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10. 戦争(せんそう)と小平(こだいら)

日本(にっぽん)が太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)につきすすむまで

太平洋戦争の舞台となった地域

1894年(ねん)(明治(めいじ)27年(ねん))、朝鮮(ちょうせん)の支配権(しはいけん)をめぐって、日清(にっしん)戦争(せんそう)(日本(にっぽん)と中国(ちゅうごく)の間(あいだ)の戦争(せんそう))がおこった。
  勝(か)った日本(にっぽん)は、朝鮮(ちょうせん)と台湾(たいわん)を取(と)り、賠償金(ばいしょうきん)や遼東半島も手(て)に入(い)れた。ロシアは、フランス・ドイツとともに日本(にっぽん)にせまり、遼東半島(はんとう)を返還(へんかん)させた。ついでロシアは、遼東(りょうとう)半島(はんとう)の良港(りょうこう)、旅順(りょじゅん)と大連(たいれん)を清国(しんこく)(中国(ちゅうごく))から借(か)り上(あ)げ、勢力(せいりょく)を満州(まんしゅう)から朝鮮(ちょうせん)へと伸(の)ばして来(き)た。
  同(おな)じ地域(ちいき)を手(て)に入(い)れようとねらっていた日本(にっぽん)は、1904年(ねん)(明治(めいじ)37年(ねん))、ロシアに宣戦布告(せんせんふこく)。日露(にちろ)戦争(せんそう)となり、多(おお)くの犠牲(ぎせい)を出(だ)しつつ、日本(にっぽん)はかろうじて勝利(しょうり)した。
  そしてそのころ、関東州(かんとうしゅう)とよばれていた遼東(りょうとう)半島(はんとう)南部(なんぶ)と東清(とうしん)鉄道(てつどう)(長春(ちょうしゅん)~旅順(りょじゅん))、およびそのまわりの炭坑(たんこう)などの権利(けんり)をロシアから得(え)る。
  さらに、これらの財産(ざいさん)を守(まも)るため、日本(にっぽん)はこの地域(ちいき)に軍隊(ぐんたい)を置(お)く。この軍隊(ぐんたい)こそ、日中(にっちゅう)戦争(せんそう)でしばしば登場(とうじょう)する関東軍(かんとうぐん)のはじまりだ。そしてロシアから手(て)に入(い)れた鉄道(てつどう)は南(みなみ)満州(まんしゅう)鉄道(てつどう)(満鉄(まんてつ))になってゆく。
  関東大震災(かんとうだいしんさい)、金融(きんゆう)恐慌(きょうこう)、世界(せかい)恐慌(きょうこう)と続(つづ)けざまに打撃(だげき)を受(う)けた「もたざる国(くに)」日本(にっぽん)は帝国(ていこく)主義(しゅぎ)への道(みち)を選(えら)んだ。
  中国(ちゅうごく)東北部(とうほくぶ)の満州(まんしゅう)は広(ひろ)さが日本(にっぽん)の約(やく)3倍(ばい)。資源(しげん)も豊富(ほうふ)だ。日本(にっぽん)はここに「日本(にっぽん)の生命線(せいめいせん)」を築(きず)こうとした。
  よその国(くに)が自分の国(くに)で好(す)き勝手(かって)をするのだから当然(とうぜん)、中国(ちゅうごく)の人々(ひとびと)は反発(はんぱつ)した。孫文(そんぶん)の中国(ちゅうごく)国民党(こくみんとう)と毛沢東(もうたくとう)の中国(ちゅうごく)共産党(きょうさんとう)が、その運動(うんどう)を盛(も)り上(あ)げていった。
満州国の図   そして1931年(ねん)(昭和(しょうわ)6年(ねん))、15年(ねん)戦争(せんそう)のはじまりである満州(まんしゅう)事変(じへん)がおこる。
  南(みなみ)満州(まんしゅう)鉄道(てつどう)の爆破(ばくは)事件(じけん)を中国(ちゅうごく)軍(ぐん)のしわざとして関東軍(かんとうぐん)は兵(へい)をおこし、1932年(ねん)(昭和(しょうわ)7年(ねん))3月(がつ)には、この地(ち)に満州(まんしゅう)国(こく)をつくりあげてしまった。この国(くに)の皇帝(こうてい)として、すでに滅(ほろ)んでいた清国(しんこく)の最後(さいご)の皇帝(こうてい)、愛親覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)をかつぎ出(だ)し、首都(しゅと)は新京(しんきょう)(今(いま)の長春(ちょうしゅん))においた。
  さらに1937年(ねん)(昭和(しょうわ)12年(ねん))7月(がつ)、北京(ぺきん)郊外(こうがい)の蘆溝橋(ろこうきょう)で演習中(えんしゅうちゅう)の日本(にっぽん)軍(ぐん)が耳(みみ)にした原因(げんいん)不明(ふめい)の銃声(じゅうせい)をきっかけに、日本(にっぽん)と中国(ちゅうごく)の全面(ぜんめん)戦争(せんそう)が始(はじ)まる。中国(ちゅうごく)大陸(たいりく)を舞台(ぶたい)としたこの戦争(せんそう)は長(なが)びき、泥沼化(どろぬまか)し、ついで、1941年(ねん)(昭和(しょうわ)16年(ねん))12月(がつ)8日(か)、わくを太平洋(たいへいよう)にまでひろげ、日本(にっぽん)は米(べい)・英(えい)などの連合国(れんごうこく)をも相手(あいて)に戦(たたか)うようになる。

 

戦争(せんそう)の年表(ねんぴょう)

