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17.満開(まんかい)! 小金井(こがねい)桜(ざくら)

名勝(めいしょう)小金井桜(こがねいざくら)縁起(えんぎ)

  江戸(えど)時代(じだい)は元文(げんぶん)2年(ねん)(と言(い)われているが…)。将軍(しょうぐん)吉宗(よしむね)の命(めい)を受(う)け、武蔵野(むさしの)新田(しんでん)の発展(はってん)に力(ちから)を尽(つ)くす川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)は、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の両岸(りょうがん)に桜(さくら)を植(う)えた。小金井橋(こがねいばし)を中心(ちゅうしん)に、東西(とうざい)およそ1里(り)(4キロメートルぐらい)の間(あいだ)に、吉野(よしの)や桜川(さくらがわ)からとりよせた桜(さくら)並木(なみき)ができたのだ。
  植(う)えた理由(りゆう)は、桜(さくら)の花(はな)が上水(じょうすい)に落(お)ちると解毒(げどく)のききめがあるから(大切(たいせつ)な飲(の)み水(みず)だもんね)とか、花見客(はなみきゃく)で堤(つつみ)が踏(ふ)み固(かた)められて、崩(くず)れを防(ふせ)ぐから、とか、ここが名所(めいしょ)となればまわりの新田(しんでん)の発展(はってん)になるからとか、いろいろあげられている。江戸(えど)から6里(り)あまり(25キロメートルくらいか)も離(はな)れていて、不便(ふべん)だったから、初(はじ)めのころこそ、人(ひと)に知(し)られていなかったが、享和(きょうわ)(1801~)ごろから、江戸(えど)の文化人(ぶんかじん)をはじめ、花見客(はなみきゃく)が増(ふ)え、小金井桜(こがねいざくら)を紹介(しょうかい)する本(ほん)もたくさん出(で)た。
  天保(てんぽう)15(1844)年(ねん)には、第(だい)13代(だい)将軍(しょうぐん)になる前(まえ)の家定(いえさだ)も花見(はなみ)をしている。なにしろ徳川家(とくがわけ)のあととり息子(むすこ)だから、その日(ひ)の前後(ぜんご)はもう大(おお)さわぎだ。
  火(ひ)を出(だ)すな。犬(いぬ)・牛(うし)・馬(うま)はしっかりつないでおけ。家(いえ)の中(なか)でじっと静(しず)かにしていろ…などなどまわりの村々(むらむら)におふれがまわった。明治(めいじ)になると天皇(てんのう)も花見(はなみ)に行幸(ぎょうこう)されたよ。
  明治(めいじ)のころの庶民(しょみん)の花見(はなみ)は、歩(ある)きのほかに、甲武(こうぶ)鉄道(てつどう)(今(いま)のJR(ジェイアール)中央線(ちゅうおうせん))や川越線(かわごえせん)(今(いま)の西武(せいぶ)国分寺線(こくぶんじせん))を利用(りよう)した。八木節(やぎぶし)や追分(おいわけ)などを歌(うた)う芸人(げいにん)や茶店(ちゃみせ)もでた。お酒(さけ)や、だんごや、里(さと)いものゆでたのを売(う)った。まわりの農家(のうか)も、花見(はなみ)の時期(じき)はみせをだしたらしい。おみやげ屋(や)も出(で)て、造花(ぞうか)の桜(さくら)のかんざしや、お菓子(かし)を売(う)った。
  酔(よ)っぱらいの中(なか)には、行儀(ぎょうぎ)の悪(わる)い人(ひと)もいて、上水(じょうすい)に落(お)っこちたり、ケンカをしたり、酒(さけ)の空(あき)びんを上水(じょうすい)に投(な)げこんだり…(本当(ほんとう)に悪(わる)いやつだよ)。地元(じもと)の子(こ)どもや若者(わかもの)はびんを網(あみ)ですくって売(う)り、こづかいをかせいだそうだ。

桜(さくら)をまもる

桜をまもるぞー  桜(さくら)も年(とし)を取(と)ってくると、花(はな)の勢(いきお)いがなくなってくる。並木(なみき)を整(ととの)えるには植(う)えついでいかなければならない。けれど、桜(さくら)は玉川(たまがわ)上水(じょうすい)とちがって誰(だれ)が責任(せきにん)を持(も)つのかはっきりしなかった。代官(だいかん)大熊(おおくま)善太郎(ぜんたろう)は家定(いえさだ)の花見(はなみ)をきっかけに小金井桜(こがねいざくら)の名(な)を残(のこ)すのに努(つと)めた。嘉永(かえい)2年(ねん)、上水(じょうすい)沿(ぞ)いの百姓(ひゃくしょう)たちに「由緒(ゆいしょ)ある上水(じょうすい)桜(ざくら)を村々(むらむら)の協力(きょうりょく)で守(まも)れ」とおふれを出(だ)している。そして、この年(とし)、数百本(すうひゃっぽん)の桜(さくら)の植(う)え替(か)えと手入(てい)れがおこなわれた。安政(あんせい)3(1856)年(ねん)にも、大規模(だいきぼ)な植(う)え替(か)えがおこなわれている。苗木(なえぎ)の数(かず)は、境村(さかいむら)13本(ぼん)、梶野(かじの)新田(しんでん)40本(ぽん)、小金井(こがねい)新田(しんでん)121本(ぽん)、鈴木(すずき)新田(しんでん)137本(ほん)と分担(ぶんたん)して、計(けい)311本(ぽん)だった。明治(めいじ)半(なか)ばには、東京(とうきょう)大学(だいがく)理学(りがく)博士(はくし)、三好学(みよしまなぶ)が小金井桜(こがねいざくら)の調査(ちょうさ)を始(はじ)め、保護(ほご)を呼(よ)びかけた。この人(ひと)は「サクラ博士(はかせ)」と言(い)われたよ。東京市(とうきょうし)も力(ちから)を入(い)れはじめ、大正(たいしょう)13年(ねん)には国(くに)の名勝(めいしょう)に指定(してい)。その後(ご)、太平洋戦争(たいへいようせんそう)や公害(こうがい)を経(へ)て、今(いま)、小金井(こがねい)の桜(さくら)は…。

花とあそぶ

「小金井桜(こがねいざくら)」年表(ねんぴょう)

