このページの本文へ移動
こどものページ > こどものページ > としょかんこどもきょうどしりょう> 31. 野火止(のびどめ)用水(ようすい)をゆけば

31. 野火止(のびどめ)用水(ようすい)をゆけば

野火止(のびどめ)用水(ようすい)とは

野火止(のびどめ)用水(ようすい)って、知(し)ってる?
承応(じょうおう)4年(ねん)(1655)に作(つく)られた玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の分水(ぶんすい)なんだ。
取入口(とりいれぐち)は多摩郡(たまぐん)小川村(おがわむら)(今(いま)の小平市(こだいらし)中島町(なかじまちょう))だった。
水路(すいろ)は小平市(こだいらし)、東大和市(ひがしやまとし)、東村山市(ひがしむらやまし)、清瀬市(きよせし)、東久留米市(ひがしくるめし)の間(あいだ)をぬって埼玉県(さいたまけん)にはいる。
むかしは新座市(にいざし)から志木市(しきし)の新河岸川(しんかしがわ)に流(なが)れこむコースだったけれど、今(いま)は、平林寺(へいりんじ)のちょいと先(さき)から地下(ちか)にもぐり、導水管(どうすいかん)で柳瀬川(やなせがわ)にそそいでいる。(「野火止(のびどめ)用水(ようすい)おさんぽマップ」を参考(さんこう)にしてね。)
完成(かんせい)当時(とうじ)、その距離(きょり)24キロメートル(25キロメートルとも)。水(みず)の深(ふか)さは深(ふか)いところでおよそ90センチメートル。浅いところで60センチメートル。幅は狭いところで1.8メートル。玉川(たまがわ)上水(じょうすい)からの分水(ぶんすい)量(りょう)は30パーセント。
玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の分水(ぶんすい)の中(なか)では、野火止(のびどめ)用水(ようすい)は最大(さいだい)規模(きぼ)だ。
もっとも古(ふる)く、もっとも距離(きょり)が長(なが)く、もっとも分水(ぶんすい)量(りょう)が多(おお)い。
野火止(のびどめ)用水(ようすい)は、どうやって誕生(たんじょう)したんだろう? どんな歴史(れきし)があるんだろう? ちょっとのぞいてみたいよね。
どこに行こうかな

野火止(のびどめ)用水(ようすい) 年表(ねんぴょう)

野火止用水 年表
年 できごと
承応(じょうおう)元(がん)年(ねん)(1652) 老中(ろうじゅう)松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信綱(のぶつな)、総奉行(そうぶぎょう)となって、庄右衛門(しょうえもん)・清右衛門(せいえもん)兄弟(きょうだい)に、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の工事(こうじ)を命(めい)じる。
承応(じょうおう)2年(ねん)(1653) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の工事(こうじ)始(はじ)まる。2回(かい)の失敗(しっぱい)の後(のち)、安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)が兄弟(きょうだい)の手助(てだす)けをしたといわれている。
信綱(のぶつな)、野火止(のびどめ)の新田(しんでん)開発(かいはつ)を始(はじ)め、農家(のうか)55戸(こ)(54戸(こ)という説(せつ)も)を移住(いじゅう)させる。
承応(じょうおう)3年(ねん)(1654) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)完成(かんせい)。そのてがらとして、信綱(のぶつな)、自分(じぶん)の領土(りょうど)である野火止(のびどめ)への分水(ぶんすい)を幕府(ばくふ)から許(ゆる)される。
承応(じょうおう)4年(ねん)(1655) だあっしゅー!2月(がつ)10日(とおか)より、野火止(のびどめ)用水(ようすい)の工事(こうじ)始(はじ)まり、3月(がつ)20日(はつか)に完成(かんせい)する。24~5キロメートルの水路(すいろ)をわずか40日間(にちかん)で掘(ほ)り通(とお)したわけだ。
寛文(かんぶん)2年(ねん)(1662) 信綱(のぶつな)、亡(な)くなる。
寛文(かんぶん)3年(ねん)(1663) 信綱(のぶつな)の子(こ)輝綱(てるつな)、岩槻(いわつき)の平林寺(へいりんじ)を野火止(のびどめ)に移(うつ)す。
明治(めいじ)36年(ねん)(1903) 野火止(のびどめ)用水(ようすい)の使用(しよう)組合(くみあい)できる。この組合(くみあい)による用水(ようすい)の管理(かんり)は、今(いま)も、新座市(にいざし)、朝霞市(あさかし)、志木市(しきし)によって引(ひ)きつがれている。
昭和(しょうわ)19年(ねん)(1944) 埼玉県(さいたまけん)が野火止(のびどめ)用水(ようすい)を県史跡(けんしせき)に指定(してい)。
昭和(しょうわ)24年(ねん)(1949) 野火止(のびどめ)地区(ちく)に簡易(かんい)水道(すいどう)ができはじめ、飲(の)み水(みず)としての利用(りよう)が減(へ)り始(はじ)める。
昭和(しょうわ)30年(ねん)代(だい)後半(こうはん) 流域(りゅういき)で、急(きゅう)な宅地化(たくちか)がすすむ。
昭和(しょうわ)48年(ねん)(1973) 東京都(とうきょうと)の水(みず)事情(じじょう)の悪化(あっか)などの理由(りゆう)から、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)からの分水(ぶんすい)、止(と)められる。
6月(がつ)、「平林禅寺(へいりんぜんじ)の自然(しぜん)を守(まも)る会(かい)」より、東京都(とうきょうと)へ野火止(のびどめ)用水(ようすい)の「歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)」指定(してい)と、用水(ようすい)を守(まも)ってほしいという要望書(ようぼうしょ)が出(だ)される。
9月(がつ)、東京都(とうきょうと)と埼玉県(さいたまけん)の連絡(れんらく)会議(かいぎ)で、埼玉県(さいたまけん)が野火止(のびどめ)用水(ようすい)の流(なが)れを復活(ふっかつ)させることを要望(ようぼう)する。
昭和(しょうわ)49年(ねん)(1974) 4月(がつ)、立川市(たちかわし)・東大和市(ひがしやまとし)・東村山市(ひがしむらやまし)・清瀬市(きよせし)・東久留米市(ひがしくるめし)、そして小平市(こだいらし)とで「野火止(のびどめ)用水(ようすい)保全(ほぜん)対策(たいさく)協議(きょうぎ)会(かい)」をつくる。
12月(がつ)、東京都(とうきょうと)、条例(じょうれい)に基(もと)づいて、野火止(のびどめ)用水(ようすい)を「歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)」に指定(してい)。
昭和(しょうわ)54年(ねん)(1979) 東京都(とうきょうと)と埼玉県(さいたまけん)、連絡(れんらく)会議(かいぎ)で、野火止(のびどめ)用水(ようすい)の流(なが)れを早(はや)くもとにもどそうと決(き)める。通(とお)す水(みず)には多摩川(たまがわ)上流(じょうりゅう)処理場(しょりじょう)の下水(げすい)処理水(しょりすい)を利用(りよう)することにする。
昭和(しょうわ)56年(ねん)(1981) 野火止(のびどめ)用水(ようすい)への導水管(どうすいかん)の工事(こうじ)、始(はじ)まる。
昭和(しょうわ)59年(ねん)(1984) いろいろあったのね工事(こうじ)完成(かんせい)。この年(とし)、ついに野火止(のびどめ)用水(ようすい)の流(なが)れは復活(ふっかつ)した。