戦争の年表
年 できごと
1894年 日清(にっしん)戦争(せんそう)おこる。(8月1日)
1895年 清国(しんこく)と下関(しものせき)条約(じょうやく)を結(むす)ぶ。(4月17日)
ロシアらの三国(さんごく)干渉(かんしょう)。(4月23日)
1904年 日露(にちろ)戦争(せんそう)おこる。(2月10日)
1914年 第(だい)一次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)おこる。日本(にっぽん)も参戦(さんせん)。(中国(ちゅうごく)に出兵(しゅっぺい))(7月28日)
1918年 日本(にっぽん)初(はつ)の政党(せいとう)内閣(ないかく)、原(はら)敬(たかし)内閣(ないかく)できる。(9月29日)
1920年 国際連盟(こくさいれんめい)できる。(1月10日)
1923年 関東大震災(かんとうだいしんさい)。(9月1日)
1929年 世界(せかい)恐慌(きょうこう)はじまる。(10月24日)
1931年 満州(まんしゅう)事変(じへん)おこる。(9月18日)
1932年 満州(まんしゅう)国(こく)を建(た)てる。(3月1日)
五・一五事件(ご・いちごじけん)。
1933年 ヒトラー、ドイツ首相(しゅしょう)となる。(1月30日)
ルーズベルト、アメリカ大統領(だいとうりょう)となる。(3月4日)
日本(にっぽん)、国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)。(3月27日)
1936年 二・二六事件(に・にろくじけん)おこる。→日本(にっぽん)の政党(せいとう)政治(せいじ)崩壊(ほうかい)する。
1937年 日中(にっちゅう)戦争(せんそう)おこる。(7月7日)
1938年 国家(こっか)総動員法(そうどういんほう)できる。(4月1日)
1939年 第(だい)2次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)おこる。(9月1日)
パーマネント禁止(きんし)(6月)、女子(じょし)はモンペ、男子(だんし)は軍服(ぐんぷく)規格(きかく)の服(ふく)に(10月)
1940年 チャーチル、イギリス首相(しゅしょう)となる。(5月10日)
日独伊(にちどくい)三国(さんごく)同盟(どうめい)できる。(9月27日)
1941年 6大(だい)都市(とし)で米(こめ)が配給制(はいきゅうせい)となる。小学校(しょうがっこう)を国民(こくみん)学校(がっこう)と改(あらた)める。(4月1日)
東条英機(とうじょうひでき)内閣(ないかく)成立(せいりつ)。(10月18日)
ハル・ノート提出(ていしゅつ)される。(11月26日)
日本(にっぽん)、ハワイ真珠湾(しんじゅわん)を攻撃(こうげき)。米(べい)英(えい)に宣戦布告(せんせんふこく)。→太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)のはじまり。(12月8日)
1942年 日本(にっぽん)、ミッドウェー海戦(かいせん)で大敗(たいはい)。空母(くうぼ)の主力(しゅりょく)を失(うしな)う。(6月5日)
1943年 ガダルカナル島(とう)の日本(にっぽん)軍(ぐん)、退却(たいきゃく)を始(はじ)める。(2月1日)
アッツ島(とう)の日本(にっぽん)軍(ぐん)守備隊(しゅびたい)、全滅(ぜんめつ)。(5月29日)
キスカ島(とう)の日本(にっぽん)軍(ぐん)守備隊(しゅびたい)、退却(たいきゃく)。(7月29日)
「かわいそうなぞう」はこのときの話空襲(くうしゅう)の時(とき)の混乱(こんらん)にそなえ、上野(うえの)動物園(どうぶつえん)で猛獣(もうじゅう)などを薬殺(やくさつ)。(9月)
1944年 日本(にっぽん)軍(ぐん)、インドのインパール作戦(さくせん)に失敗(しっぱい)し退却(たいきゃく)。(7月4日)
マリアナ諸島(しょとう)サイパンの日本(にっぽん)軍(ぐん)守備隊(しゅびたい)、全滅(ぜんめつ)。(7月7日)
学童疎開(がくどうそかい)が強制的(きょうせいてき)におこなわれるようになる。(7月)
米(べい)軍(ぐん)、レイテ島(とう)(フィリピン)に上陸(じょうりく)開始(かいし)。(10月20日)
最初(さいしょ)の神風(かみかぜ)特攻隊(とっこうたい)がフィリピン沖(おき)のアメリカ機動(きどう)艦隊(かんたい)に向(む)けて出撃(しゅつげき)する。(10月25日)
サイパン島(とう)空軍(くうぐん)基地(きち)から飛(と)びたつ米(べい)軍機(ぐんき)による本土(ほんど)空襲(くうしゅう)はじまる。
1945年 ムッソリーニ・ヒトラー・トルーマン・東条英機 米(べい)軍(ぐん)がルソン島(とう)(フィリピン)へ上陸(じょうりく)開始(かいし)。(1月9日)
軍部(ぐんぶ)が本土(ほんど)決戦(けっせん)の計画(けいかく)を決定(けってい)。(1月20日)
B(ビー)29、130機(き)による東京大(とうきょうだい)空襲(くうしゅう)おこなわれる。(3月10日)
硫黄島(いおうじま)の日本(にっぽん)守備隊(しゅびたい)、全滅(ぜんめつ)。(3月17日)
米(べい)軍(ぐん)、沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)に上陸(じょうりく)開始(かいし)。(4月1日)
ヒトラ-、自殺(じさつ)。(4月30日)
ドイツ、無条件(むじょうけん)降伏(こうふく)。(5月7日)
ポツダム宣言(せんげん)、発表(はっぴょう)される。(7月28日)
広島(ひろしま)に原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)。(8月6日)
ソビエトが満州(まんしゅう)に攻(せ)めこんでくる。(8月8日)
長崎(ながさき)に原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)。(8月9日)
ポツダム宣言(せんげん)を受(う)け入(い)れることを決定(けってい)する。(8月10日)
戦争(せんそう)終結(しゅうけつ)の放送(ほうそう)がおこなわえる。(8月15日)

戦時中(せんじちゅう)のスローガン

日の丸べんとう(現代(げんだい)かなづかいになおしてあります)

 

 

日本(にっぽん)人(じん)ならぜいたくはできないはずだ
1939(
昭和(しょうわ)14)年(ねん)

 
昭和しょうわ14年ねん9月がつ1日ついたちから毎月まいつき1日ついたちは「興亜こうあ奉国日ほうこくび」。梅うめぼし1つの日ひの丸まるべんとうや国民こくみん服ふく・モンペがすすめられた。

昭和(しょうわ)14年(ねん)、この年(とし)、「パーマネントはやめましょう」の運動(うんどう)がおこる。
女の人たちは、ヘチマ水(すい)や米(こめ)ぬかなどを手(て)に入らぬ化粧品(けしょうひん)のかわりにした。
昭和(しょうわ)16年(ねん)からはさらに物(もの)が足(た)らなくなり、米(こめ)ぬかは食料(しょくりょう)に。
化粧(けしょう)どころではなくなってしまった。

  

進(すす)め一億(いちおく)  火(ひ)の玉(たま)だ
なにがなんでもやりぬくぞ
ぜいたくは
敵(てき)だ

撃(う)ちてし止(や)まん
頑張(がんば)れ!  敵(てき)も必死(ひっし)だ
1943(昭和(しょうわ)18)年(ねん)

本土(ほんど)決戦(けっせん)
鬼畜(きちく)米(べい)英(えい)をうて
一億(いちおく)玉砕(ぎょくさい)
1944(昭和(しょうわ)19)年(ねん)

  

この時期(じき)には、日本(にっぽん)本土(ほんど)で敵(てき)をむかえうち、国民(こくみん)全員(ぜんいん)が白兵戦(はくへいせん)(刀(かたな)や剣(けん)を握(にぎ)って戦(たたか)うこと)をしなければならないとまで言(い)われていた。

空襲のとき持ってにげるもの、防空ごうに入れるもの

1945年(ねん)8月(がつ)15日(にち)までの出来事(できごと)など

世界(せかい)恐慌(きょうこう)

1929年(ねん)10月(がつ)、アメリカ・ニューヨークで株(かぶ)の大暴落(だいぼうらく)がおこり、これをきっかけに大(だい)恐慌(きょうこう)は世界(せかい)中(じゅう)に広(ひろ)がる。
経済(けいざい)状況(じょうきょう)はめちゃくちゃになり、失業者(しつぎょうしゃ)はあふれた。
これに先立(さきだ)ち日本(にっぽん)は、関東大震災(かんとうだいしんさい)(1923年(ねん))による恐慌(きょうこう)や、金融(きんゆう)恐慌(きょうこう)におそわれていた。とくに農村(のうそん)はしんこくで娘(むすめ)を身売(みう)りにだしたり、昼食(ちゅうしょく)をぬいたりする家(いえ)も多(おお)かった。

満州(まんしゅう)事変(じへん)と満州(まんしゅう)建国(けんこく)

1931年(ねん)9月(がつ)18日(にち)、夜(よる)、満州(まんしゅう)(今(いま)の中国(ちゅうごく)東北(とうほく)地方(ちほう))の柳条溝(りゅうじょうこう)というところで南(みなみ)満州(まんしゅう)鉄道(てつどう)の線路(せんろ)が爆破(ばくは)された。関東軍(かんとうぐん)は、これを理由(りゆう)に南(みなみ)満州(まんしゅう)各地(かくち)を占領(せんりょう)。やがて、1932年(ねん)3月(がつ)には清朝(しんちょう)最後(さいご)の皇帝(こうてい)、愛親覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)をまつりあげ、「満州(まんしゅう)国(こく)」を建国(けんこく)。
国際連盟(こくさいれんめい)は「満州(まんしゅう)国(こく)」をみとめなかった。日本(にっぽん)はこれに対(たい)し、国際連盟(こくさいれんめい)脱退(だったい)という態度(たいど)でこたえた。
敗戦(はいせん)により、満州(まんしゅう)にいた155万人(まんにん)の日本(にっぽん)人(じん)は追(お)われる立場(たちば)になった。そして自決(じけつ)・餓死(がし)・凍死(とうし)・病死(びょうし)などで18万人(まんにん)の命(いのち)が失(うしな)われた。

日中(にっちゅう)戦争(せんそう)