「小金井桜」年表
年 できごと
1737(元文(げんぶん)2) この年(とし)、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の両岸(りょうがん)に桜(さくら)を植(う)える。
1801(寛政(かんせい)13) この年(とし)、国学者(こくがくしゃ)屋代(やしろ)弘賢(ひろかた)が小金井(こがねい)に花見(はなみ)をした時(とき)の様子(ようす)を『不忍(しのばず)叢書(そうしょ)』に書(か)く。
1804(文化(ぶんか)1) 3月(がつ)12日(にち)、俳人(はいじん)(俳句(はいく)をよむ人(ひと))露庵(ろあん)有佐(ゆうさ)(露々庵とも)、小金井(こがねい)に花見(はなみ)をし、『玉花(おうか)勝覧(しょうらん)』を書(か)く。
これより、小金井(こがねい)は江戸(えど)近郊(きんこう)指折(ゆびお)りの桜(さくら)の名所(めいしょ)となる。
1806(文化(ぶんか)3) 2月(がつ)26日(にち)、国学者(こくがくしゃ)屋代(やしろ)弘賢(ひろかた)、再(ふたた)び小金井(こがねい)を訪(おとず)れ、『小金井(こがねい)乃記(のき)』を書(か)く。
2月(がつ)、儒学者(じゅがくしゃ)の佐藤(さとう)一斎(いっさい)、先生(せんせい)の林(はやし)述斎(じゅっさい)と一緒(いっしょ)に小金井(こがねい)に花見(はなみ)。『小金井橋(こがねいばし)観桜記(かんおうき)』を書(か)く。
1809(文化(ぶんか)6) 2月(がつ)30日(にち)、太田(おおた)蜀山人(しょくさんじん)(南畝(なんぽ))、小金井(こがねい)に桜(さくら)見物(けんぶつ)。『調布(ちょうふ)日記(にっき)』にこのことを記(しる)す。
1810(文化(ぶんか)7) 3月(がつ)21日(にち)、「小金井(こがねい)桜樹碑(おうじゅひ)」、小金井橋(こがねいばし)のそばに建(た)つ。
1812(文化(ぶんか)9) この年(とし)、長州(ちょうしゅう)出身(しゅっしん)の村尾(むらお)正靖(まさのぶ/まさやす?)という人(ひと)が小金井(こがねい)に花見(はなみ)をし、『嘉陵紀行(かりょうきこう)』を書(か)く。
1813(文化(ぶんか)10) 2月(がつ)23日(にち)、江戸(えど)郭然寺(かくねんじ)の住職(じゅうしょく)、釈敬順(しゃくけいじゅん)が小金井(こがねい)に花見(はなみ)。『遊暦雑記(ゆうれきざっき)』を書(か)く。
1833(天保(てんぽう)4) この年(とし)、『江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)』に小金井桜(こがねいざくら)が紹介(しょうかい)される。
1838(天保(てんぽう)9) この年(とし)、代官(だいかん)大熊(おおくま)善太郎(ぜんたろう)、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)堤(づつみ)に桜(さくら)の苗木(なえぎ)406本(ぽん)を植(う)えたす。
1849(嘉永(かえい)2) 1月(がつ)、代官(だいかん)大熊(おおくま)善太郎(ぜんたろう)、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)沿(ぞ)いの村(むら)の百姓(ひゃくしょう)たちに、上水(じょうすい)桜(ざくら)の面倒(めんどう)を見(み)させる。
1851(嘉永(かえい)4) この年(とし)、下田(しもだ)半兵衛(はんべえ)、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)のほとりに桜(さくら)の手入(てい)れの模様(もよう)を記(しる)した碑(ひ)(「桜樹接種碑(おうじゅせっしゅひ)」)を建(た)てる。
1855(安政(あんせい)2) 8月(がつ)、境村(さかいむら)・梶野(かじの)新田(しんでん)・小金井(こがねい)新田(しんでん)・鈴木(すずき)新田(しんでん)の4か村(そん)に、小金井桜(こがねいざくら)の苗木(なえぎ)や肥料(ひりょう)などの費用(ひよう)を配(くば)るため、代官(だいかん)小林(こばやし)藤之助(とうのすけ)の部下(ぶか)、秋山(あきやま)茂八郎(もはちろう)、出張(しゅっちょう)する。
1856(安政(あんせい)3) この年(とし)、小金井桜(こがねいざくら)の植(う)え足(た)し、大規模(だいきぼ)に行(おこな)う。
1883(明治(めいじ)16) 4月(がつ)23日(にち)、明治(めいじ)天皇(てんのう)、小金井(こがねい)に遠乗(とおの)り。花見(はなみ)をする。
1884(明治(めいじ)17) 4月(がつ)26日(にち)、皇太后(こうたいごう)と皇后(こうごう)、小金井(こがねい)に花見(はなみ)。
1901(明治(めいじ)34) この年(とし)、大町(おおまち)桂月(けいげつ)、『小金井(こがねい)の桜(さくら)』を書(か)く。
1902(明治(めいじ)35) 4月(がつ)、「明治(めいじ)天皇(てんのう)行幸(ぎょうこう)松碑(まつひ)」を建(た)てる。
1903(明治(めいじ)36) 5月(がつ)、皇太子(こうたいし)、小金井(こがねい)に花見(はなみ)。
1907(明治(めいじ)40) この年(とし)、東京(とうきょう)大学(だいがく)理学(りがく)博士(はくし)、三好学(みよしまなぶ)が小金井桜(こがねいざくら)の調査(ちょうさ)を行(おこな)う。
1912(明治(めいじ)45) 4月(がつ)、史蹟(しせき)名勝(めいしょう)天然(てんねん)記念物(きねんぶつ)協会(きょうかい)と三好学(みよしまなぶ)、東京市(とうきょうし)に小金井桜(こがねいざくら)の保護(ほご)を願(ねが)い出(で)る。
1913(大正(たいしょう)2) 小金井(こがねい)・小平(こだいら)・保谷(ほうや)・武蔵野(むさしの)4か村(そん)の有志(ゆうし)で「小金井(こがねい)保桜会(ほおうかい)」(小金井桜(こがねいざくら)を守(まも)る会(かい))がつくられる。
1923(大正(たいしょう)12) この年(とし)の調査(ちょうさ)では、小金井桜(こがねいざくら)は、南(みなみ)の岸(きし)761本(ぽん)、北(きた)の岸(きし)710本(ぽん)の計(けい)1、471本(ぽん)あった。
1924(大正(たいしょう)13) 12月(がつ)9日(か)、小金井桜(こがねいざくら)、国(くに)の名勝(めいしょう)に指定(してい)される。
1927(昭和(しょうわ)2) この年(とし)、三好学(みよしまなぶ)、『小金井(こがねい)桜花図説(おうかずせつ)1・2』を出版(しゅっぱん)する。
   太平洋戦争(たいへいようせんそう)中(ちゅう)と、戦後(せんご)の混乱(こんらん)した時代(じだい)には桜(さくら)の手入(てい)れどころではなく、燃料(ねんりょう)にするため、枝(えだ)を切(き)られたりして、小金井桜(こがねいざくら)はかなり痛(いた)めつけられた。
昭和(しょうわ)29年(ねん)には五日市(いつかいち)街道(かいどう)が拡張(かくちょう)。
昭和(しょうわ)43~53年(ねん)、小金井市(こがねいし)で360本(ぽん)ほど植(う)え足(た)したりしたが…。
排気(はいき)ガス、その他(た)の原因(げんいん)でこのごろは、老木(ろうぼく)は枯(か)れ、若木(わかぎ)は育(そだ)たなくなってしまった。

