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16.古(ふる)い地名(ちめい)

古(ふる)い地名(ちめい)

  小平(こだいら)の今(いま)の町(まち)のなまえは、昭和(しょうわ)37(1962)年(ねん)10月(がつ)1日(ついたち)、市制(しせい)が始(はじ)まった時(とき)につけられたもの。それより前(まえ)は、「野中(のなか)新田(しんでん)善左衛門組(ぜんざえもんぐみ)」とか「大沼田(おおぬまた)新田(しんでん)」とか新田(しんでん)ごとに地域(ちいき)が分(わ)かれていた。(小川(おがわ)新田(しんでん)の一部分(ぶぶん)は、大正(たいしょう)時代(じだい)に始(はじ)められた土地(とち)開発(かいはつ)によって「小平(こだいら)学園東区(がくえんひがしく)」というなまえに変(か)わっている。)
  小平(こだいら)はもともとが7つの開拓村(かいたくむら)で、明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)に合併(がっぺい)して、ひとつの村(むら)になった。江戸(えど)時代(じだい)、村(むら)だった地域(ちいき)は大字(おおあざ)に分(わ)けられ、さらにその中(なか)の小(ちい)さな地域(ちいき)にもなまえがついていた。これを字(あざ)という。
  こうした古(ふる)い地名(ちめい)は、施設(しせつ)や道路(どうろ)のなまえに残(のこ)っていたり、暮(く)らしの中(なか)で今(いま)もなおけっこう使(つか)われているものなんだ。
むかし、うちの住所は…
  農村(のうそん)では、大正(たいしょう)のころまで、あまり「東西(とうざい)南北(なんぼく)」という言葉(ことば)は使(つか)われなかった。方角(ほうがく)をしめす言葉(ことば)でいちばん多(おお)く使(つか)われていたのは「上(かみ)」と「下(しも)」。だいたい西(にし)が「上(かみ)」で、東(ひがし)が「下(しも)」。西(にし)には京(きょう)の都(みやこ)があったからね。
  次(つぎ)に多(おお)いのが「前(まえ)」と「裏(うら)」。南(みなみ)が「前(まえ)」で、北(きた)が「裏(うら)」。「前(まえ)」は日向側(ひなたがわ)のことで、その反対側(はんたいがわ)が「裏(うら)」なんだ。
  江戸(えど)時代(じだい)までについた地名(ちめい)には「上(かみ)組(ぐみ)」「中(なか)組(ぐみ)」「下(しも)組(ぐみ)」とか「前(まえ)なんとか」「裏(うら)なんとか」というのがよくある。
むかしの方角のあらわし方   東西(とうざい)南北(なんぼく)は、明治(めいじ)になって、教育(きょういく)が新(あたら)しくなってから、使(つか)われだした言葉(ことば)なんだ。地名(ちめい)に東西(とうざい)南北(なんぼく)がつくようになったのも、だから、明治(めいじ)からあと。多摩郡(たまぐん)も、「郡区(ぐんく)町村(ちょうそん)編成法(へんせいほう)」という法律(ほうりつ)で明治(めいじ)11(1878)年(ねん)11月(がつ)18日(にち)、西(にし)多摩(たま)・南(みなみ)多摩(たま)・北(きた)多摩(たま)に分(わ)けられた。これが三(さん)多摩(たま)のはじまり。
(当時(とうじ)、三(さん)多摩(たま)は神奈川県(かながわけん)にはいっていた。東(ひがし)多摩(たま)は東京府(とうきょうふ)にはいっていて、明治(めいじ)29(1896)年(ねん)、南(みなみ)豊島郡(としまぐん)と合併(がっぺい)し、豊(とよ)多摩郡(たまぐん)となった。)
(『小平(こだいら)郷土(きょうど)研究会(けんきゅうかい)  会報(かいほう)第(だい)2号(ごう)』“上(かみ)・下(しも)・前(まえ)・裏(うら)”参考(さんこう))
玉川上水の水でうぶ湯をつかいわたくし、生まれも育掘り掘野野中だから

いいつたえと地名(ちめい)

九道(くどう)の辻(つじ)

  所沢(ところざわ)街道(かいどう)の、小平市(こだいらし)と東村山市(ひがしむらやまし)のさかい目(め)あたりをこう呼(よ)ぶ。
  むかし、ここで鎌倉(かまくら)街道(かいどう)・江戸(えど)街道(かいどう)・大山(おおやま)街道(かいどう)・奥州(おうしゅう)街道(かいどう)・引股道(ひきまたどう)・宮寺道(みやでらどう)・秩父道(ちちぶどう)・清戸道(きよとどう)・御窪道(みくぼどう)の9本(ほん)の道(みち)が交差(こうさ)していて、この名(な)がついた。
  「辻(つじ)」というのは、道(みち)が交差(こうさ)したところのことだもんね。
  また、ここの一角(いっかく)に桜(さくら)の老木(ろうぼく)があった。春(はる)には見事(みごと)な花(はな)を咲(さ)かせ、「迷(まよ)いの桜(さくら)」と呼(よ)ばれていた。