1937年(ねん)7月(がつ)7日(なのか)、北京(ぺきん)郊外(こうがい)の蘆溝橋(ろこうきょう)付近(ふきん)で、夜(よる)、演習(えんしゅう)をしていた日本(にっぽん)軍(ぐん)に銃弾(じゅうだん)があびせられた。中国(ちゅうごく)軍(ぐん)のしわざとみた日本(にっぽん)軍(ぐん)はただちに攻撃(こうげき)。
このことをきっかけに、日本(にっぽん)と中国(ちゅうごく)は全面(ぜんめん)戦争(せんそう)へ。
これは、満州(まんしゅう)事変(じへん)以来(いらい)、日本(にっぽん)をしりぞける気持(きも)ちを強(つよ)くした中国(ちゅうごく)を、力(ちから)で屈服(くっぷく)させようとしたもので、日本(にっぽん)はこの戦(たたか)いが長(なが)びくとは思(おも)っていなかった。
蒋介石(しょうかいせき)の国民(こくみん)政府(せいふ)と毛沢東(もうたくとう)の共産党(きょうさんとう)は日本(にっぽん)と戦(たたか)い、自分(じぶん)の国(くに)を救(すく)うため、協力(きょうりょく)し合(あ)うことになる。
1945年(ねん)8月(がつ)、ポツダム宣言(せんげん)受諾(じゅだく)にともない、中国(ちゅうごく)にいた日本(にっぽん)軍(ぐん)は蒋介石(しょうかいせき)の国民(こくみん)政府(せいふ)に降伏(こうふく)した。

南京(なんきん)大(だい)虐殺(ぎゃくさつ)

1937年(ねん)12月(がつ)、中国(ちゅうごく)の首都(しゅと)、南京(なんきん)を日本(にっぽん)軍(ぐん)が占領(せんりょう)したときおこった中国(ちゅうごく)人(じん)の大量(たいりょう)虐殺(ぎゃくさつ)事件(じけん)。

重慶(ちょんちん)無差別(むさべつ)爆撃(ばくげき)

東京大とうきょうだい空襲くうしゅうは焼夷弾しょういだんの集中しゅうちゅう投下とうかで、市民しみんもろとも焼やき殺ころす「皆みな殺ごろし作戦さくせん」だった。これは第だい二次じ世界せかい大戦たいせんで生うまれた戦術せんじゅつなのだ。第だい1号ごうはナチス・ドイツのゲルニカ(スペイン・バスク地域ちいき)の爆撃ばくげき。第だい2号ごうが日本にっぽん軍ぐんによる天津てんしんや南京なんきん爆撃ばくげきだった。1939年ねん5月がつからは重慶ちょんちんへも無差別むさべつ爆撃ばくげきがなされ、日本にっぽん軍ぐんによるこの惨状さんじょうを写真しゃしんで見みた米べい大統領だいとうりょうルーズベルトは怒いかり、「東京とうきょう市民しみんに重慶ちょんちん市民しみんの苦くるしさを味あじあわせてやる」と叫さけんだという。

第(だい)二(に)次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)

(日=日本、独=ドイツ、伊=イタリア、米=アメリカ、英=イギリス、ソ=ソ連、仏=フランス)
日(にち)・独(どく)・伊(い)の枢軸国(すうじくこく)に対(たい)して英(えい)・米(べい)・ソ・仏(ふつ)などが連合国(れんごうこく)をつくって戦(たたか)った戦争(せんそう)。
日(にち)・独(どく)・伊(い)は植民地(しょくみんち)などの拡大(かくだい)・世界(せかい)帝国(ていこく)の建設(けんせつ)をめざして、現状(げんじょう)からぬけだそうとしていた。米(べい)・英(えい)側(がわ)は1942年(ねん)1月(がつ)、共同(きょうどう)宣言(せんげん)を発(はっ)し、反(はん)ファシズム(注釈)の連合国(れんごうこく)として結集(けっしゅう)。ヨーロッパとアジアの戦争(せんそう)が結(むす)びつき、文(も)字(じ)通(どお)り世界(せかい)規模(きぼ)となったこの戦(たたか)いは人類(じんるい)史上(しじょう)最大(さいだい)のものだった。
戦死(せんし)傷者(しょうしゃ)は英(えい)=110万人(まんにん)、米(べい)=90万人(まんにん)、独(どく)=900万人(まんにん)、ソ=700万人(まんにん)(死者(ししゃ)のみ)。日本(にっぽん)は戦死(せんし)者(しゃ)156万人(まんにん)。このほか60万人(まんにん)近(ちか)い非戦闘員(ひせんとういん)が死(し)んでいる。

(注釈)ファシズム;反(はん)社会(しゃかい)主義(しゅぎ)、反(はん)民主(みんしゅ)主義(しゅぎ)の暴力(ぼうりょく)的(てき)な独裁(どくさい)政治(せいじ)。またはその運動(うんどう)。古代(こだい)ローマの「ファシオ」(“束(たば)”とか“団結(だんけつ)”という意味(いみ))が語源(ごげん)。

三国(さんごく)同盟(どうめい)

1940年(ねん)9月(がつ)27日(にち)、ベルリンで調印(ちょういん)された日(にち)・独(どく)・伊(い)の軍事(ぐんじ)同盟(どうめい)。これによってファシズム三国(さんごく)のむすびつきは強(つよ)められた。
<人物(じんぶつ)しょうかい>
ヒトラー  ドイツ総統(そうとう)。ドイツ人(じん)は世界(せかい)でもっともすぐれた民族(みんぞく)である。今(いま)こそ全力(ぜんりょく)で大(だい)ドイツを建設(けんせつ)しよう、と唱(とな)え、一方(いっぽう)で、ユダヤ人(じん)、共産(きょうさん)主義者(しゅぎしゃ)をてっていてきにだん圧(あつ)。ドイツ敗北(はいぼく)とともに自殺(じさつ)。
ムッソリーニ  ファシスタ党(とう)をひきいてイタリアで独裁(どくさい)政治(せいじ)を行(おこな)う。敗北(はいぼく)とともに国民(こくみん)に処刑(しょけい)される。
東条英機(とうじょうひでき)  日本(にっぽん)の軍人(ぐんじん)・政治(せいじ)家(か)。1941年(ねん)10月(がつ)内閣(ないかく)総理(そうり)大臣(だいじん)となり、太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)にふみきる。敗戦(はいせん)後(ご)は戦争(せんそう)をすすめた罪(つみ)により、極東(きょくとう)国際(こくさい)軍事(ぐんじ)裁判(さいばん)にかけられ、絞首刑(こうしゅけい)となる。

A(エイ)B(ビー)C(シー)D(ディー)包囲陣(ほういじん)

日中(にっちゅう)戦争(せんそう)について、中国(ちゅうごく)を応援(おうえん)する英(えい)・米(べい)側(がわ)は日本(にっぽん)と対立(たいりつ)。日本(にっぽん)は国際的(こくさいてき)に孤立(こりつ)するようになった。 A(エイ)(Amerika(アメリカ)) B(ビー)(Britain(ブリテン=イギリス)) C(シー)(China(中国)) D(ディー)(Dutch(オランダ))の国々(くにぐに)は、日本(にっぽん)の行動(こうどう)をやめさせるため、石油(せきゆ)・すず・ゴムなど必要(ひつよう)な資源(しげん)の輸出(ゆしゅつ)を禁止(きんし)したりして経済(けいざい)的(てき)にしめあげた。
「この包囲(ほうい)をうち破(やぶ)らないかぎり、生(い)きる道(みち)はない」というところまで日本(にっぽん)はおいつめられた。そして1941年(ねん)12月(がつ)8日(ようか)、日本(にっぽん)は太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)へ突入(とつにゅう)してゆく。