江戸時代の2月は今の3月にあたるのよ

小平(こだいら)周辺(しゅうへん)桜(さくら)マップ

小平周辺桜マップ

1.中央(ちゅうおう)公民館(こうみんかん)南側(みなみがわ)

たかの街道(かいどう)沿(ぞ)い、中央(ちゅうおう)公民館(こうみんかん)よこの道(みち)は、ちょっとした桜(さくら)並木(なみき)。
ベンチもあるし、帰(かえ)りにとなりの中央(ちゅうおう)図書館(としょかん)によるのもGood!だ。

2.警察学校(けいさつがっこう)北門(きたもん)前(まえ)

ここからあかしあ通(どお)りに出(で)るまでの歩道(ほどう)50メートルは桜(さくら)の並木(なみき)道(みち)。

3.警察学校(けいさつがっこう)正門(せいもん)前(まえ)

桜(さくら)の木(き)40本(ぽん)あまりがつくるピンクのトンネル。ここはゴージャスだぞ。
ただし、花(はな)に見(み)とれて車道(しゃどう)に飛(と)び出(だ)してはいけない。

4.玉川(たまがわ)上水(じょうすい)堤(づつみ)

やせても、枯(か)れても小金井桜(こがねいざくら)だ。
排気(はいき)ガスにやられても、毎年(まいとし)健気(けなげ)に花(はな)を咲(さ)かせている。

5.狭山(さやま)・境(さかい)緑道(りょくどう)

都立(とりつ)狭山(さやま)公園(こうえん)から、武蔵野(むさしの)市(し)境(さかい)浄水場(じょうすいじょう)まで10.5キロメートルの遊歩道(ゆうほどう)。ここの花(はな)小金井(こがねい)駅(えき)東(ひがし)から小金井(こがねい)駅(えき)近くの3キロメートルの間(あいだ)は、地元(じもと)の人(ひと)たちが植(う)えたソメイヨシノ240本(ぽん)!の桜(さくら)並木(なみき)。

6.小金井(こがねい)公園(こうえん)

面積(めんせき)70万(まん)平方(へいほう)メートル。武蔵野(むさしの)の面影(おもかげ)を残(のこ)すこの公園(こうえん)。
今(いま)では、衰(おとろ)えた玉川(たまがわ)上水(じょうすい)堤(づつみ)の桜(さくら)にかわって花見(はなみ)の名所(めいしょ)となっている。
山桜(やまざくら)、ソメイヨシノを中心(ちゅうしん)にその数(かず)2,000本(ぼん)。

江戸(えど)時代(じだい)の小金井桜(こがねいざくら)花見(はなみ)のためのイラスト・マップ

江戸時代のイラストマップ

「柏屋(かしわや)」のこと…

  「柏屋(かしわや)」は、江戸(えど)のころから小金井橋(こがねいばし)のたもとにあった花見(はなみ)茶屋(ちゃや)。今(いま)はガソリンスタンドとなって、その名(な)を残(のこ)している。御幸町(みゆきちょう)の東南端(とうなんたん)、小金井市(こがねいし)との境目(さかいめ)のところだ。七代目(だいめ)までは代々(だいだい)勘兵衛(かんべえ)を名(な)のり、このあたり一番(ばん)の料亭(りょうてい)だった。
  毎年(まいとし)、花見(はなみ)の時分(じぶん)には、酒(さけ)・しょうゆ・寿司(すし)・鮎(あゆ)などの川魚(かわざかな)・卵(たまご)・野菜(やさい)をうんと仕入(しい)れ、料理人(りょうりにん)やら、給仕女(きゅうじおんな)やら、2~30人(にん)もの人(ひと)を雇(やと)い入(い)れていた。
  明治(めいじ)天皇(てんのう)が行幸(ぎょうこう)の時(とき)も、柏屋(かしわや)の前(まえ)の堤(つつみ)に休憩所(きゅうけいじょ)が設(もう)けられた。明治(めいじ)の頃(ころ)には、柏屋(かしわや)の他(ほか)にも、花見(はなみ)時(どき)の料理屋(りょうりや)や休憩所(きゅうけいじょ)が、上水(じょうすい)の両岸(りょうがん)やまわりの空(あ)き地(ち)にずらり並(なら)んだ。紅白(こうはく)の幕(まく)を張(は)り、赤(あか)いもうせん(フェルトみたいな敷物(しきもの))を敷(し)き、ちょうちんもつるした。
  お寿司(すし)・お菓子(かし)・だんご・里(さと)いものゆでたの・早(はや)堀(ぼ)りのタケノコ・鮎(あゆ)などを用意(ようい)した。他(ほか)に名(な)の残(のこ)るみせでは茜屋橋(あかねやばし)そばの茜屋(あかねや)、角屋(かどや)などがあった。

「小金井(こがねい)のサクラ」はどこからどこまで?