根古坂(ねっこざか)

  小川(おがわ)五番(ごばん)に大(おお)きな「蚕(かいこ)のたね屋(や)さん」があった。その屋号(やごう)が根古坂(ねっこざか)。
  府中(ふちゅう)街道(かいどう)と青梅(おうめ)街道(かいどう)の交差点(こうさてん)のところで、このへんの府中(ふちゅう)街道(かいどう)は坂(さか)になっている。
  今(いま)ではそこを「根古坂(ねっこざか)交差点(こうさてん)」なんて呼(よ)んでいる。

石塔(せきとう)が窪(くぼ)

  鎌倉(かまくら)街道(かいどう)と青梅(おうめ)街道(かいどう)が交差(こうさ)するところから鎌倉(かまくら)街道(かいどう)を北(きた)に100メートルほど行(い)く。
  小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)が開拓(かいたく)を始(はじ)めたのはここだと言(い)われる。

「石塔(せきとう)が窪(くぼ)」というなまえは、江戸(えど)時代(じだい)の末(すえ)までここに秩父(ちちぶ)青石(あおいし)の板碑(いたび)が建(た)っていたからだとか。このへんは、新田(にった)義貞(よしさだ)の鎌倉(かまくら)攻(ぜ)めの時(とき)に、戦場(せんじょう)となった久米川(くめがわ)の古戦場(こせんじょう)の近(ちか)くだから供養(くよう)のための碑(ひ)が建(た)てられていたのかもしれないね。

小川(おがわ)新田(しんでん)松花組(まつばなぐみ)

  平安院(へいあんいん)と小川(おがわ)村のさかいに穀物倉(こくもつぐら)があって、大凶作(だいきょうさく)にそなえてヒエやアワをたくわえてあった。
  その鼻(はな)っ先(さき)(すぐ目(め)の前(まえ)のこと)に松(まつ)の木(き)の大(おお)きいのがあった。
  その松(まつ)が花(はな)を咲(さ)かせるので「松花(まつばな)」。
  また、別(べつ)のいわれには、穀物倉(こくもつぐら)の鼻(はな)っ先(さき)に松(まつ)があるから「松(まつ)ばな」とついたともいう。

山王(さんのう)窪(くぼ)・平安(へいあん)窪(くぼ)・天神(てんじん)窪(くぼ)

  「窪(くぼ)」というのは、土地(とち)がくぼんでいるところのこと。
  小平(こだいら)のこれらの窪(くぼ)は「だいだらぼっち」という雲(くも)をつきぬけるほどの大男(おおおとこ)が富士山(ふじさん)をこしらえに行(い)くとき、つけた足(あし)あとだといういいつたえも。

平安(へいあん)窪(くぼ)

合う靴がなかっただろうな…
学園坂(がくえんざか)の商店街(しょうてんがい)をくだったところにあるくぼ地(ち)。ここは、むかし、沼地(ぬまち)だった。大雨(おおあめ)が降(ふ)れば、たちまち底(そこ)なし沼(ぬま)。船(ふね)がでるほどだったという。

山王(さんのう)窪(くぼ)

 
今(いま)の小平(こだいら)警察署(けいさつしょ)の少(すこ)し北(きた)あたり。

天神(てんじん)窪(くぼ)

 
今(いま)の天神(てんじん)町(ちょう)の「いなげや」というスーパーマーケットのあたり。

一本榎(いっぽんえのき)

  熊野宮(くまのぐう)ができるより前(まえ)から、ここに大(おお)きな榎(えのき)が1本(ぽん)あった。
  それにちなんでこのあたりは「一本榎(いっぽんえのき)」と呼(よ)ばれた。
  なにしろ、まわりは荒野(こうや)で、榎(えのき)は青梅(おうめ)街道(かいどう)を通(とお)る旅人(たびびと)にとっていい目印(めじるし)だった。

穴戸(あなっこ)

  野中(のなか)新田(しんでん)与右衛門組(よえもんぐみ)の東京(とうきょう)街道(かいどう)沿(ぞ)い(今(いま)の花(はな)小金井(こがねい)5丁目(ちょうめ)あたり)で大(おお)きな木(き)の根(ね)っこを堀(ほ)りおこし、そのあとの穴(あな)に屋根(やね)をかけて、酒(さけ)やうどんを出(だ)す茶店(ちゃみせ)があったとか。
  いちばんはやったのは天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1829~1844)で、街道(かいどう)は旅人(たびびと)や荷車(にぐるま)がにぎやかに往(ゆ)き来(き)して、青梅(おうめ)街道(かいどう)より盛(さか)んなほどだった。

3軒家が並んでたんじゃないの?