ハル・ノート

戦争(せんそう)をさけようとして日(にち)・米(べい)の間(あいだ)では交渉(こうしょう)が重(かさ)ねられていた。ところが1941年(ねん)11月(がつ)26日(にち)、米(べい)・国務(こくむ)長官(ちょうかん)ハルは、日本(にっぽん)に「ハル・ノート」とよばれる、次(つぎ)の要求(ようきゅう)をあげてきた。
  1. 日本(にっぽん)はシナ(中国(ちゅうごく))および仏印(ふついん)(フランス領(りょう)インドシナ)よりひきあげること。
  2. 蒋介石(しょうかいせき)の国民(こくみん)政府(せいふ)以外(いがい)は支持(しじ)しないこと。
これは明治(めいじ)以来(いらい)、日本(にっぽん)がばく大(だい)な戦費(せんぴ)と血(ち)を流(なが)して得(え)た中国(ちゅうごく)に対(たい)する権益(けんえき)(権利(けんり)や利益(りえき))を全(すべ)て捨(す)てろということだ。日本(にっぽん)はこの要求(ようきゅう)をのむことができなかった。
ハル・ノートをこばんだ日本(にっぽん)は、アメリカとの戦争(せんそう)への決意(けつい)をかためたのであった。

太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)

1941年(ねん)12月(がつ)8日(ようか)、日本(にっぽん)の真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)により、幕(まく)をあける。第(だい)二次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)のうち、アジアでの日本(にっぽん)と英(えい)・米(べい)・中国(ちゅうごく)ら連合国(れんごうこく)との戦(たたか)いをさす。中国(ちゅうごく)との戦争(せんそう)にくわえ。日本(にっぽん)は東南(とうなん)アジアの資源(しげん)を得(え)るため南方(なんぽう)進出(しんしゅつ)を計画(けいかく)。ヨーロッパでのナチス・ドイツの勝利(しょうり)に刺激(しげき)されたのである。対立(たいりつ)の立場(たちば)をとっていた英(えい)・米(べい)との関係(かんけい)は決定(けってい)的(てき)となり、開戦(かいせん)となった。
日本(にっぽん)は開戦(かいせん)半年(はんとし)で、フィリピン・マレー半島(はんとう)・インドネシアなどを占領(せんりょう)。さらにニューギニア・ガダルカナルへと進(すす)みオーストラリアにせまった。
しかし、この頃(ころ)よりアメリカが反撃(はんげき)を開始(かいし)。日(にち)米(べい)の生産力(せいさんりょく)の差(さ)もあらわれはじめ、日本(にっぽん)は敗戦(はいせん)へと向(む)かう。

真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)

1941年(ねん)12月(がつ)8日(ようか)、日本(にっぽん)は米(べい)軍(ぐん)太平洋(たいへいよう)艦隊(かんたい)の根拠地(こんきょち)、ハワイの真珠湾(しんじゅわん)を攻撃(こうげき)した。
が、日本(にっぽん)がアメリカに宣戦布告(せんせんふこく)する30分前(ぷんまえ)にこの攻撃(こうげき)はおこなわれてしまい、「だましうち」という非難(ひなん)があがった。
「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾(しんじゅわん)を忘(わす)れるな)という合言葉(あいことば)とともにアメリカは日本(にっぽん)に対(たい)する敵(てき)がい心(しん)をつよめていった。

大(だい)東亜共栄圏(とうあきょうえいけん)

太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)をはじめてから半年(はんとし)あまりの間(あいだ)、日本(にっぽん)は占領(せんりょう)の地域(ちいき)を広(ひろ)げていった。
政府(せいふ)や軍部(ぐんぶ)は、西(にし)はビルマから東(ひがし)はハワイまでおよぶ地域(ちいき)に「大(だい)東亜共栄圏(とうあきょうえいけん)」をつくると言(い)いだした。この地域(ちいき)は、米(べい)・英(えい)・仏(ふつ)・蘭(らん)(オランダ)などの侵略(しんりゃく)をうけて、その植民地(しょくみんち)となっていたところが多(おお)い。日本(にっぽん)は、それらの国(くに)を独立(どくりつ)させ、互(たが)いに協力(きょうりょく)し合(あ)い、助(たす)け合(あ)って、ゆたかで平和(へいわ)な地域(ちいき)をアジアに作(つく)るのだ、と言(い)った。
が、結局(けっきょく)それは日本(にっぽん)中心(ちゅうしん)であって、互(たが)いの国(くに)の独立(どくりつ)と権利(けんり)を十分(じゅうぶん)尊重(そんちょう)したものではなかった。
それに政府(せいふ)は、この地域(ちいき)をまとめることで、日本(にっぽん)に必要(ひつよう)な資源(しげん)を手(て)に入(い)れたいという気持(きも)ちがあったのである。

マンハッタン計画(けいかく)

原子爆弾(げんしばくだん)の研究(けんきゅう)は、はじめドイツですすめられた。この新兵器(しんへいき)がナチス・ドイツに実現(じつげん)することを恐(おそ)れたアメリカの物理(ぶつり)学者(がくしゃ)たちは、ルーズベルト大統領(だいとうりょう)にアメリカでの開発(かいはつ)を急(いそ)ぐよう警告(けいこく)した。
そして、1941年(ねん)12月(がつ)6日、ワシントンで原子爆弾(げんしばくだん)の開発(かいはつ)が極秘(ごくひ)にスタートした。暗号名(あんごうめい)は「マンハッタン計画(けいかく)」。3年(ねん)7ヶ月(げつ)かけて生(う)まれたのは3個(こ)の原子爆弾(げんしばくだん)。プルトニウム爆弾(ばくだん)の実験(じっけん)は成功(せいこう)をおさめ、ポツダム会談(かいだん)にのぞむトルーマン大統領(だいとうりょう)のもとに、暗号(あんごう)でそれが伝(つた)えられた。
“赤(あか)ん坊(ぼう)は申(もう)し分(ぶん)なく生(う)まれた”と。

アウシュビッツ

ナチス・ドイツが建(た)てたユダヤ人(じん)収容所(しゅうようじょ)の一(ひと)つ。
収容所(しゅうようじょ)名簿(めいぼ)に名前(なまえ)がのった人40万(まん)5、000人(にん)。そのうち、34万人(まんにん)が病死(びょうし)・餓死(がし)・自殺(じさつ)・銃殺(じゅうさつ)・ガス室(しつ)送(おく)り・毒殺(どくさつ)・過労死(かろうし)。名前(なまえ)のかわりに番号(ばんごう)でよばれ、左(ひだり)の前腕(ぜんわん)(うでの前側)にイレズミで数字(すうじ)をきざまれた。(子(こ)どもは太(ふと)ももにきざまれた。)
囚人(しゅうじん)たちを対象(たいしょう)に、さまざまな生体(せいたい)実験(じっけん)もおこなわれていた。(日本(にっぽん)軍(ぐん)もハルビン731部隊(ぶたい)で生体(せいたい)実験(じっけん)をしている。)
1944年(ねん)9月(がつ)3日(みっか)には、アンネ・フランクも両親(りょうしん)や姉(あね)とここに収容(しゅうよう)されている。

連合国(れんごうこく)の会談(かいだん)

ドイツ無条件(むじょうけん)降伏(こうふく)後(ご)の1945年(ねん)7月(がつ)17日(にち)~8月(がつ)2日(ふつか)まで、ドイツの首都(しゅと)ベルリン郊外(こうがい)のポツダム宮殿(きゅうでん)で、米(べい)・英(えい)・ソの3巨頭(きょとう)が会談(かいだん)をひらいた。日本(にっぽん)に無条件(むじょうけん)降伏(こうふく)を求(もと)めるためと、敗戦(はいせん)国(こく)ドイツをどう取(と)り扱(あつか)うか話(はな)し合(あ)うためだ。
7月(がつ)26日(にち)、この会談(かいだん)の内容(ないよう)はポツダム宣言(せんげん)として発表(はっぴょう)された。日本(にっぽん)に対(たい)する要求(ようきゅう)は
  1. 日本(にっぽん)から軍国(ぐんこく)主義(しゅぎ)をなくすこと。
  2. 日本(にっぽん)が回復(かいふく)するまで連合国(れんごうこく)が日本(にっぽん)を占領(せんりょう)すること。
  3. 日本(にっぽん)の国(くに)は本州(ほんしゅう)・四国(しこく)・九州(きゅうしゅう)・北海道(ほっかいどう)とそのまわりの島(しま)にかぎること。
  4. 戦争(せんそう)犯罪人(はんざいにん)は処罰(しょばつ)し、日本(にっぽん)に民主(みんしゅ)主義(しゅぎ)を育(そだ)てること。
  5. 再軍備(さいぐんび)を禁止(きんし)すること。