  国(くに)が名勝(めいしょう)として指定(してい)しているのは、小平市(こだいらし)学園(がくえん)西町(にしまち)1丁目(ちょうめ)商大(しょうだい)橋(ばし)の上流(じょうりゅう)から、武蔵野(むさしの)市(し)関前(せきまえ)5丁目(ちょうめ)境橋(さかいばし)まで。

その後(ご)の小金井桜(こがねいざくら)

むかしの人はみんな歩いてやってきた  小金井桜(こがねいざくら)が花見客(はなみきゃく)でにぎわったのは、昭和(しょうわ)の初(はじ)めごろまでという。茶屋(ちゃや)は土手(どて)にえんえんと続(つづ)き、流(なが)しは歌(うた)を歌(うた)い、人(ひと)びとは仮装(かそう)したりして花見(はなみ)を楽(たの)しんだ。
  大正(たいしょう)から昭和(しょうわ)2年(ねん)にかけてつくられた村山(むらやま)貯水池(ちょすいち)は小金井桜(こがねいざくら)の花見客(はなみきゃく)をめちゃくちゃに減(へ)らした。それと昭和(しょうわ)元(がん)年(ねん)、小金井(こがねい)駅(えき)ができたことも、さびれた理由(りゆう)の一(ひと)つだという。駅(えき)が武蔵境(むさしさかい)と国分寺(こくぶんじ)しかなかった頃(ころ)は、花見(はなみ)の客(きゃく)はふたつの駅(えき)の間(あいだ)の上水(じょうすい)べりを往(ゆ)き来(き)して、堤(つつみ)もにぎわった。が、小金井(こがねい)駅(えき)ができると駅(えき)から小金井橋(こがねいばし)にまっすぐ行(い)って、そのまんまとんぼ返(がえ)りする客(きゃく)が増(ふ)え、堤(つつみ)をそぞろ歩(ある)く人(ひと)は少(すく)なくなった。
 

お江戸(えど)の本(ほん)に書(か)かれた小金井桜(こがねいざくら)

1.「四神(しじん)地名録(ちめいろく)」  寛政(かんせい)6(1794)年(ねん)・古河(ふるかわ)古松軒(こしょうけん)

  小金井桜(こがねいざくら)をはじめてとりあげた本(ほん)。古河(ふるかわ)古松軒(こしょうけん)は岡山(おかやま)出身(しゅっしん)の幕府(ばくふ)の役人(やくにん)。あちこちの土地(とち)で、人々(ひとびと)のくらしぶりをよく観察(かんさつ)した。「四神(しじん)」とは、4つの方角(ほうがく)という意味(いみ)。これは、江戸(えど)の東西(とうざい)南北(なんぼく)の近郊(きんこう)について書(か)いた本(ほん)なんだ。
  「満開(まんかい)の様子(ようす)は何(なん)とも言(い)えぬ絶景(ぜっけい)。江戸(えど)に近(ちか)ければ、もっと人(ひと)が集(あつ)まるだろうに…。ほめる人(ひと)もないのに、毎年(まいとし)毎年(まいとし)、咲(さ)いては散(ち)るのは可憐(かれん)なことだ。」と言(い)っている。
  この本(ほん)に書(か)かれてから、江戸(えど)の人々(ひとびと)もだんだん小金井桜(こがねいざくら)の美(うつく)しさを知(し)るようになった。

2.「享和(きょうわ)雑記(ざっき)」

  「四神(しじん)地名録(ちめいろく)」より6~7年後(ねんご)に書(か)かれたらしい。享和(きょうわ)年間(ねんかん)の町(まち)の様子(ようす)を書(か)く。小金井(こがねい)を行楽地(こうらくち)として紹介(しょうかい)した最初(さいしょ)の本(ほん)。
  寛政(かんせい)の改革(かいかく)も一段落(いちだんらく)して、レクリエーションを求(もと)める江戸(えど)の人々(ひとびと)に、小金井桜(こがねいざくら)の花見(はなみ)が流行(りゅうこう)しはじめる。
  「小金井桜(こがねいざくら)の見事(みごと)なのは、炭(すみ)を運(はこ)んだり、下肥(しもごえ)を汲(く)んでいく、村(むら)から来(く)る連中(れんちゅう)のうわさで聞(き)くとおり。江戸(えど)から7里(り)よりは近(ちか)い。帰(かえ)りには井(い)の頭(がしら)弁天(べんてん)、大宮(おおみや)八幡(はちまん)にも寄(よ)れる。」と書(か)いている。
  ここから先(さき)、小金井桜(こがねいざくら)の花見(はなみ)の紀行文(きこうぶん)がぞくぞく出(で)る。

3.「小金橋(こがねいばし)にあそふことは」   享和(きょうわ)年間(ねんかん)(1801年(ねん)ごろか?)・屋代(やしろ)弘賢(ひろかた)

  屋代(やしろ)弘賢(ひろかた)は、幕府(ばくふ)の御家人(ごけにん)の子(こ)で、国学者(こくがくしゃ)。享和(きょうわ)元(がん)年(ねん)3月(がつ)、44才(さい)の時(とき)、小金井桜(こがねいざくら)の花見(はなみ)をした。
  「桜(さくら)を植(う)えた川崎(かわさき)(平右衛門(へいえもん))の志(こころざし)を生(い)かすため、また、これから花(はな)を訪(たず)ねて行(い)こうとする人(ひと)のため、この文(ぶん)を書(か)いた。」という。

4.辻知篤(つじともあつ)の紀行文(きこうぶん)

  この人(ひと)は、幕府(ばくふ)の御徒士(おかち)(下級(かきゅう)武士(ぶし))。享和(きょうわ)3年(ねん)2月(がつ)24日(か)、友人(ゆうじん)たちと小金井桜(こがねいざくら)の花見(はなみ)をする。朝(あさ)6時(じ)ごろ、牛込(うしごめ)(今(いま)の新宿区(しんじゅくく))の家(いえ)を出(で)て、夜(よる)10時(じ)に家(いえ)に帰(かえ)りつくまでが書(か)かれている。自分(じぶん)の連(つ)れて来(き)た犬(いぬ)を、他(ほか)の犬(いぬ)から守(まも)ったり、道(みち)をまちがえて、さんざんな目(め)にあったり。飾(かざ)らない、珍道中(ちんどうちゅう)の花見(はなみ)なのだ。