三軒屋(さんけんや)

  今(いま)の花(はな)小金井(こがねい)1丁目(ちょうめ)の南(みなみ)。
  どうして、こういうなまえがついたんだろうねえ。
  昭和(しょうわ)30年代(ねんだい)の地図(ちず)にのっている地名(ちめい)なんだけれどどこにもいわれが書(か)いてなくて…。
  知(し)っている人(ひと)がいたら教(おし)えて。

幕張(まくは)り

  たかの街道(かいどう)と鎌倉(かまくら)街道(かいどう)がぶつかった西側(にしがわ)。江戸(えど)時代(じだい)、小川(おがわ)のあたりは、徳川(とくがわ)ご三家(さんけ)のひとつ、尾張(おわり)大納言(だいなごん)のお鷹場(たかば)だった。
  お鷹場(たかば)というのは、飼(か)いならした鷹(たか)を使(つか)って狩(か)りをする場所(ばしょ)。
これがいいつたえのおもしろいとこ!   ここは尾張(おわり)の殿(との)さまが、鷹狩(たかが)りをごらんになったところで、その時(とき)、のぼり幕(まく)が張(は)られたので「幕張(まくは)り」と名付(なづ)けられたと言(い)い伝(つた)えられている。けれど、これはあくまで伝説(でんせつ)で、尾張(おわり)の殿(との)さまが実際(じっさい)に鷹狩(たかが)りをしたのは狭山(さやま)丘陵(きゅうりょう)や新座(にいざ)・志木(しぎ)のあたりだったことが記録(きろく)に残(のこ)されている。このへんで鷹狩(たかが)りをしたのは、鷹匠(たかしょう)と言(い)われる鷹(たか)の訓練(くんれん)をする人(ひと)だった。

二ツ塚(ふたつづか)

  鎌倉(かまくら)街道(かいどう)が玉川上水(たまがわじょうすい)を渡(わた)った南側(みなみがわ)あたり。ただし、塚(つか)はいつの間(ま)にかなくなっちゃって、地名(ちめい)しか残(のこ)っていない。
  ここは国分寺市(こくぶんじし)の鎌倉(かまくら)街道(かいどう)沿(ぞ)いに残(のこ)る一里塚(いちりづか)からちょうど一里(いちり)(約4キロメートル)の距離(きょり)。さらに北(きた)へ一里(いちり)行(い)った南天王森(みなみてんのうもり)(今(いま)の東村山市(ひがしむらやまし)本町(ほんちょう)1丁目(ちょうめ)の平和塔(へいわとう)公園内(こうえんない))にも一里塚(いちりづか)があってこれらはむかし、旅人(たびびと)に道(みち)のりを教(おし)えた「鎌倉(かまくら)街道(かいどう)十三塚(づか)」の一部(いちぶ)ともいわれている。
えっ、えーっと   けれど、一里塚(いちりづか)というのは、戦国(せんごく)の末(すえ)から江戸(えど)時代(じだい)に整(ととの)えられたものなので、このいいつたえも本当(ほんとう)なのかなあ、証拠(しょうこ)がないもんなあ、と疑問(ぎもん)が残(のこ)っているわけなんだ。
 

小平(こだいら)の古(ふる)い地名(ちめい)マップ

小平の古い地名マップ

昭和(しょうわ)33年(ねん)の小平(こだいら)の地図(ちず)をもとに作(つく)ってあります。

町で見かける古くからの地名
ぐみ窪(くぼ)公園(こうえん)、ぐみ窪(くぼ)通(どお)り、上宿(かみじゅく)図書館(としょかん)、上宿(かみじゅく)公民館(こうみんかん)、上宿(かみじゅく)保育園(ほいくえん)、上宿(かみじゅく)小学校(しょうがっこう)、上宿(かみじゅく)郵便局(ゆうびんきょく)、中宿(なかじゅく)通(どお)り、中宿(なかじゅく)児童(じどう)公園(こうえん)、二ツ塚(ふたつづか)西(にし)通(どお)り、バス停(てい)「二ツ塚(ふたつづか)」、二ツ塚(ふたつづか)児童(じどう)公園(こうえん)、南台(なんだい)病院(びょういん)、元(もと)中宿(なかじゅく)通(どお)り、山王(さんのう)通(どお)り、松花(まつばな)通(どお)り、平安(へいあん)窪(くぼ)通(どお)り、山家(さんや)通(どお)り、山家(さんや)橋(ばし)、天神(てんじん)窪(くぼ)児童(じどう)公園(こうえん)、堀(ほり)野中(のなか)通(どお)り、南(みなみ)堀(ほり)野中(のなか)通(どお)り
他にもいろいろな所で見られるのではないかな? ……などなど

 