戦争と東京(とうきょう)の家族(かぞく)

太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)のつづく中(なか)、外国(がいこく)からの輸入(ゆにゅう)にたよっていた日本(にっぽん)は、鉄(てつ)も石油(せきゆ)も砂糖(さとう)も綿(めん)も足(た)りなくなっていた。
おとうさんやおじさんは兵隊(へいたい)に行(い)った。農村(のうそん)や工場(こうじょう)は働(はたら)き手(て)が足(た)りなくなって、食(た)べ物(もの)も品物(しなもの)もなくなった。かわりにおにいさんや、おねえさんが働(はたら)きに行(い)った。そして子(こ)どもたちは親(おや)もとをはなれ、疎開(そかい)しなければならなかったのだ。

ある家族

 

少年兵(しょうねんへい)

戦争(せんそう)の末期(まっき)にはたくさんの「少年兵(しょうねんへい)」が戦場(せんじょう)に出(だ)て行(い)った。陸海軍(りくかいぐん)は全国(ぜんこく)の中学校(ちゅうがっこう)へ少年兵(しょうねんへい)の人数(にんずう)をわり当(あ)て、少年(しょうねん)たちの多(おお)くは家族(かぞく)の不安(ふあん)をふりきって、自(みずか)ら志願(しがん)していった。14~15歳の少年(しょうねん)たちが、陸軍(りくぐん)少年(しょうねん)飛行(ひこう)学校(がっこう)にはいったり、海軍(かいぐん)飛行(ひこう)予科(よか)練習生(れんしゅうせい)(予科(よか)練(れん))となって17~18歳(さい)で戦死(せんし)していったのだ。

おなかがすいたよ…

戦争(せんそう)はつづき、食(た)べ物(もの)が手(て)にはいりにくくなってきた。みんなは庭(にわ)やあき地(ち)を畑(はたけ)にし、サツマイモ・ジャガイモ・野菜(やさい)などを植(う)えるようになった。自分(じぶん)たちの命(いのち)をささえるために…。1939年(ねん)10月(がつ)1日(ついたち)から、米(こめ)が配給制(はいきゅうせい)になる。大人(おとな)の1日分(いちにちぶん)は2合(ごう)3勺(じゃく)(ごはん茶(ちゃ)わんで4~5杯(はい))。子(こ)どもの1日分(いちにちぶん)は1合(ごう)4勺(しゃく)。あと、木炭(もくたん)・マッチ・みそ・しょうゆ・砂糖(さとう)と、配給制(はいきゅうせい)、切符制(きっぷせい)になるものが続(つづ)く。
1940年(ねん)8月(がつ)1日から、東京(とうきょう)の食堂(しょくどう)ではごはんを売(う)ることが禁止(きんし)。「卯(う)の花(はな)ずし」(おからをのりでまいたすし)や「海草(かいそう)そば」(細長(ほそなが)い海草(かいそう)をそばのように料理(りょうり)したもの)などというものが登場(とうじょう)。
1944年(ねん)から1945年(ねん)ごろには「銀飯(ぎんめし)」(白(しろ)いごはん)そのものが夢(ゆめ)となった。
おかあさんのオッパイは栄養(えいよう)がなくなり、水(みず)と同(おな)じ。それを飲(の)むあかちゃんは衰弱(すいじゃく)して病気(びょうき)になったり、死(し)んでしまったり。
このころからぞうすい食堂(しょくどう)がはやった。「ぞうすい」といっても、しょうゆ汁(じる)の中(なか)にわずかな菜(な)っぱとごはん粒(つぶ)がういているだけ。
1945年(ねん)7月(がつ)11日(にち)(大(だい)都市(とし)では8月(がつ)11日(にち))から米(こめ)の配給量(はいきゅうりょう)も2合(ごう)1勺(しゃく)と減(へ)り、それすらとどこおりつつ、この数字(すうじ)は戦後(せんご)1946年(ねん)11月(がつ)まで回復(かいふく)しなかった。

綿製品(めんせいひん)がなくなってゆき、「スフ」がピンチヒッターとして登場(とうじょう)。ただしくはスティープルファイバー。レーヨンで織(お)ったこのぬのじ布地はペラペラで質(しつ)が悪(わる)かった。

学徒(がくと)出陣(しゅつじん)

戦争(せんそう)がながびき、戦争(せんそう)の地域(ちいき)が広(ひろ)がってゆくと、日本(にっぽん)軍(ぐん)は兵士(へいし)が足(た)りなくなってきた。それまで学生(がくせい)は勉強中(べんきょうちゅう)の身(み)ということで、満(まん)26歳(さい)まで徴兵(ちょうへい)(兵士(へいし)として引(ひ)っぱられること)をのばされていたが、1943年(ねん)12月(がつ)より、理工系(りこうけい)の大学生(だいがくせい)をのぞき「学徒(がくと)出陣(しゅつじん)」するようになる。つまり、学生(がくせい)を狩(か)り出(だ)さねば、もうたちゆかなくなっていたのだ。

学童(がくどう)集団(しゅうだん)疎開(そかい)

1944年(ねん)6月(がつ)、マリアナ沖(おき)海戦(かいせん)で日本(にっぽん)軍(ぐん)が大敗(たいはい)すると、東条英機(とうじょうひでき)内閣(ないかく)は、やがてはげしくなるだろう本土(ほんど)空襲(くうしゅう)にそなえて、大(だい)都市(とし)の学童(がくどう)(国民(こくみん)学校(がっこう)初等科(しょとうか)3~6年(ねん))の集団(しゅうだん)疎開(そかい)を決定(けってい)。
1945年(ねん)には、45万人(まんにん)(うち東京(とうきょう)では26万人(まんにん))をこえる子(こ)どもたちが家族(かぞく)とはなれ、先生(せんせい)や寮母(りょうぼ)さんにつきそわれて、地方(ちほう)の寺(てら)・神社(じんじゃ)・旅館(りょかん)に身(み)を寄(よ)せた。つらかったことの第(だい)一(いち)は空腹(くうふく)。次(つぎ)に勤労(きんろう)。(物資(ぶっし)が足(た)りないので子(こ)どもたちだって働(はたら)いた。)それから服(ふく)や髪(かみ)の毛(け)にたかるノミ・しらみ。疎開(そかい)中(ちゅう)、家族(かぞく)が空襲(くうしゅう)で死(し)んでしまって、ひとりぽっちになる子(こ)だっていたし、1945年(ねん)3月(がつ)卒業式(そつぎょうしき)で東京(とうきょう)に戻(もど)り、3月(がつ)10日(とうか)の大(だい)空襲(くうしゅう)をうけてしまった6年生(ねんせい)もいた。

おとうさんは戦場(せんじょう)へ

おとうさんたちは「赤紙(あかがみ)」とよばれた召集(しょうしゅう)令状(れいじょう)をもらって戦争(せんそう)に行(い)く。一銭(いっせん)五厘(ごりん)(ハガキ料金(りょうきん))が兵隊(へいたい)のねだん、と言(い)われた。陸軍(りくぐん)の「戦陣(せんじん)訓(くん)」(戦(たたか)いのおしえ)では「生(い)きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受(う)けず」(捕(ほ)りょになるくらいなら死(し)ね、ということ)と言(い)われた。南方(なんぽう)の兵士(へいし)はマラリア、アメーバ赤痢(せきり)などの病気(びょうき)に苦(くる)しんだ。きず口(ぐち)にウジがわいた。食料(しょくりょう)も兵器(へいき)も底(そこ)をつき、木(こ)の葉(は)、草(くさ)の根(ね)をかじった。北(きた)の満州(まんしゅう)では凍傷(とうしょう)で手足(てあし)のゆびがくさった。戦争(せんそう)がおわるとこの地(ち)の日本(にっぽん)人(じん)たちはとらえられ、シベリアへ。そして何年間(なんねんかん)も強制(きょうせい)労働(ろうどう)につくことになる。

