江戸城  Part2  

玉川上水・小金井桜に関すること

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3.玉川上水をしりたい 7.玉川上水とあそぼう!
17.満開!小金井桜 31.野火止用水をゆけば

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33.これが武蔵国だっ! 34.地震にそなえて

掲載日 令和7年8月1日