野火止(のびどめ)用水(ようすい)の歴史(れきし) その1

のぶつな ねんぴょう
年 できごと
慶長(けいちょう)元(がん)年(ねん)(1596) 10月(がつ)30日(にち) 大河内(おおこうち)金兵衛(きんべえ)久綱(ひさつな)の長男(ちょうなん)として生(う)まれる。
6年(ねん)(1601) 叔父(おじ)、松平(まつだいら)正綱(まさつな)の養子(ようし)となる。
8年(ねん)(1603) 徳川(とくがわ)秀忠(ひでただ)(2代(だい)将軍(しょうぐん))、ついで家康(いえやす)(初代(しょだい)将軍(しょうぐん))に初(はつ)おめみえする。
9年(ねん)(1604) 7月(がつ)17日(にち) 徳川(とくがわ)家光(いえみつ)(3代(だい)将軍(しょうぐん))誕生(たんじょう)。
7月(がつ)25日(にち) 信綱(のぶつな)、家光(いえみつ)のお付(つ)きとなる。
16年(ねん)(1611) 11月(がつ)15日(にち) 信綱(のぶつな)元服(げんぷく)。(つまり成人式(せいじんしき))
元和(げんな)9年(ねん)(1623) 7月(がつ) 伊豆守(いずのかみ)に任(にん)ぜられる。
寛永(かんえい)10年(ねん)(1633) 5月(がつ)5日(いつか) 老中(ろうじゅう)職(しょく)につく。
3万石(まんごく)武蔵国(むさしのくに)忍城(おしじょう)、城主(じょうしゅ)となる。
15年(ねん)(1638) 2月(がつ)28日(にち) 島原(しまばら)の乱(らん)をおさめる。
16年(ねん)(1639) 正月(がつ)5日(いつか) 島原(しまばら)の乱(らん)のてがらにより、6万石(まんごく)、川越城(かわごえじょう)、城主(じょうしゅ)となる。
慶安(けいあん)4年(ねん)(1651) 4月(がつ)20日(はつか) 家光(いえみつ)亡(な)くなる。
信綱(のぶつな)、家綱(いえつな)(4代(だい)将軍(しょうぐん))につかえるようになる。
承応(じょうおう)元(がん)年(ねん)(1652) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)工事(こうじ)の総奉行(そうぶぎょう)となる。
2年(ねん)(1653) 野火止(のびどめ)の新田(しんでん)開発(かいはつ)にのりだす。
3年(ねん)(1654) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)完成(かんせい)。
4年(ねん)(1655) 野火止(のびどめ)上水(じょうすい)完成(かんせい)。
寛文(かんぶん)2年(ねん)(1662) 3月(がつ)16日(にち) 信綱(のぶつな)、亡(な)くなる。67才(さい)。金重村(かなしげむら)平林寺(へいりんじ)に埋葬(まいそう)。
寛文(かんぶん)3年(ねん)(1663) 信綱(のぶつな)の生前(せいぜん)の計画(けいかく)どおり、平林寺(へいりんじ)を野火止(のびどめ)に移(うつ)す。

まるでボクみたい? 寛永(かんえい)10年(ねん)(1634)、忍城(おしじょう)(今(いま)の埼玉県(さいたまけん)行田市(ぎょうだし))3万石(まんごく)の城主(じょうしゅ)となった松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信綱(のぶつな)。禄高(ろくだか)こそ多(おお)くはないが、将軍(しょうぐん)家光(いえみつ)自慢(じまん)の家臣(かしん)だった。
なにしろ、この人(ひと)、「知恵(ちえ)伊豆(いず)」(“知恵(ちえ)が出(い)ず”にかけてる)と呼(よ)ばれるほどに頭(あたま)がいい。
「伊豆(いず)のような家来(けらい)がもうひとりいたら、(自分(じぶん)は)天下(てんか)の世話(せわ)などやかなくてすむ」とか「将軍(しょうぐん)になる人(ひと)は多(おお)いだろうけど、自分(じぶん)くらい幸(しあわ)せ者(もの)はいない。右手(みぎて)に讃岐(さぬき)(老中(ろうじゅう)の1人(ひとり)、酒井(さかい)忠勝(ただかつ)のこと。この人(ひと)も、まじめ、努力家(どりょくか)、有能(ゆうのう))、左手(ひだりて)に伊豆(いず)がいる」とかね。家光(いえみつ)にほめられまくってるんだ。
幕府(ばくふ)の中(なか)にあっては老中(ろうじゅう)として基礎(きそ)づくりに力(ちから)を尽(つ)くし、川越(かわごえ)の藩主(はんしゅ)としては、野火止(のびどめ)用水(ようすい)を引(ひ)いて、新田(しんでん)開発(かいはつ)をし、藩(はん)の政治(せいじ)を確(たし)かなものにするため、働(はたら)いた。