勤労(きんろう)動員(どういん)

おとうさんやおじさんは戦争(せんそう)に出(だ)て行(い)った。農村(のうそん)も工場(こうじょう)も人手(ひとで)不足(ぶそく)になってしまった。そこで勤労(きんろう)動員(どういん)といって、結婚(けっこん)していない女(おんな)の人(ひと)や学生(がくせい)たちが働(はたら)きにでるようになった。
1943年(ねん)9月(がつ)には14~15歳(さい)までの結婚(けっこん)していない女(おんな)の人(ひと)が女子(じょし)挺身隊(ていしんたい)にはいって働(はたら)くことに決(き)められた。1945年(ねん)6月(がつ)からはその年令(ねんれい)も12歳(さい)に引(ひ)き下(さ)げられた。
1945年(ねん)3月(がつ)より、国民(こくみん)学校(がっこう)初等科(しょとうか)をのぞき、すべての学生(がくせい)は1年間(ねんかん)、授業(じゅぎょう)をとりやめることに。学校(がっこう)にかわって毎日(まいにち)、工場(こうじょう)に出勤(しゅっきん)するのだ。
もっとも初等科(しょとうか)の生徒(せいと)だって疎開(そかい)やら空襲(くうしゅう)やらで授業(じゅぎょう)どころではなかったけれど…。

東京大(とうきょうだい)空襲(くうしゅう)

1944年(ねん)7月(がつ)、日本(にっぽん)が「不沈(ふちん)空母(くうぼ)」と誇(ほこ)っていたマリアナ諸島(しょとう)サイパンが全滅(ぜんめつ)。グアム、テアニンと3つの島(しま)からなる米軍(べいぐん)のマリアナ基地(きち)はまもなく完成(かんせい)した。ここを足(あし)がかりに、米(べい)空軍(くうぐん)の超重(ちょうじゅう)爆撃(ばくげき)機(き)B(ビー)29は1944年(ねん)11月(がつ)からよく45年(ねん)8月(がつ)まで毎日(まいにち)のように日本(にっぽん)本土(ほんど)を空襲(くうしゅう)した。それでも1945年(ねん)3月(がつ)上旬(じょうじゅん)までは、日中(にっちゅう)、高(たか)いところからの軍事(ぐんじ)施設(しせつ)への攻撃(こうげき)が中心(ちゅうしん)だった。3月(がつ)10日(とうか)、東京大(とうきょうだい)空襲(くうしゅう)で、夜(よる)、低(ひく)い飛行(ひこう)での焼夷弾(しょういだん)による一般(いっぱん)市民(しみん)への無差別(むさべつ)攻撃(こうげき)がはじまる。0時(じ)8分(ふん)から2時(じ)37分(ふん)までの2時間半(じかんはん)で、この日(ひ)、100万人(まんにん)が焼(や)けだされ、10万人(まんにん)(推定(すいてい))が死(し)んだ。
おとうさんは戦地(せんち)に行(い)って家(いえ)にはいない。おかあさんはあかんぼうをおぶい、小(ちい)さな子(こ)の手(て)をひいて、火(ひ)の海(うみ)を逃(に)げまわった。
以来(いらい)、東京(とうきょう)をはじめ、日本(にっぽん)の大(だい)都市(とし)はつぎつぎと襲撃(しゅうげき)されるようになる。

金属類(きんぞくるい)回収令(かいしゅうれい)

1942年(ねん)5月(がつ)、鉄(てつ)、銅(どう)などの不足(ふそく)をおぎなうため、政府(せいふ)が出(だ)した命令(めいれい)。
家庭(かてい)からはナベ・かま・やかんなどが集(あつ)められた。お寺(てら)の鐘(かね)・銅像(どうぞう)なども回収(かいしゅう)。ダイヤモンド・金(きん)・銀(ぎん)などの宝石(ほうせき)・貴金属(ききんぞく)も出(だ)させられた。

戦争中(せんそうちゅう)のこどもたち

太平洋戦争のころ

木刀のくんれん 日本(にっぽん)はこのころ戦争(せんそう)一色(いっしょく)。学校(がっこう)でだって戦(たたか)うための体力(たいりょく)づくり。
男子(だんし)は木刀(ぼくとう)、女子(じょし)はなぎなたのくんれんをした。

学校(がっこう)の学芸会(がくげいかい)では出(だ)しものは戦争(せんそう)ものばっかり。
女(おんな)の子(こ)は軍歌(ぐんか)のおどりをしたり。
(一小記念誌「協同」、二小記念誌「文〓」、三小記念誌「桜蔭」より)

国民(こくみん)学校(がっこう)高等科(こうとうか)(今(いま)の中学生(ちゅうがくせい))の生徒(せいと)たちは、動員(どういん)で中島(なかじま)飛行機(ひこうき)製作所(せいさくじょ)や陸軍(りくぐん)経理(けいり)学校(がっこう)に働(はたら)きに行(い)った。
仕事がいそがしくてあんまりあそべなかったな
年下(としした)のこどもたちは、兵隊(へいたい)にとられて男手(おとこで)の足(た)りない農家(のうか)に手伝(てつだ)いに行(い)ったり。
あちこちの家(いえ)で、兵隊(へいたい)さんの毛皮(けがわ)にするため、ウサギを飼(か)っていたから、エサにする草(くさ)を刈(か)ったり。
学校(がっこう)でも空(あ)き地(ち)にサツマイモをうえたり。
おさとうも足りなくなって… 桑(くわ)の木(み)の皮(かわ)むきもした。(このせんい(…)で洋服(ようふく)を作(つく)るのだ。)
ナラ、クヌギ、カシの実(み)ひろいもした。
干(ほ)して粉(こな)にして食用(しょくよう)にするんだ。
松根油(しょうこんゆ)をとるため、松(まつ)の木(き)の根(ね)っ子(こ)もほった。飛行機(ひこうき)の燃料(ねんりょう)にするために。

それでも小平(こだいら)は食糧(しょくりょう)事情(じじょう)とか空襲(くうしゅう)とかについて、区部(くぶ)よりまだましだったかもしれない。
食糧(しょくりょう)難(なん)は戦後(せんご)もひどかった。お弁当(べんとう)をもってこれない子(こ)だっていたんだ。

防空ずきん 防空(ぼうくう)ずきん(防災(ぼうさい)ずきんに似(に)ている)を毎日(まいにち)せなかにしょって通学(つうがく)した。いつ空襲(くうしゅう)があるかわからないもん!

学校(がっこう)で防空(ぼうくう)ごう掘(ほ)りをした。防空(ぼうくう)ひなん訓練(くんれん)は毎日(まいにち)のようにした。
これが防空演習だ!

もっと勉強したかった 警戒(けいかい)警報(けいほう)(空襲(くうしゅう)があるぞというしらせ)がひびけば学校(がっこう)から家(いえ)に帰(かえ)る。
朝(あさ)も10時(じ)までに警戒(けいかい)警報(けいほう)がとけなければ、その日(ひ)学校(がっこう)はお休(やす)み。大(おお)きな子(こ)たちは動員(どういん)どかもあったしね。

えんぴつもノートももっとほしかった!