5.「玉花(おうか)勝覧(しょうらん)」   文化(ぶんか)元(がん)年(ねん)(1804)・露庵(ろあん)有佐(ゆうさ)

  有佐(ゆうさ)は俳人(はいじん)(俳句(はいく)をつくる人(ひと))。文化(ぶんか)元(がん)年(ねん)3月(がつ)12日(にち)、師匠(ししょう)や友人(ゆうじん)を誘(さそ)って、小金井桜(こがねいざくら)の花見(はなみ)。この紀行文(きこうぶん)は、小金井(こがねい)を江戸(えど)近郊(きんこう)でも指折(ゆびお)りの名所(めいしょ)にのし上(あ)げた。
  題名(だいめい)の「玉花(おうか)勝覧(しょうらん)」は玉川(たまがわ)上水(じょうすい)堤(づつみ)の花見(はなみ)、という意味(いみ)。村(むら)やみせの略図(りゃくず)入(い)りの道(みち)案内(あんない)絵図(えず)が6ページものっていて、ガイドブックとして最適(さいてき)だった。
  ところで、読(よ)み方(かた)なんだけど、どうして「ぎょくかしょうらん」ではないのかなあ。「王」じゃなくて「玉」なのに。

6.「小金井(こがねい)乃記(のき)」   文化(ぶんか)3(1806)年(ねん)・屋代(やしろ)弘賢(ひろかた)

この年(とし)、2月(がつ)26日(にち)。(3)の「小金橋(こがねいばし)にあそふことは」の屋代(やしろ)弘賢(ひろかた)が再(ふたた)び小金井(こがねい)を訪(おとず)れて書(か)いたもの。
「上水(じょうすい)堤(づつみ)には、すみれ、たんぽぽ、かふろ草などが咲(さ)き、南北(なんぼく)には、桜(さくら)や竹(たけ)のむこうに、桃(もも)の花(はな)が眺(なが)められ、たいへん楽(たの)しい。」と言(い)っている。

7.「小金井橋(こがねいばし)観桜記(かんおうき)」   文化(ぶんか)3(1806)年(ねん)・佐藤(さとう)一斎(いっさい)

この年(とし)2月(がつ)、儒学者(じゅがくしゃ)の一斎(いっさい)は、師(し)の述斎(じゅっさい)と小金井桜(こがねいざくら)の花見(はなみ)。ここの桜(さくら)と、隅田川(すみだがわ)の桜(さくら)とではどちらがすぐれているか、話題(わだい)になった。
  「玉川(たまがわ)上水(じょうすい)は、川(かわ)はばが狭(せま)いから、隅田川(すみだがわ)の雄大(ゆうだい)な眺(なが)めには負(ま)ける」と述斎(じゅっさい)が思(おも)った時(とき)、折(お)りからの風(かぜ)で、2人は桜(さくら)吹雪(ふぶき)に包(つつ)まれた。その見事(みごと)さに、述斎(じゅっさい)は「こりゃ、すごい!  わたしがまちがっていた。」と叫(さけ)ぶほかなかった。
  隅田川(すみだがわ)のように混雑(こんざつ)しておらず、しみじみとした趣(おもむ)きのある小金井桜(こがねいざくら)の眺(なが)めの勝(か)ちだ、と述斎(じゅっさい)はぬくい橋(ばし)にたたずんで言(い)いきったとか。

8.「調布(ちょうふ)日記(にっき)」   文化(ぶんか)6(1809)年(ねん)・太田(おおた)蜀山人(しょくさんじん)

  太田(おおた)蜀山人(しょくさんじん)(南畝(なんぽ))は、幕府(ばくふ)の役人(やくにん)でもあり、狂歌(きょうか)・戯作(げさく)を書(か)いた江戸(えど)文学(ぶんがく)のヒーローでもある。
  この年(とし)、2月(がつ)23日(にち)、小金井桜(こがねいざくら)を見(み)る。時(とき)に蜀山人(しょくさんじん)、61才(さい)。
  「ひごろ、桜(さくら)が好(す)きで、江戸(えど)中(じゅう)くまなく見(み)歩(ある)いたけれど、これほど果(は)てなく桜(さくら)を見(み)たことなんてなかった。61才(さい)にしてこんな桜(さくら)は初(はじ)めて見(み)た。今日(きょう)から遠桜山人(えんおうさんじん)と名(な)のる」と感激(かんげき)しているのだ。

9.「嘉陵紀行(かりょうきこう)」   文化(ぶんか)9(1812)年(ねん)ころ・村尾(むらお)正靖(まさのぶ/まさやす?)

とおったコース  「中野(なかの)から堀(ほり)の内妙法寺(うちみょうほうじ)(杉並区(すぎなみく))をすぎ、大宮(おおみや)八幡宮(はちまんぐう)へ詣(もう)で、高井戸(たかいど)を通(とお)って、久我山(くがやま)へ行(い)き、井(い)の頭(がしら)弁財天(べんざいてん)をおまいりして、吉祥寺村(きちじょうじむら)に出(で)、大通(おおどお)りを行(い)って保谷(ほうや)村(むら)。さらに西南(せいなん)へ行(い)けば玉川(たまがわ)上水(じょうすい)に出(で)て、川(かわ)に沿(そ)って西(にし)へ行(い)けば小金井(こがねい)だよ」と言(い)う。こんなコースかな?
 

10.「遊歴(ゆうれき)雑記(ざっき)」   文化(ぶんか)10(1813)年(ねん)・釈敬順(しゃくけいじゅん)(号(ごう)は十方庵(じっぽうあん))

桜と富士山…いいね  この年(とし)2月(がつ)23日(にち)、江戸(えど)小日向(こひなた)水道町(すいどうちょう)の郭然寺(かくねんじ)住職(じゅうしょく)、釈敬順(しゃくけいじゅん)が、小金井桜(こがねいざくら)の花見(はなみ)。
  「花(はな)の時期(じき)は、立春(りっしゅん)の70日後(にちご)くらい。絶景(ぜっけい)は、小金井橋(こがねいばし)からの眺(なが)めで西(にし)には富士箱根(ふじはこね)が見(み)え、両岸(りょうがん)の桜(さくら)は前(まえ)も後(うし)ろも尽(つ)きることがない。」と言(い)う。
 

11.「観花図巻(かんかずかん?)」   文政(ぶんせい)9(1826)年(ねん)・有馬(ありま)誉純(しげすみ)