 

2.まずは、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)

ふえる一方(いっぽう)の江戸(えど)の住民(じゅうみん)の飲(の)み水(みず)を手(て)に入(い)れるため、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)は計画(けいかく)された。多摩川(たまがわ)の水(みず)を羽村(はむら)から引(ひ)いて、四谷(よつや)の大木戸(おおきど)まで43キロメートルの水路(すいろ)を作(つく)ろうというわけなんだ。
工事(こうじ)を担当(たんとう)したのは庄右衛門(しょうえもん)、清右衛門(せいえもん)の玉川(たまがわ)兄弟(きょうだい)。一方(いっぽう)、松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信綱(のぶつな)は、この計画(けいかく)の総奉行(そうぶぎょう)を命(めい)じられた。(司令官(しれいかん)のようなものだね。)
工事(こうじ)はたてつづけに2度(ど)失敗(しっぱい)。幕府(ばくふ)は計画(けいかく)を中止(ちゅうし)しようとした。けれど信綱(のぶつな)はあきらめなかった。
3度目(どめ)は、信綱(のぶつな)の家臣(かしん)安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)が、得意(とくい)の測量(そくりょう)の技術(ぎじゅつ)をいかして、玉川(たまがわ)兄弟(きょうだい)の仕事(しごと)を助(たす)けたともいわれ(でも、ちゃんとした記録(きろく)が残(のこ)っていないんだよね)、承応(じょうおう)3年(ねん)(1654)、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)は完成(かんせい)する。

3.野火止(のびどめ)の平林寺(へいりんじ)

信綱(のぶつな)の一族(いちぞく)と平林寺(へいりんじ)とのつながりは、祖父(そふ)の大河内(おおこうち)金兵衛(きんべえ)秀綱(ひでつな)がこの寺(てら)に葬(ほうむ)られたことに始(はじ)まる。
もともとは武蔵国(むさしのくに)金重村(かなしげむら)(今(いま)の埼玉県(さいたまけん)岩槻市(いわつきし))にあった。それを野火止(のびどめ)に移(うつ)そうとした信綱(のぶつな)のねらいは新田(しんでん)開発(かいはつ)にかかわりがあるという。
平林寺(へいりんじ)を新田(しんでん)開発(かいはつ)の中心(ちゅうしん)にすえて、開拓(かいたく)農民(のうみん)たちの心(こころ)の支(ささ)えにしたかったのだ。
また、こういう説(せつ)もある。
川越(かわごえ)は江戸城(えどじょう)を守(まも)る大事(だいじ)な拠点(きょてん)だ。万一(まんいち)江戸城(えどじょう)が攻(せ)められた時(とき)には、たくさんの武士(ぶし)を集(あつ)められる場所(ばしょ)が必要(ひつよう)になる。平林寺(へいりんじ)を移(うつ)したのはそのためだ。戦(いく)さ用(よう)の食糧(しょくりょう)は野火止(のびどめ)新田(しんでん)から調達(ちょうたつ)できるしね。玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の水(みず)を30%(パーセント)も分水(ぶんすい)できるようになっているのも、こうした非常(ひじょう)事態(じたい)を考(かんが)えてのことかもしれない。
うーむ、あなどれない…

4.技術者(ぎじゅつしゃ) 安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)

安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)吉実(よしざね)。先祖(せんぞ)は播州(ばんしゅう)(兵庫県(ひょうごけん))の出(で)だという。正保(しょうほう)元(がん)年(ねん)(1644)より信綱(のぶつな)につかえるようになった。信綱(のぶつな)の命(めい)を受(う)け、野火止(のびどめ)用水(ようすい)を作(つく)ったのはこの人(ひと)だ。
玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の時(とき)も、その設計(せっけい)技術(ぎじゅつ)をいかして、庄右衛門(しょうえもん)、清右衛門(せいえもん)兄弟(きょうだい)の工事(こうじ)に手助(てだす)けをしたのではないかと言(い)われる。
寛文(かんぶん)2年(ねん)(1662)3月(がつ)に信綱(のぶつな)が亡(な)くなると、その子(こ)輝綱(てるつな)につかえた。「独礼(どくれい)」といっておおやけの儀式(ぎしき)の時(とき)、1人(ひとり)で藩主(はんしゅ)に会(あ)い、あいさつすることのできる名誉(めいよ)な格式(かくしき)を与(あた)えられていた。それはやっぱり、金右衛門(きんえもん)がやりとげてきた仕事(しごと)が認(みと)められていたからなんだろうね。
貞享(じょうきょう)3年(ねん)(1686)10月(がつ)、川越(かわごえ)で亡(な)くなった。なきがらは新宿(しんじゅく)の大宗寺(たいそうじ)に葬(ほうむ)られたけれど、昭和(しょうわ)10年(ねん)(1935)11月(がつ)、平林寺(へいりんじ)に移(うつ)された。今(いま)は、彼(かれ)の能力(のうりょく)をいかしてくれた主君(しゅくん)、信綱(のぶつな)のそばに眠(ねむ)っている。

4.野火止(のびどめ)へ水(みず)を!