 

小平(こだいら)に疎開(そかい)していたこどもたち

どこの区(く)の学童(がくどう)がどの地域(ちいき)に疎開(そかい)するかは、わりあてになっていて、北多摩(きたたま)には赤坂(あかさか)のこどもたちが来(き)ていた。
小平(こだいら)にも、今(いま)の新(しん)小平(こだいら)駅(えき)ちかくの大(おお)きな農家(のうか)3軒(げん)に東京(とうきょう)女子(じょし)高等(こうとう)師範(しはん)学校(がっこう)(今(いま)のお茶(ちゃ)の水(みず)大学(だいがく))付属(ふぞく)国民(こくみん)学校(がっこう)の生徒(せいと)たちが身(み)をよせた。
親(おや)は「東京(とうきょう)にいればみんな死(し)ぬ。こどもだけは助(たす)けたい」と送(おく)り出した。親(おや)もとをはなれ、きびしい条件(じょうけん)のもとで「おなかが減(へ)ってつらい、身(み)投(な)げがしたい」とハガキに書(か)いた子(こ)だっていたんだよ。
(お茶(ちゃ)の水(みず)学童疎開(がくどうそかい)の会(かい)「里(さと)にうつりて」より)
お寺(てら)が集団(しゅうだん)疎開(そかい)の学寮(がくりょう)になる場合(ばあい)が多(おお)かったようだ。でも、あんまり記録(きろく)がのこってない…。ほかに、どんな学校(がっこう)が小平(こだいら)に来(き)ていたかわかったら、中央(ちゅうおう)図書館(としょかん)に教(おし)えてね!

 

小平(こだいら)に空襲(くうしゅう)

1945(昭和(しょうわ)20)年(ねん)4月(がつ)2日(ふつか)

162発はつの時限じげん爆弾ばくだん投下とうか(2時じ20分ぷん~3時じ30分ぷん)
おちて30分(ぷん)後(ご)くらいから、7時(じ)30分(ぷん)までの間(あいだ)につぎつぎと爆発(ばくはつ)。
全部(ぜんぶ)こわれた家(いえ)  13戸(こ)
半分(はんぶん)こわれた家(いえ)  5戸(こ)
この日(ひ)、西武(せいぶ)鉄道(てつどう)  花(はな)小金井(こがねい)駅(えき)~小平(こだいら)の間(あいだ)の線路(せんろ)がこわされる。

焼夷弾(しょういだん)で昭和(しょうわ)病院(びょういん)あたりの家(いえ)が5軒(けん)もやけたことがあるんだそうだ。

 

同(どう)年(ねん)4月(がつ)19日(にち)  10時(じ)10分(ぷん)

鈴木(すずき)新田(しんでん)、範多(はんた)範三郎(はんざぶろう)氏(し)の家(いえ)が全焼(ぜんしょう)。
本名(ほんみょう)=ハンス・ハンター。イギリス人(じん)の父(ちち)と日本(にっぽん)人(じん)の母(はは)をもつ実業家(じつぎょうか)。昭和(しょうわ)12~3年(ねん)、戦争(せんそう)を予知(よち)し、余世(よせい)を送(おく)るため、小平(こだいら)(今(いま)の小金井(こがねい)カントリークラブ北(きた)側(がわ))に1万(まん)6、000坪(つぼ)の農園(のうえん)をつくった。財(ざい)をつぎこんだ母屋(おもや)は空襲(くうしゅう)をうけ、一瞬(いっしゅん)のうちに炎(ほのお)につつまれた。
 

同(どう)年(ねん)4月(がつ)24日(か)

玉川(たまがわ)上水路(じょうすいろ)、小平(こだいら)分水(ぶんすい)取入口(とりいれぐち)ふきんに爆弾(ばくだん)投下(とうか)。全部(ぜんぶ)こわれた家(いえ)  3戸(こ)。
 

同(どう)年(ねん)5月(がつ)25日(にち)

24、25日(にち)  深夜(しんや)、東京(とうきょう)は山(やま)の手(て)と焼(や)けのこった地域(ちいき)全(すべ)てが空襲(くうしゅう)をうけている。

 

北多摩(きたたま)の空襲(くうしゅう)による被害(ひがい)

死亡(しぼう)   1,002 人(にん)
重傷者    393人(にん)
軽傷者    247人(にん)  など
被害(ひがい)を受(う)けた人(ひと) の合計  25,277 人(にん)

おまけ話

  • 戦争(せんそう)中(ちゅう)投下(とうか)されて爆発(ばくはつ)しなかった爆弾(ばくだん)(不発弾(ふはつだん))が戦後(せんご)も残(のこ)っていた。昭和(しょうわ)47年(ねん)12月(がつ)14日(か)には大沼(おおぬま)町(ちょう)1丁目(ちょうめ)でこれをとりのぞく作業(さぎょう)をしている。不発弾(ふはつだん)は小川町(おがわちょう)2丁目(ちょうめ)にもあったらしい。(処理(しょり)はすんでる。もちろん。)
  • 上水(じょうすい)南町(みなみちょう)の大仙寺(だいせんじ)は台東区(たいとうく)浅草(あさくさ)にあったんだけど、空襲(くうしゅう)で焼(や)けてしまって、昭和(しょうわ)23年(ねん)5月(がつ)、小平(こだいら)にひっこしてきたんだよ。知(し)ってた?

だから多摩(たま)も襲撃(しゅうげき)された!
小平(こだいら)周辺(しゅうへん)軍事(ぐんじ)施設(しせつ)・軍需(ぐんじゅ)工場(こうじょう)マップ

太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)のころになると多摩(たま)地区(ちく)には、軍(ぐん)の施設(しせつ)や戦争(せんそう)のための工場(こうじょう)がバタバタと建(た)ちはじめた。
広々(ひろびろ)した武蔵野(むさしの)台地(だいち)のあっちこっちに。

小平周辺軍事施設・軍需工場マップ

1  陸軍(りくぐん)多摩(たま)飛行場(ひこうじょう)

  • 陸軍(りくぐん)航空(こうくう)整備(せいび)学校(がっこう)
  • 航空(こうくう)審査部(しんさぶ)
  • 多摩(たま)航空(こうくう)機(き)製作所(せいさくじょ)

(今(いま)の米軍(べいぐん)横田(よこた)基地(きち)のところ)

 

2  昭和(しょうわ)飛行機(ひこうき)工場(こうじょう)
(今(いま)も同(おな)じ)

 

3  日野(ひの)重工業(じゅうこうぎょう)(株)
戦車(せんしゃ)を作(つく)っていた。
(今(いま)は日野(ひの)自動車(じどうしゃ)工業(こうぎょう)だ)

 

4  六桜社(ろくおうしゃ)・日野(ひの)分(ぶん)工場(こうじょう)
航空(こうくう)写真(しゃしん)フィルムの工場(こうじょう)
(今(いま)はコニカ)

 

5  富士(ふじ)重機(じゅうき)  豊田(とよだ)工場(こうじょう)
特殊(とくしゅ)兵器(へいき)をつくっていた。
(今(いま)も富士(ふじ)重機(じゅうき))

 

6  陸軍(りくぐん)航空(こうくう)工廠(こうしょう)
(今(いま)は小(しょう)・中学(ちゅうがく)・高校(こうこう)・公園(こうえん)などの施設(しせつ)が建(た)っている)

 

7  陸軍(りくぐん)整備(せいび)学校(がっこう)
(今(いま)の村山(むらやま)病院(びょういん)あたり)

 

8  東京(とうきょう)陸軍(りくぐん)少年(しょうねん)飛行(ひこう)学校(がっこう)
特攻隊(とっこうたい)の少年(しょうねん)飛行兵(ひこうへい)の多(おお)くは、ここで訓練(くんれん)をうけた。

 

 9  陸軍(りくぐん)立川(たちかわ)飛行場(ひこうじょう)   立川(たちかわ)は軍都(ぐんと)だった! 