  この年(とし)3月(がつ)、越前(えちぜん)丸きれいだったねー岡藩(まるおかはん)有馬(ありま)誉純(しげすみ)が息子(むすこ)と家臣(かしん)をともなって小金井(こがねい)へ。大名(だいみょう)の花見(はなみ)だ。
  江戸(えど)から馬(うま)で遠乗(とおの)りし、家(いえ)に帰(かえ)ると花見(はなみ)の紀行(きこう)と、絵(え)と、詩歌(しいか)を集(あつ)め、1冊(さつ)の本(ほん)にした。
  このお殿(との)さまは、文学(ぶんがく)にくわしく、絵(え)もじょうずだったということだ。
 

12.「新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)」

  文化(ぶんか)から文政(ぶんせい)にかけて、徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)が編(へん)さんした武蔵(むさし)の地理(ちり)の本(ほん)。「小金井橋(こがねいばし)、上下(じょうげ)両岸(りょうがん)二里(り)ほどの間(あいだ)に、桜(さくら)の木(き)は数百株(すうひゃくかぶ)。花(はな)の盛(さか)りには、花見(はなみ)の人(ひと)が道(みち)に続(つづ)く。小金井(こがねい)の桜(さくら)として名(な)が高(たか)く、人(ひと)に知(し)られている。」と書(か)いている。

13.「江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)」   天保(てんぽう)4(1833)年(ねん)・斎藤(さいとう)月岺(げっしん)

  江戸(えど)とその近郊(きんこう)の見(み)どころガイドブックの決定版(けっていばん)!  全部(ぜんぶ)で7巻(かん)20冊(さつ)!
  斎藤(さいとう)月岺(げっしん)は神田(かんだ)雉子町(きじちょう)の名主(なぬし)さん。この中(なか)に「金井橋(こがねいばし)」がでてくる。この本(ほん)には、「(小金井桜(こがねいざくら)は)立春(りっしゅん)から54~5日(にち)から咲(さ)きはじめ、60日目(にちめ)満開(まんかい)、70日目(にちめ)で落(お)ちる。」とある。
  4ページにもおよぶ長谷川(はせがわ)雪旦(せったん)のさし絵(え)は人目(ひとめ)をひきつけた。

14.「東都(とうと)歳時記(さいじき)」   天保(てんぽう)7(1836)年(ねん)・斎藤(さいとう)月岺(げっしん)

  「江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)」と同(おな)じく、斎藤(さいとう)月岺(げっしん)が作(つく)った。
  「江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)」より、こちらの方(ほう)が「金井橋(こがねいばし)」の説明(せつめい)がくわしい。

15.「江戸(えど)名所(めいしょ)花暦(はなごよみ)」   天保(てんぽう)8(1837)年(ねん)・岡山(おかやま)鳥(とり)

  天保(てんぽう)ごろの小金井桜(こがねいざくら)の様子(ようす)がよく記(しる)されている。関野(せきの)新田(しんでん)・保谷(ほうや)新田(しんでん)のあたりに、そば、酒(さけ)を売(う)るみせあり、とか。関野(せきの)の真蔵院(しんぞういん)門前(もんぜん)に茶(ちゃ)みせがある、とか。関野(せきの)橋(ばし)と小金井橋(こがねいばし)の間(あいだ)には橋(はし)が2つあるが、丸木(まるき)橋(ばし)かなにかで、農夫(のうふ)が通(かよ)うためのものだ、とか…。
  このころ、小金井橋(こがねいばし)そばにあった茶(ちゃ)みせ柏屋(かしわや)は「この家(いえ)に宿(やど)をとらなくちゃ、花(はな)を全(すべ)て見(み)られない」として1泊(ぱく)する花見客(はなみきゃく)が増(ふ)えたことも書(か)かれている。

小金井桜(こがねいざくら)  由来(ゆらい)の碑(ひ)
碑のある場所

A.小金井(こがねい)桜樹碑(おうじゅひ)  御幸町(みゆきちょう)・海岸寺(かいがんじ)境内(けいだい)

小金井桜樹碑   清水村(しみずむら)(今(いま)の東大和市(ひがしやまとし))の人(ひと)、大久保(おおくぼ)五郎(ごろ)兵衛(べえ)忠休(ただよし?)(号(ごう)は狭南(きょうなん))は、この碑(ひ)を建(た)てたいと願(ねが)いつつ、完成(かんせい)しないまま亡(な)くなった。それを惜(お)しんだ娘(むすめ)むこの石永貞(石子亨)や、狭南(きょうなん)の門下生(もんかせい)らが文化(ぶんか)7(1810)年(ねん)に完成(かんせい)させた。
  碑(ひ)には、小金井桜(こがねいざくら)の由来(ゆらい)を刻(きざ)むとともに、「『武野(ぶや)八景(はっけい)』という本(ほん)に、小金井桜(こがねいざくら)の素晴(すば)らしさを書(か)いたので、江戸(えど)からの見物(けんぶつ)客(きゃく)が増(ふ)えた。文章(ぶんしょう)を書(か)く人(ひと)の中(なか)に、いい加減(かげん)なものもでてきた。
そこでまちがいを防(ふせ)ぐため、石(いし)に刻(きざ)んだ。」とこの碑(ひ)を建(た)てた理由(りゆう)がのべられている。

B.桜樹接種碑(おうじゅせっしゅひ)  小金井市(こがねいし)関野(せきの)町(まち)1丁目(ちょうめ)

桜樹接種碑   街道(かいどう)に面(めん)した側(がわ)には「さくら折(お)るべからず」とあり、裏(うら)には、田無(たなし)の大(おお)名主(なぬし)、下田(しもだ)半兵衛(はんべえ)が建(た)て、無量(むりょう)老人(ろうじん)という人(ひと)の書(しょ)だと刻(きざ)まれている。嘉永(かえい)2年(ねん)の桜(さくら)の手入(てい)れの模様(もよう)を記録(きろく)して、嘉永(かえい)4年(ねん)に建(た)てられたもの。
  碑(ひ)の内容(ないよう)は、「小金井(こがねい)の桜(さくら)も100年(ねん)たって、枯(か)れるものも多(おお)いので、嘉永(かえい)2年(ねん)春(はる)、代官(だいかん)の大熊(おおくま)(善太郎(ぜんたろう))が田無(たなし)の名主(なぬし)半兵衛(はんべえ)に、まわりの村々(むらむら)と力(ちから)を合(あ)わせ、老木(ろうぼく)には肥料(ひりょう)をやり、枯(か)れたものは植(う)えかえるように、と言(い)い、みな喜(よろこ)んで数百本(すうひゃっぽん)の桜(さくら)を植(う)え足(た)した。」というもの。