川越(かわごえ)城主(じょうしゅ)になった信綱(のぶつな)は、新田(しんでん)開発(かいはつ)を考(かんが)えていた。その舞台(ぶたい)は野火止(のびどめ)。玉川(たまがわ)上水(じょうすい)の計画(けいかく)が動(うご)き始(はじ)めた承応(じょうおう)2年(ねん)(1653)には信綱(のぶつな)はそう決(き)めていた。
野火止(のびどめ)も水(みず)にめぐまれない武蔵野(むさしの)の台地(だいち)だ。玉川(たまがわ)上水(じょうすい)完成(かんせい)のあかつきには、ここにも水(みず)を引(ひ)くぞ、と信綱(のぶつな)は考(かんが)えていたのだろう。
そして、同(おな)じ年(とし)の8月(がつ)には、早(はや)くも川越(かわごえ)の領内(りょうない)から55戸(こ)(54戸(こ)という説(せつ)も)の農家(のうか)が野火止(のびどめ)に移(うつ)って来(き)た。やがて、新座(にいざ)、志木(しき)、富士見(ふじみ)、清瀬(きよせ)、東久留米(ひがしくるめ)のあたりからも開発(かいはつ)のための出(で)かせぎがはいってくる。それだけでなく、藩(はん)の家臣(かしん)たちも加(くわ)わった。(自分(じぶん)のところで使(つか)っている者(もの)たちに耕作(こうさく)をさせたりしたんだ。)
藩(はん)をあげての新田(しんでん)開発(かいはつ)は、承応(じょうおう)4年(ねん)(1655)に完成(かんせい)した野火止(のびどめ)用水(ようすい)の水(みず)にうるおされ、めざましく生産(せいさん)量(りょう)をあげていった。
野火止(のびどめ)の新田(しんでん)開発(かいはつ)はその後(ご)の武蔵野(むさしの)新田(しんでん)の開発(かいはつ)の始(はじ)まりでもあった。明暦(めいれき)2年(ねん)(1656)には小川村(おがわむら)(もちろん小平市(こだいらし)!)が名(な)のりをあげ、よく年(とし)、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)2本目(ほんめ)の分水(ぶんすい)、小川(おがわ)分水(ぶんすい)が作(つく)られた。

番外(ばんがい) まわるよ、水車(すいしゃ)

日本(にっぽん)での水車(すいしゃ)についての記録(きろく)は、『日本(にほん)書記(しょき)』の610年(ねん)のところに出(で)てくるのが最初(さいしょ)なんだ。“水車(すいしゃ)の力(ちから)でひく石臼(いしうす)をつくった”と書(か)かれているよ。
江戸(えど)時代(じだい)にはいって、新田(しんでん)開発(かいはつ)が盛(さか)んになると、農業(のうぎょう)は発達(はったつ)した。今(いま)までより農産物(のうさんぶつ)がたくさんとれるようになると、今度(こんど)はそれを商品化(しょうひんか)するようになる。商品(しょうひん)をたくさん作(つく)るには人間(にんげん)の力(ちから)だけでは間(ま)にあわない。そこで水車(すいしゃ)の動力(どうりょく)が注目(ちゅうもく)された。
武蔵野(むさしの)の場合(ばあい)は、江戸(えど)に近(ちか)いし、麦(むぎ)やソバの畑作(はたさく)地帯(ちたい)だったから、水車(すいしゃ)の力(ちから)でそれらを製粉(せいふん)しては、商品(しょうひん)として、江戸(えど)に運(はこ)んだ。
でも、水車(すいしゃ)は誰(だれ)にも彼(かれ)にも作(つく)れたわけじゃない。作(つく)る費用(ひよう)も高(たか)かったし、水車(すいしゃ)で商売(しょうばい)をするには、「冥加金(みょうがきん)」(税金(ぜいきん)です)が必要(ひつよう)だった。
そういうお金(かね)を負担(ふたん)しても、充分(じゅうぶん)見(み)あう働(はたら)きをする。それが水車(すいしゃ)だったから、江戸(えど)時代(じだい)半(なか)ばから、明治(めいじ)の頃(ころ)まで水車(すいしゃ)かせぎは盛(さか)んだった。

水車のしくみ

野火止(のびどめ)用水(ようすい)の歴史(れきし) その2

5.生活(せいかつ)とむすびついた水(みず)

野火止(のびどめ)用水(ようすい)の水(みず)は、飲(の)み水(みず)、風呂(ふろ)、すいじ、洗(せん)たく、と生活(せいかつ)のあらゆることに使(つか)われて、これが終戦後(しゅうせんご)まで続(つづ)いた。水(みず)遊(あそ)びや、火事(かじ)の時(とき)の消火(しょうか)のためにも使(つか)われたし、水(みず)の流(なが)れを利用(りよう)して水車(すいしゃ)がまわされた。
宝暦(ほうれき)12年(ねん)(1762)に最初(さいしょ)の水車(すいしゃ)が作(つく)られてから、大正(たいしょう)時代(じだい)頃(ごろ)まで、新座(にいざ)市内(しない)だけでも野火止(のびどめ)用水(ようすい)でまわる水車(すいしゃ)は34個(こ)以上(いじょう)。精米(せいまい)や製粉(せいふん)をして働(はたら)いていた。
大切(たいせつ)な用水(ようすい)の水(みず)は、江戸(えど)時代(じだい)から野火止(のびどめ)村(むら)など9か村(そん)で作(つく)った組合(くみあい)が管理(かんり)をしてきた。水(みず)がれの時(とき)は、江戸(えど)の飲(の)み水(みず)である玉川(たまがわ)上水(じょうすい)が優先(ゆうせん)で、野火止(のびどめ)用水(ようすい)にまわされる水(みず)は「2歩止(ぶど)め」「3歩止(ぶど)め」と制限(せいげん)される。そんな時(とき)は組合(くみあい)が、幕府(ばくふ)の役所(やくしょ)などに、水(みず)をまわしてもらう願(ねが)いを出(だ)しに行(い)ったりした。
守って当然みんなの用水 組合(くみあい)ばかりではなく、平林寺(へいりんじ)も、野火止(のびどめ)用水(ようすい)を守(まも)るため、高札(こうさつ)(掲示板(けいじばん)みたいなもの)で、まわりの人々(ひとびと)に呼(よ)びかけた。用水(ようすい)の水(みず)はみんなの大切(たいせつ)な命(いのち)の水(みず)だったからね。
明治(めいじ)36年(ねん)(1903)5月(がつ)には、北足立郡(きたあだちぐん)大和田町など2町(ちょう)2村(そん)で、用水(ようすい)管理(かんり)のための組合(くみあい)が作(つく)られた。これは現在(げんざい)、新座市(にいざし)、朝霞市(あさかし)、志木市(しきし)の3市(し)で作(つく)る「野火止(のびどめ)用水(ようすい)使用(しよう)組合(くみあい)」に続(つづ)くものだ。
 