  • 陸軍(りくぐん)航空(こうくう)技術(ぎじゅつ)研究所(けんきゅうじょ)
  • 陸軍(りくぐん)航空(こうくう)工廠(こうしょう)立川(たちかわ)支廠(ししょう)
  • 陸軍(りくぐん)航空(こうくう)技術(ぎじゅつ)学校(がっこう)
  • 立川(たちかわ)飛行機(ひこうき)株式(かぶしき)会社(がいしゃ)

今(いま)、昭和(しょうわ)記念(きねん)公園(こうえん)、陸上(じくじょう)自衛隊(じえいたい)駐(ちゅう)とん地(ち)、立飛(たっぴ)企業(きぎょう)があるあたり。

 

10  日立(ひたち)航空(こうくう)機(き)工場(こうじょう)
陸軍(りくぐん)の飛行機(ひこうき)のエンジンをつくっていた。ゼロ戦(せん)のエンジンも。
(今(いま)、イトーヨーカドー東大和店(ひがしやまとてん)のあるところ)

 

11  陸軍(りくぐん)資材(しざい)本廠(ほんしょう)
(今(いま)の陸上(じくじょう)自衛隊(じえいたい)・航空(こうくう)自衛隊(じえいたい)の駐(ちゅう)とん地(ち))

 

12  鉄道(てつどう)調査所分所(ちょうさしょぶんしょ)
昭和(しょうわ)19年(ねん)、戦火(せんか)をさけ、浜松町(はままつちょう)からひっこしてきた。
(今(いま)の鉄道(てつどう)総合(そうごう)技術(ぎじゅつ)研究所(けんきゅうじょ))

 

13  東部(とうぶ)国民(こくみん)勤労(きんろう)訓練(くんれん)所(じょ)
(
今(いま)の職業(しょくぎょう)訓練(くんれん)大(だい)学校(がっこう)あたり)

 

14  陸軍(りくぐん)兵器(へいき)補給(ほきゅう)廠(しょう)小平(こだいら)分廠(ぶんしょう)
(今(いま)
はブリジストンタイヤ東京(とうきょう)工場(こうじょう))
傷痍(しょうい)軍人(ぐんじん)療養(りょうよう)所(じょ)
(今(いま)の国立(こくりつ)精神(せいしん)・神経(しんけい)センター)

 

15  陸軍(りくぐん)経理(けいり)学校(がっこう)
(今(いま)、陸上(じくじょう)自衛隊(じえいたい)駐(ちゅう)とん地(ち)・建設(けんせつ)大(だい)学校(がっこう)・警察(けいさつ)学校(がっこう)・小平(こだいら)団地(だんち)・シルバー精工(せいこう)・小平(こだいら)九小(しょう)があるあたり)

 

16  日立(ひたち)中央(ちゅうおう)研究所(けんきゅうじょ)
科学(かがく)技術(ぎじゅつ)の研究(けんきゅう)
(今(いま)、日立(ひたち)製作所(せいさくじょ)、中央(ちゅうおう)研究所(けんきゅうじょ)があるところ)

 

17  日本(にっぽん)製鋼所(てっこうじょ)武蔵(むさし)製作所(せいさくじょ)
はじめのころ戦車(せんしゃ)を、のち高射砲(こうしゃほう)をつくっていた。
東芝(とうしば)車輌(しゃりょう)製作所(せいさくじょ)
(今(いま)の日本(にっぽん)製鋼所(てっこうじょ)、東芝(とうしば)府中(ふちゅう)工場(こうじょう)があるところ)

 

18  陸軍(りくぐん)燃料(ねんりょう)廠(しょう)
(今(いま)は航空(こうくう)自衛隊(じえいたい)の駐(ちゅう)とん地(ち))

 

19  陸軍(りくぐん)技術(ぎじゅつ)研究所(けんきゅうじょ)
兵器(へいき)の研究(けんきゅう)・開発(かいはつ)をおこなう。
(今(いま)、東京(とうきょう)学芸(がくげい)大学(だいがく)・東京(とうきょう)サレジオ学園(がくえん)があるところ)
電波(でんぱ)物理(ぶつり)研究所(けんきゅうじょ)
(今(いま)の郵政省(ゆうせいしょう)電波(でんぱ)研究所(けんきゅうじょ))

 

20  参謀(さんぼう)本部(ほんぶ)特殊(とくしゅ)無線(むせん)通信所(つうしんじょ)
(
今(いま)、通信(つうしん)住宅(じゅうたく)があるあたり)

 

21  中島(なかじま)飛行機(ひこうき)工場(こうじょう)
(今(いま)のひばりが丘団地(だんち)のあたり)

 

22  中島(なかじま)航空(こうくう)金属(きんぞく)
(今(いま)、住友(すみとも)重機械(じゅうきかい)工場(こうじょう)があるところ)

 

23  豊和(ほうわ)重工業(じゅうこうぎょう)工場(こうじょう)
(今(いま)、株式会社(かぶしきがいしゃ)I(アイ)H(エイチ)I(アイ)があるところ)

 

24  朝比奈(あさひな)鉄工(てっこう)
(今(いま)の朝比奈(あさひな)機械(きかい)があるところ)

 

25 中島(なかじま)飛行機(ひこうき)武蔵(むさし)製作所(せいさくじょ)
当時(とうじ)、飛行機(ひこうき)をつくる工場(こうじょう)の中(なか)でも日本(にっぽん)一、二をあらそう規模(きぼ)だった。
何度(なんど)も何度(なんど)も空襲(くうしゅう)をうけた。
(今(いま)、武蔵野(むさしの)市役所(しやくしょ)や市営(しえい)グランドがあるあたり)

 

26  帝国(ていこく)ミシン
小銃(しょうじゅう)をつくっていた。
(今(いま)の蛇(じゃ)の目(め)ミシンのところ)

 

27  中島(なかじま)飛行機(ひこうき)三鷹(みたか)工場(こうじょう)および研究所(けんきゅうじょ)
(今(いま)
、国際(こくさい)基督教(きりすときょう)大学(だいがく)・富士(ふじ)重工業(じゅうこうぎょう)があるところ)

 

28  調布(ちょうふ)飛行場(ひこうじょう)
(今(いま)も同(おな)じ)

 

 29  正田(しょうだ)飛行機(ひこうき)・三鷹(みたか)航空(こうくう)・日本(にっぽん)無線(むせん)
(今(いま)、日産(にっさん)自動車(じどうしゃ)・日本(にっぽん)無線(むせん)があるところ )

 

30  航空(こうくう)研究所(けんきゅうじょ)
鉄道(てつどう)運輸(うんゆ)研究所(けんきゅうじょ)
(今(いま)、船舶(せんぱく)技術(ぎじゅつ)研究所(けんきゅうじょ)・航空(こうくう)宇宙(うちゅう)技術(ぎじゅつ)研究所(けんきゅうじょ)があるところ)

 

31  東京(とうきょう)重機(じゅうき)工業(こうぎょう)株式(かぶしき)会社(がいしゃ)
おもに小銃(しょうじゅう)をつくっていた。
(今(いま)、ジューキがあるところ)

 

32  国際(こくさい)電信(でんしん)研究所(けんきゅうじょ)
(今(いま)、NTT(エヌティーティー)中央(ちゅうおう)電通(でんつう)学園(がくえん)があるところ)

戦争って何なのか考えてね

参考(さんこう)にした本(ほん)

郷土(きょうど)資料室(しりょうしつ)から

各市町村史(市や町の歴史の本)、「東京百年史」第5巻
「東京大空襲・戦災史」1~5巻、「東京都35区区分地図帖  戦災焼失区域表示」
「里にうつりて」、「市報こだいら」
「多摩のあゆみ」第35号、「東京が燃えた日」
一.小創立百周年記念誌「協同」
二.小開校五十周年記念誌「文」
三.小百年のあゆみ「桜蔭」

児童(じどう)コーナーから

「学研の図鑑  日本の歴史  近・現代の人々」
「現代知識情報事典  社会5」「世界反戦詩集」
「ほるぷ  日本の歴史」6・7巻
「父が子におくる1億人の昭和史(3)」
母と子で見るシリーズより
「広島・長崎」
「重慶からの手紙」「南京からの手紙」「ハルビンからの手紙」
「東京大空襲」「原爆を撮った男たち」「アウシュビッツ」「日本の空襲」

小平市に関すること

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掲載日 令和7年8月1日