C.行幸(ぎょうこう)松碑(まつひ)  御幸町(みゆきちょう)

  明治(めいじ)16年(ねん行幸松碑

4月(がつ)23日(にち)の明治(めいじ)天皇(てんのう)の花見(はなみ)を記念(きねん)して、鈴木(すずき)新田(しんでん)で松(まつ)を植(う)えた。
  明治(めいじ)35(1902)年(ねん)、さらに海岸寺(かいがんじ)住職(じゅうしょく)、玄恪(げんかく)が、地元(じもと)の人々(ひとびと)と相談(そうだん)し、松(まつ)を植(う)えた由来(ゆらい)を記(しる)した碑(ひ)を建(た)てた。
  碑(ひ)の裏面(うらめん)には、これに関(かか)わった鈴木(すずき)新田(しんでん)の人々(ひとびと)の名(な)が刻(きざ)まれている。

 

D.名勝(めいしょう)小金井桜(こがねいざくら)碑(ひ)  御幸町(みゆきちょう)

名勝小金井桜碑  大正(たいしょう)14(1925)年(ねん)、東京市(とうきょうし)が小金井橋(こがねいばし)のたもとに建(た)てた。ここが、日本(にっぽん)でも指折(ゆびお)りの桜(さくら)の名所(めいしょ)であること、大正(たいしょう)13年(ねん)に国(くに)の名勝(めいしょう)に指定(してい)されたこと、小金井桜(こがねいざくら)の由来(ゆらい)などが記(しる)される。
  ちなみに、小金井桜(こがねいざくら)は最盛期(さいせいき)には数千本(すうせんぼん)といわれているが、大正(たいしょう)14年(ねん)の東京市(とうきょうし)の調査(ちょうさ)では1168本(ぽん)、昭和(しょうわ)58年(ねん)の調査(ちょうさ)では700本(ぽん)となっている。
 

ダイジェスト「小金井(こがねい)の桜(さくら)」

『小金井(こがねい)の桜(さくら)』。この本(ほん)は小金井桜(こがねいざくら)の案内(あんない)のため、大正(たいしょう)15年(ねん)4月(がつ)に発行(はっこう)された。
“サクラ博士(はかせ)”三好学(みよしまなぶ)が指導(しどう)、東京市(とうきょうし)公園(こうえん)課(か)が編集(へんしゅう)した。

小金井桜(こがねいざくら)の位置(いち)

小金井(こがねい)の桜(さくら)は、東京府(とうきょうふ)北多摩郡(きたたまぐん)小平(こだいら)、小金井(こがねい)、武蔵野(むさしの)の3か村(そん)を流(なが)れる、東京市(とうきょうし)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)路(ろ)沿(ぞ)いの岸(きし)、1里(り)(約(やく)3.9キロメートル)あまりに植(う)えられたもの。
国(くに)の名勝(めいしょう)に指定(してい)されているのは、
南側(みなみがわ)の岸(きし)は、小平(こだいら)村(むら)鈴木(すずき)新田(しんでん)字(あざ)上(かみ)580番地(ばんち)から、武蔵野(むさしの)村(むら)大字境(おおあざさかい)字(あざ)上水(じょうすい)南(みなみ)1107番地(ばんち)まで
北側(きたがわ)の岸(きし)は、小平(こだいら)村(むら)小川(おがわ)新田(しんでん)字(あざ)上水(じょうすい)内(うち)1175番地(ばんち)から武蔵野(むさしの)村(むら)関前(せきまえ)字(あざ)樋1280番地(ばんち)まで
つまり、上流(じょうりゅう)は、東京市(とうきょうし)水道局(すいどうきょく)小川(おがわ)水衛所(すいえいじょ)から
下流(かりゅう)は、同(おな)じく水道局(すいどうきょく)の境(さかい)水衛所(すいえいじょ)までの桜(さくら)並木(なみき)だ。

花見(はなみ)の道順(みちじゅん)

昭和の初めはキャラメル1箱が5銭だった 中央線(ちゅうおうせん)なら東京(とうきょう)駅(えき)から24分(ふん)ごとに発車(はっしゃ)して、
武蔵境(むさしさかい)駅(えき)まで約(やく)1時間(じかん)
武蔵(むさし)小金井(こがねい)駅(えき)・国分寺(こくぶんじ)駅(えき)までだって1時間(じかん)20分(ぷん)以内(いない)だ。
花見(はなみ)の時期(じき)は臨時(りんじ)電車(でんしゃ)も出(で)る。
乗車賃(じょうしゃちん)は…
東京(とうきょう)駅(えき)から武蔵境(むさしさかい)駅(えき)まで  片道(かたみち)35銭(せん)
          武蔵(むさし)小金井(こがねい)駅(えき)まで  40銭(せん)
          国分寺(こくぶんじ)駅(えき)まで      44銭(せん)
一番(ばん)ながめが良(よ)いのは、小金井桜(こがねいざくら)のどまん中(なか)、小金井橋(こがねいばし)。上流(じょうりゅう)を見(み)ても、下流(かりゅう)を見(み)ても最高!

境(さかい)水衛所(すいえいじょ)~(約(やく)25町(ちょう)・2700メートル)~小金井橋(こがねいばし)~(約(やく)30町(ちょう)・3300メートル)~小川(おがわ)水衛所(すいえいじょ)

これが“桜(さくら)の見方(みかた)”だ!