6.止(と)められた野火止(のびどめ)用水(ようすい)

戦後(せんご)の東京(とうきょう)はたびたび異常(いじょう)渇水(かっすい)におそわれた。(つまり、水(みず)不足(ぶそく)。こどもきょうどしりょうNo.24『東京(とうきょう)の水道(すいどう)』を参考(さんこう)にしてね。)
そのつど、野火止(のびどめ)用水(ようすい)は玉川(たまがわ)上水(じょうすい)とともに流(なが)れる水(みず)の量(りょう)が減(へ)り、流域(りゅういき)の人(ひと)たちは困(こま)ってしまった。
さらに昭和(しょうわ)26年(ねん)(1951)、用水(ようすい)の水(みず)から赤痢(せきり)が発生(はっせい)。このことが昭和(しょうわ)24年(ねん)(1949)に誕生(たんじょう)していた簡易(かんい)水道(すいどう)の普及(ふきゅう)をうながすことになった。
昭和(しょうわ)30年(ねん)代(だい)後半(こうはん)になると、上流(じょうりゅう)の小平市(こだいらし)や東村山市(ひがしむらやまし)で宅地化(たくちか)が急(きゅう)に進(すす)んだ。家庭(かてい)で使(つか)った汚(よご)れた水(みず)が流(なが)れこむようになり、野火止(のびどめ)用水(ようすい)は汚染(おせん)していった。
流域(りゅういき)の新座(にいざ)町では、野火止(のびどめ)用水(ようすい)に頼(たよ)らない、本格的(ほんかくてき)な上水(じょうすい)道(どう)を作(つく)ろうと動(うご)きだした。
用水(ようすい)の汚染(おせん)と上水(じょうすい)道(どう)の普及(ふきゅう)の中(なか)、昭和(しょうわ)48年(ねん)(1973)、ついに東京都(とうきょうと)は、野火止(のびどめ)用水(ようすい)への分水(ぶんすい)を止(と)めたのだった。

番外(ばんがい)野火止(のびどめ)用水(ようすい)の「いろは樋(どい)」

野火止(のびどめ)用水(ようすい)は初(はじ)め新河岸川(しんかしがわ)に流(なが)れこんでいた。けれど対岸(たいがん)、宗岡(むねおか)村(むら)(今(いま)の埼玉県(さいたまけん)志木市(しきし))の地頭(じとう)、岡部(おかべ)忠直(ただなお)の願(ねが)いによって、川(かわ)を懸樋(かけどい)でまたいで、用水(ようすい)の水(みず)を川(かわ)向(む)こうの水田(すいでん)かんがいに利用(りよう)することになった。設計(せっけい)と工事(こうじ)を担当(たんとう)したのは忠直(ただなお)の家臣(かしん)の白井(しらい)武左衛門(ぶざえもん)(安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)が作(つく)ったという説(せつ)も。)武左衛門(ぶざえもん)は、柳瀬川(やなせがわ)と新河岸川(しんかしがわ)が合流(ごうりゅう)する地点(ちてん)の下流(かりゅう)に48個(こ)のます型(がた)の樋(とい)をつなぎ合(あ)わせて、水(みず)を通(とお)そうと考(かんが)えた。
寛文(かんぶん)2年(ねん)(1662)、野火止(のびどめ)用水(ようすい)ができて7年(ねん)後(ご)、懸樋(かけどい)は作(つく)られた。長(なが)さ358m。幅(はば)60cm。ます型(がた)の樋(とい)の数(かず)から、いろは48文字(もじ)になぞらえて、「いろは樋(どい)」と呼(よ)ばれた。
いろは樋のしくみ (『玉川(たまがわ)上水(じょうすい)と分水(ぶんすい)』参考(さんこう))
坂(さか)の上(うえ)に作(つく)った木(き)の箱(はこ)(小(こ)ます)に水(みず)をため、そこから地面(じめん)の下(した)の木(き)の樋(とい)をつたって、大(おお)ますまで勢(いきお)いよく、水(みず)を通(とお)す。大(おお)ますいっぱいになった水(みず)は、そのまま、いろは樋(どい)によって、新河岸川(しんかしがわ)を渡(わた)る。水(みず)をいったん高(たか)い所(ところ)にあげてから低(ひく)い所(ところ)に移(うつ)す、「サイフォン式(しき)」だ。
 

「野火止(のびどめ)」の地名(ちめい)

飛鳥(あすか)・奈良(なら)時代(じだい)、朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)から日本(にっぽん)へ渡(わた)って来(き)た人(ひと)たちがいた。彼(かれ)らは武蔵野(むさしの)の地(ち)にも住(す)みついて、麻(あさ)や紫根(しこん)(ムラサキの根、染料だよ)を栽培(さいばい)して、この原野(げんや)で焼畑(やきはた)農業(のうぎょう)をおこなった。
畑(はたけ)を焼(や)く野火(のび)の煙(けむり)は、遠(とお)くからながめると紫色(むらさきいろ)に見(み)える。「紫(むらさき)にかすむ野(の)」が武蔵野(むさしの)の名(な)のはじまりともいうし、紫根(しこん)がとれるので「紫野(むらさきの)」と呼(よ)ばれたのがはじまりだともいう。野火止(のびどめ)の地名(ちめい)は、焼畑(やきはた)農業(のうぎょう)にかかわりがある。「野火止(のびどめ)」というのは、野焼(のや)きの火(ひ)が家(いえ)に飛(と)び火(ひ)しないように築(きづ)かれる塚(つか)や堤(つつみ)のこと。はじめ「野火留」と書(か)くことが多(おお)かったけれど、元禄(げんろく)10年(ねん)(1697)頃(ごろ)から、「野火止」とも書(か)かれるようになっていた。