しらなかった、正しい花の見方…桜(さくら)を見(み)るなら、朝(あさ)がいい。
それも太陽(たいよう)を背(せ)にして見(み)よう。
花(はな)が明(あか)るく、あざやかに見(み)える。
晴(は)れた青空(あおぞら)に照(て)らして見(み)るとほんとに美(うつく)しい。
小金井桜(こがねいざくら)を見(み)るには、朝(あさ)、境(さかい)駅(えき)で降(お)りて、境(さかい)水衛所(すいえいじょ)から、桜(さくら)並木(なみき)を上流(じょうりゅう)に進(すす)んで行(い)こう。太陽(たいよう)を背(せ)に、小川(おがわ)水衛所(すいえいじょ)まで桜(さくら)が楽(たの)しめる。

花(はな)の時期(じき)

年(とし)にもよるが、だいたい、4月(がつ)中旬(ちゅうじゅん)が盛(さか)り。(今(いま)なら上旬(じょうじゅん)だよねえ。)
早咲(はやざ)きは4月(がつ)10日(とおか)ごろから、
遅咲(おそざ)きは4月(がつ)20日(はつか)ごろ咲(さ)く。
全体(ぜんたい)としては2週間(しゅうかん)くらい咲(さ)きつづけるけど、真(ま)っ盛(さか)りは、わずか3~4日(か)の間(あいだ)だ。

桜(さくら)の種類(しゅるい)

日本(にっぽん)の山桜(やまざくら)は白(しろ)山桜(やまざくら)と紅(べに)山桜(やまざくら)に大(おお)きく分(わ)けられる。小金井桜(こがねいざくら)は全部(ぜんぶ)白(しろ)山桜(やまざくら)だ。
おもに、吉野(よしの)と桜川(さくらがわ)からとりよせた。吉野(よしの)種(しゅ)は花(はな)が白(しろ)く、桜川(さくらがわ)種(しゅ)は赤(あか)い。
白(しろ)山桜(やまざくら)の特徴(とくちょう)は、若葉(わかば)の色(いろ)がさまざまで、美(うつく)しいこと。紅(べに)色(いろ)のもの、黄(き)色(いろ)を帯(お)びたもの、緑(みどり)のもの…といろいろの色(いろ)だ。
それに、花(はな)の形(かたち)、枝(えだ)の様子(ようす)、匂(にお)いの強(つよ)さもいろいろ。小金井(こがねい)の桜(さくら)は1本(ぽん)1本(ぽん)が違(ちが)って美(うつく)しい。また武蔵野(むさしの)の土(つち)の性質(せいしつ)にもよく合(あ)っている。
山桜(やまざくら)は、染井(そめい)吉野(よしの)や里(さと)桜(ざくら)にくらべると寿命(じゅみょう)が長(なが)い。ただ、都会(とかい)では環境(かんきょう)のせいで、寿命(じゅみょう)が短(みじか)いようだ。

桜(さくら)のなまえ

すてきよねえ 小金井桜(こがねいざくら)の中(なか)でも、花(はな)が見事(みごと)だったり、木(き)が大(おお)きくて立派(りっぱ)なものには、ちゃんと名前(なまえ)がついている。

日(ひ)の出(で)の桜(さくら)  関野(せきの)橋(ばし)近(ちか)く。上水(じょうすい)の北側(きたがわ)にある大木(たいぼく)。美(うつく)しい赤(あか)芽(め)。
入(いり)日(ひ)の桜(さくら日(ひ)の出(で)の桜(さくら)の先(さき)にある大木(たいぼく)。黄(き)芽(め)。
六弁桜(ろくべんざくら)  茶(ちゃ)芽(め)。淡(あわ)い紅(べに)色(いろ)の花(はな)。花(はな)びらが6まいになっているものがある。
口紅桜(くちべにざくら)  赤(あか)芽(め)。白(しろ)い花(はな)のまん中(なか)に紅(べに)色(いろ)のたて筋(すじ)が通(とお)り、花(はな)びらの先(さき)がうす紅(べに)色(いろ)。
高嶺桜(たかみねざくら)  日(ひ)の出(で)の桜(さくら)に似(に)ている。花(はな)はうす紅(べに)色(いろ)。
曙桜(あけぼのざくら)  小金井(こがねい)の匂桜(さくら)のひとつ。茶(ちゃ)芽(め)で、花(はな)は白(しろ)。香(かお)りが強(つよ)い。
三吉野桜(みよしのざくら)  日(ひ)の出(で)の桜(さくら)の近(ちか)くで上水(じょうすい)の南側(みなみがわ)。樺(かば)芽(め)で枝(えだ)が横(よこ)に広(ひろ)がり、傘(かさ)の形(かたち)をしている。
富士見(ふじみ)桜(ざくら)  かつては、小金井(こがねい)の桜(さくら)並木(なみき)で一番(ばん)の大木(たいぼく)だった。赤(あか)芽(め)。花(はな)の数(かず)は少(すく)ないが、大輪(だいりん)で淡(あわ)い紅(べに)色(いろ)が美(うつく)しい。
東天(とうてん)匂(におい? 赤(あか)芽(め)で、花(はな)は白(しろ)。大輪(だいりん)の匂桜(においざくら)。花(はな)の直径(ちょっけい)が一寸(すん)二分(ぶ)(3.6センチぐらい)もある。
小金井(こがねい)匂(におい)  赤(あか)芽(め)。花(はな)は白(しろ)。これも匂桜(においざくら)。花(はな)は東天匂のよりも小(ちい)さい。
色々な桜

参考(さんこう)にした本(ほん)

「小金井(こがねい)市(し)誌(し)  第(だい)2、第(だい)3」
「市報(しほう)こだいら縮刷版(しゅくさつばん)」
「小金井(こがねい)今昔(こんじゃく)ばなし」
「西武(せいぶ)新宿線(しんじゅくせん)歴史(れきし)散歩(さんぽ)」
アサヒタウンズ編(へん)「玉川(たまがわ)上水(じょうすい)」
「小金井(こがねい)の桜(さくら)」
比留間(ひるま)博著(ひろしちょ)「玉川(たまがわ)上水(じょうすい)」
「明治(めいじ)東京(とうきょう)名所(めいしょ)図会(ずえ)」
「江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)  下」
「小平(こだいら)郷土(きょうど)研究会(けんきゅうかい)  会報(かいほう)第(だい)2号(ごう)」
「郷土(きょうど)夜話(やわ)  その1」
「武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)」
「東京(とうきょう)の名所(めいしょ)・旧跡(きゅうせき)」
「武蔵野(むさしの)」第(だい)66号(ごう)ほか
「多摩(たま)のあゆみ」第(だい)4号(ごう)
などなど…

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掲載日 令和7年8月1日