野火止(のびどめ)用水(ようすい)、またの名(な)は…

ずばり、「伊豆(いず)殿堀(どのぼり)」。野火止(のびどめ)用水(ようすい)の恩恵(おんけい)を受(う)けた人(ひと)びとは、伊豆守(いずのかみ)であった信綱(のぶつな)への感謝(かんしゃ)をこめて、こう呼(よ)んだ。地元(じもと)では「いずてんぼり」とも言(い)うらしい。

7.復活(ふっかつ)

よかったね野火止(のびどめ)用水(ようすい)の流(なが)れを取(と)り戻(もど)そうという声(こえ)はすぐにあがった。
昭和(しょうわ)48年(ねん)(1973)6月(がつ)、「平林禅寺(へいりんぜんじ)の自然(しぜん)と文化(ぶんか)を守(まも)る会(かい)」が水質(すいしつ)調査(ちょうさ)をして、東京都(とうきょうと)知事(ちじ)に、野火止(のびどめ)用水(ようすい)の都内(とない)流域(りゅういき)全(すべ)てを「歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)」に指定(してい)するように要望(ようぼう)した。(埼玉県(さいたまけん)では昭和(しょうわ)19年(ねん)3月(がつ)31日(にち)に史跡(しせき)指定(してい)している。)
3ヶ月(げつ)後(ご)の9月(がつ)には、東京都(とうきょうと)と埼玉県(さいたまけん)の連絡(れんらく)会議(かいぎ)で、野火止(のびどめ)用水(ようすい)の整備(せいび)の問題(もんだい)がとりあげられた。
12月(がつ)には埼玉県(さいたまけん)が、また昭和(しょうわ)49年(ねん)(1974)6月(がつ)には埼玉県(さいたまけん)と野火止(のびどめ)用水(ようすい)使用(しよう)組合(くみあい)が協力(きょうりょく)して、用水(ようすい)流域(りゅういき)の文化財(ぶんかざい)や、環境(かんきょう)、水質(すいしつ)などの調査(ちょうさ)をおこなった。
それから半年(はんとし)後(ご)の12月(がつ)、東京都(とうきょうと)は小平市(こだいらし)から、野火止(のびどめ)用水(ようすい)が小金井(こがねい)街道(かいどう)にぶつかる埼玉県(さいたまけん)境(ざかい)までの9.6キロメートルを「歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)」に指定(してい)した。
昭和(しょうわ)54年(ねん)(1979)11月(がつ)の東京都(とうきょうと)と埼玉県(さいたまけん)の連絡(れんらく)会議(かいぎ)で、多摩川(たまがわ)上流(じょうりゅう)処理場(しょりじょう)(昭島市(あきしまし))の処理水(しょりすい)を送(おく)り、野火止(のびどめ)用水(ようすい)の流(なが)れを復活(ふっかつ)させようという提案(ていあん)がされる。
そのためには昭島市(あきしまし)の処理場(しょりじょう)から、小平市(こだいらし)栄町(さかえちょう)の放流口(ほうりゅうぐち)まで、処理水(しょりすい)を送(おく)る導水管(どうすいかん)を通(とお)さなければならない。工事(こうじ)には昭和(しょうわ)56年度(ねんど)~59年度(ねんど)まで、4年間(ねんかん)を費(つい)やした。
昭和(しょうわ)59年(ねん)(1984)8月(がつ)、ついに野火止(のびどめ)用水(ようすい)に流(なが)れが帰(かえ)ってきた。300年(ねん)もの間(あいだ)、地域(ちいき)の人(ひと)のくらしにむすびついて、生(い)きてきた用水(ようすい)は11年(ねん)ぶりに息(いき)を吹(ふ)き返(かえ)したのだった。

歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)って?

えーっとね歴史的(れきしてき)な遺産(いさん)とひとつになった自然(しぜん)があり、その両方(りょうほう)を保護(ほご)する必要(ひつよう)のある地域(ちいき)のこと。
 

野火止(のびどめ)用水(ようすい)おさんぽマップ

野火止用水おさんぽマップ

1.東京都(とうきょうと)薬用(やくよう)植物園(しょくぶつえん)

小平市(こだいらし)中島町(なかじまちょう)21-1 東大和市(ひがしやまとし)駅(えき)下車(げしゃ)、徒歩(とほ)2分(ふん)
薬草(やくそう)を理解(りかい)してもらうために、昭和(しょうわ)20年(ねん)9月(がつ)にできた植物園(しょくぶつえん)。およそ32,500平方メートルの園内(えんない)には世界中(せかいじゅう)の薬草(やくそう)が1,600種類(しゅるい)も植(う)えられ、季節(きせつ)ごとに花(はな)が咲(さ)くよ。

2.野火止(のびどめ)緑地(りょくち)

小平市(こだいらし)栄町(さかえちょう)の市境(しざかい)地域(ちいき) 東大和市(ひがしやまとし)駅(えき)下車(げしゃ)、徒歩(とほ)15分(ふん)
野火止(のびどめ)橋(ばし)から、ふれあい橋(ばし)、どんぐり橋(ばし)と野火止(のびどめ)用水(ようすい)を下(くだ)ってゆけば、雑木林(ぞうきばやし)にかこまれたグリーン・ロード。すてきな散歩道(さんぽみち)だ。

3.九道(くどう)の辻(つじ)公園(こうえん)

小平市(こだいらし)小川(おがわ)東町(ひがしちょう)2-3-4 八坂(やさか)駅(えき)下車(げしゃ)、徒歩(とほ)3分(ぷん)
玉川(たまがわ)上水(じょうすい)と同(おな)じく歴史的(れきしてき)遺産(いさん)、野火止(のびどめ)用水(ようすい)の持(も)つ「水(みず)」「武蔵野(むさしの)」をイメージした彫刻(ちょうこく)がならぶ。
平成(へいせい)元(がん)年(ねん)にできた池(いけ)、滝(たき)、築山(つきやま)、あずまやがそろった和風(わふう)の公園(こうえん)。

4.都立(とりつ)東村山(ひがしむらやま)中央(ちゅうおう)公園(こうえん)

東村山市(ひがしむらやまし)富士見町(ふじみちょう)5-4-67 八坂(やさか)駅(えき)下車(げしゃ)、徒歩(とほ)5分(ぷん)
121,099平方メートルの広(ひろ)い園内(えんない)には林(はやし)あり、バード・サンクチュアリーあり。狭山(さやま)・境緑道(さかいりょくどう)のすぐそばだから、サイクリングの時(とき)、寄(よ)るのもいいよね。

5.恩多(おんた)野火止(のびどめ)水車(すいしゃ)苑(えん)

東村山市(ひがしむらやまし)恩多町(おんたちょう)3-32-3 八坂(やさか)駅(えき)下車(げしゃ)
天明(てんめい)2年(ねん)(1782)から昭和(しょうわ)26年(ねん)(1951)の間(あいだ)、ここには「当麻(とうま)水車(すいしゃ)」とよばれる水車(すいしゃ)があった。
野火止(のびどめ)用水(ようすい)の流(なが)れを利用(りよう)して、製粉(せいふん)・精米(せいまい)・自家(じか)発電(はつでん)をおこない、貴重(きちょう)な動力(どうりょく)だった。この水車(すいしゃ)を再現(さいげん)した水車(すいしゃ)苑(えん)は野火止(のびどめ)用水(ようすい)を歩(ある)く人(ひと)たちのいこいの場(ば)として平成(へいせい)3年(ねん)につくられた。

6.万年(まんねん)橋(ばし)の大(おお)ケヤキ

東村山市(ひがしむらやまし)恩多町(おんたちょう)1-11
承応(じょうおう)3年(ねん)(1654)、野火止(のびどめ)用水(ようすい)を掘(ほ)る時(とき)に、すでに大木(たいぼく)だったので、その下(した)を通(とお)して水路(すいろ)をつくった。木(き)が橋(はし)のように用水(ようすい)をまたいでいるので「万年(まんねん)橋(ばし)」とよばれるようになった。樹令(じゅれい)は600年(ねん)くらいだ、という説(せつ)といやいや、野火止(のびどめ)用水(ようすい)ができたあとだ。樹令(じゅれい)300年(ねん)くらいだ、という説(せつ)があり。いずれにしても大(おお)ケヤキ! 昭和(しょうわ)44年(ねん)3月(がつ)、市(し)の天然(てんねん)記念物(きねんぶつ)に指定(してい)。

7.下里(しもざと)本邑(ほんむら)遺跡(いせき)公園(こうえん)

東久留米市(ひがしくるめし)野火止(のびどめ)3-3-4 東久留米(ひがしくるめ)駅(えき)より西武(せいぶ)バス「都大橋(みやこおおはし)」下車(げしゃ)、徒歩(とほ)5分(ふん)
この地域(ちいき)の人間(にんげん)の歴史(れきし)は古(ふる)い!
約(やく)25,000年(ねん)前(まえ)の先土器(せんどき)時代(じだい)から、縄文(じょうもん)、弥生(やよい)、奈良(なら)、平安(へいあん)時代(じだい)に及(およ)ぶ遺跡(いせき)がある。
黒目川(くろめがわ)の水源地(すいげんち)だった東久留米市(ひがしくるめし)内(ない)には他(ほか)にも130以上(いじょう)もの遺跡(いせき)が見(み)つかっている。やっぱり水(みず)って生活(せいかつ)にはかかせないもんね。

8.小山台(こやまだい)遺跡(いせき)公園(こうえん)

東久留米市(ひがしくるめし)1-10 東久留米(ひがしくるめ)駅(えき)下車(げしゃ)、徒歩(とほ)10分
中学生(ちゅうがくせい)を中心(ちゅうしん)に、市民(しみん)の手(て)で調査(ちょうさ)した縄文(じょうもん)時代(じだい)の遺跡(いせき)。竪穴(たてあな)式(しき)住居(じゅうきょ)が復原(ふくげん)してあるし、ここの高台(たかだい)からは市内(しない)がひと目(め)で見(み)わたせる。

9.竹丘(たけおか)自然(しぜん)公園(こうえん)

清瀬市(きよせし)竹丘(たけおか)3-691-6 清瀬(きよせ)駅(えき)下車(げしゃ)、徒歩(とほ)30分(ぷん)
それほど広(ひろ)くはないけれど、武蔵野(むさしの)ではめずらしくなった野草(やそう)が保護(ほご)されていて、野草(やそう)公園(こうえん)として人気(にんき)あり。

10.松山(まつやま)緑地(りょくち)公園(こうえん)

清瀬市(きよせし)中里(なかざと)4-650 清瀬(きよせ)駅(えき)下車(げしゃ)徒歩(とほ)15分
池(いけ)を中心(ちゅうしん)に、滝(たき)にふん水(すい)に広(ひろ)い芝生(しばふ)。広(ひろ)さは43,300平方メートル。武蔵野(むさしの)のふんいきをあじわえる。

11.西堀(にしぼり)・新堀(しんぼり)コミュニティーセンター

新座市(にいざし)新堀(しんぼり)1-5-9
野火止(のびどめ)用水(ようすい)の史跡(しせき)資料(しりょう)の展示室(てんじしつ)があって、江戸(えど)時代(じだい)の用水(ようすい)の古絵図(こえず)のパネルや写真(しゃしん)の資料(しりょう)などがある。展示室(てんじしつ)は利用(りよう)されている日(ひ)もあるから、見学(けんがく)できるかは、行(い)く前(まえ)に確(たし)かめようね。
042-492-4655

12.新座(にいざ)市立(しりつ)歴史(れきし)民俗(みんぞく)資料館(しりょうかん) 月(げつ)よう、祝日(しゅくじつ)、お休(やす)み!

新座市(にいざし)片山(かたやま)1-21-25
野火止(のびどめ)用水(ようすい)にはかつてたくさんの水車(すいしゃ)がかかっていた。ここではその水車(すいしゃ)の資料(しりょう)をあつめ、展示(てんじ)している。

13.平林寺(へいりんじ)

新座市(にいざし)野火止(のびどめ)3-1-1 新座市(にいざし)駅(えき)下車(げしゃ)
調布(ちょうふ)の深大寺(じんだいじ)とならぶ武蔵野(むさしの)の歴史(れきし)あるお寺(てら)。もともとは永和(えいわ)元(がん)年(ねん)(1375)に太田(おおた)道灌(どうかん)のおとうさんが武蔵国(むさしのくに)金重村(かなしげむら)(今(いま)の岩槻市(いわつきし))に建(た)てたのがはじまり。松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信綱(のぶつな)も、安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)もここに眠(ねむ)る。

1. 多摩川(たまがわ)上流(じょうりゅう)処理場(しょりじょう)

昭和(しょうわ)53年(ねん)5月(がつ)に動(うご)き出(だ)した下水(げすい)処理場(しょりじょう)。昭島(あきしま)・福生(ふっさ)・青梅(おうめ)・立川(たちかわ)・武蔵村山(むさしむらやま)・羽村(はむら)・瑞穂(みずほ)の下水(げすい)を処理(しょり)している。この処理水(しょりすい)が野火止(のびどめ)用水(ようすい)の流(なが)れにいかされている。

2. 小平(こだいら)監視所(かんしじょ)

江戸(えど)時代(じだい)で言(い)えば水番所(みずばんしょ)。上水(じょうすい)のゴミをとりのぞいたり、水位(すいい)を監視(かんし)したり。ここから先(さき)は導水管(どうすいかん)で上水(じょうすい)を東村山(ひがしむらやま)浄水場(じょうすいじょう)へ送(おく)る。

3. 東村山(ひがしむらやま)浄水場(じょうすいじょう)

多摩川(たまがわ)系(けい)と利根川(とねがわ)系(けい)の両方(りょうほう)から水(みず)をとり入(い)れ、浄化(じょうか)して、あちこちに水(みず)を送(おく)っている。小平(こだいら)市内(しない)を通(とお)っているサイクリング道路(どうろ)の下(した)にはその水道管(すいどうかん)が通(とお)っているよ。

その歴史を知ると身近な気がしてくるよね

参考(さんこう)にした本(ほん)

「野火止(のびどめ)用水(ようすい)」
「新座市(にいざし)史(し)」
「清流(せいりゅう)の復活(ふっかつ)」
「東久留米市(ひがしくるめし)の文化財(ぶんかざい)」
「東村山(ひがしむらやま)の文化財(ぶんかざい)・史跡(しせき)」
「九道(くどう)の辻(つじ)公園(こうえん)あんない」
「玉川(たまがわ)上水(じょうすい)・親(おや)と子(こ)の歴史(れきし)散歩(さんぽ)」
「西武(せいぶ)新宿線(しんじゅくせん)歴史(れきし)散歩(さんぽ)」
「最新(さいしん)多摩(たま)あるくマップ」
「史跡(しせき)探訪(たんぼう)関東(かんとう)100選(せん)」
「わたしの街(まち)の散歩道(さんぽみち)」
小平市(こだいらし)、東村山市(ひがしむらやまし)、清瀬市(きよせし)、東久留米市(ひがしくるめし)、新座市(にいざし)、
志木市(しきし)、その他(た)の地域(ちいき)の地図(ちず)…などいろいろ。

小平市に関すること

小平市に関することへのメニュー
1.小平市内めぐり 2.小平れきし年表・小平の街道
4.探検!郷土資料室 5.みんなの町のなまえ
6.小平の鉄道の歴史 8.わたしたちの小学校
9.小平はじめて物語 10.戦争と小平
13.小平こだいらの道 14.小平歳時記
15.小平の新田 16.古い地名
19.公園に行こうよ! 26.小平のごちそう うどん
36.ぼくらの町の仕事(1)こだいらの農業 37.ぼくらの町の仕事(2)こだいらの商業

多摩に関すること

多摩に関することへのメニュー
12.多摩戦国絵巻 18.多摩の絹の道 シルクロード
20.風雲!新選組 21.楽しい施設ガイド
25.東京のできるまで 27.神奈川県から東京府へ多摩移管百年うそ?ほんと?クイズ
29.多摩の芸能 32.八王子千人同心多摩をゆく
35.多摩の酒造 39.江戸時代の東京  文化文政(1800年代初め)の三多摩編

江戸・東京に関すること

江戸・東京に関することへのメニュー
23.幸運招来! 東京七福神めぐり 24.東京の水道
28.江戸をたのしむ 30.わたしのまちの木・花・鳥とシンボルマーク
38.江戸時代の東京  文化文政(1800年代初め)の特別区編 40.花の江戸城  Part1
41.花の江戸城  Part2  

玉川上水・小金井桜に関すること

玉川上水・小金井桜に関することへのメニュー
3.玉川上水をしりたい 7.玉川上水とあそぼう!
17.満開!小金井桜 31.野火止用水をゆけば

その他

その他へのメニュー
11.武蔵武士 22.コレラが町にやって来た
33.これが武蔵国だっ! 34.地震にそなえて

掲載日 令和7年8月1日