 

 

多摩(たま)の市町村(しちょうそん)のなまえ

昭島市(あきしまし)

昭和(しょうわ)29(1954)年(ねん)5月(がつ)1日(ついたち)、昭和(しょうわ)町(ちょう)と拝島村(はいじまむら)が合併(がっぺい)して市(し)になった。それぞれの名(な)から一字(じ)ずつとって「昭島(あきしま)」とつけた。

あきる野市(のし)

平成(へいせい)7(1995)年(ねん)9月(がつ)1日(ついたち)、秋川市(あきがわし)と五日市町(いつかいちまち)が合併(がっぺい)して市(し)となった。
古来(こらい)よりこの地域(ちいき)に親(した)しまれてきた「あきる」という名称(めいしょう)に「野」(の)を加(くわ)え、多摩川(たまがわ)を境(さかい)に、東(ひがし)の平野(へいや)の「武蔵野(むさしの)」に対(たい)し、西(にし)の平野(へいや)を「あきる野(の)」とした。

稲城市(いなぎし)

明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、矢野口村(やのくちむら)・東長沼村(ひがしながぬまむら)・大丸村(おおまるむら)・百村(もむら)・坂浜村(さかはまむら)・平尾村(ひらおむら)が合併(がっぺい)して稲城村(いなぎむら)に。東長沼(ひがしながぬま)の漢学者(かんがくしゃ)、窪(くぼ)全亮(ぜんりょう)がつけたといわれる。
「イナギ」には稲(いね)を置(お)く場所(ばしょ)とか、稲(いね)を積(つ)んでつくった城(しろ)という意味(いみ)があるし、稲(いね)のはいった倉(くら)を守(まも)る役(やく)の人(ひと)も「稲置(いなぎ)」といった。
また、鎌倉(かまくら)時代(じだい)、このあたりは稲毛(いなげ)三郎(さぶろう)重成(しげなり)の領地(りょうち)だったから「イナゲ」ともよばれていた。
これらのことも名付(なづ)けに関(かか)わりがあるのでは、ともいわれる。

青梅市(おうめし)

市内(しない)、金剛寺(こんごうじ)という寺(てら)に平将門(たいらのまさかど)が植(う)えたといいつたえられる梅(うめ)の木(き)がある。
この梅(うめ)は、夏(なつ)がすぎても実(み)が熟(じゅく)さず、青々(あおあお)としている。実(みの)らない青(あお)い梅(うめ)から、ここの地名(ちめい)は起(お)こったとか。
ほかに、武蔵国(むさしのくに)の国司(こくし)で「大目(だいさかん)」という地位(ちい)の役人(やくにん)が住(す)んだのでオオメとよぶようになった、という説(せつ)もある。

奥多摩(おくたま)町

昭和(しょうわ)の初(はじ)め、「日本(にっぽん)百景(ひゃっけい)」を選(えら)んだ時(とき)、このあたりの美(うつく)しさを愛(あい)する人々(ひとびと)が「奥多摩(おくたま)渓谷(けいこく)」の名(な)で推(すい)せん。見事(みごと)選(えら)ばれた。
それから、ここいらは奥多摩(おくたま)と呼(よ)ばれてきたが、昭和(しょうわ)30(1955)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、氷川(ひかわ)町・古里(こり)町・小河内村(おごうちむら)が合併(がっぺい)した時(とき)、町(まち)の名(な)になった。

清瀬市(きよせし)

古(ふる)くからの村(むら)、清戸(きよと)の「清」と市(し)を流(なが)れる柳瀬川(やなせがわ)の「瀬」を合(あ)わせ、明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、上(かみ)清戸(きよと)・中(なか)清戸(きよと)・下(しも)清戸(きよと)・清戸(きよと)下宿(したじゅく)・中里(なかざと)・野塩(のしお)の6か村(そん)と下里村(しもざとむら)の飛(と)び地(ち)が合併(がっぺい)して、清瀬村(きよせむら)に。

国立市(くにたちし)

昭和(しょうわ)26(1951)年(ねん)、村(むら)から町(まち)になる時(とき)、谷保村(やほむら)から国立(くにたち)町に。
「国立(くにたち)」の名(な)は、中央線(ちゅうおうせん)の国分寺駅(こくぶんじえき)・立川駅(たちかわえき)の間(あいだ)にあって、両方(りょうほう)の頭文字(かしらもじ)からつけた国立(くにたち)駅(えき)の名(な)による。
それと、この地(ち)から新(あたら)しい国(くに)が立(た)つぞ、という願(ねが)いもこめられている。

小金井市(こがねいし)

「井」というのは涌(わ)き水(みず)や泉(いずみ)から水(みず)をくみとる所(ところ)をいう。「コガネ」は金(きん)とか黄金(おうごん)のこと。ここには何(なん)か所(しょ)か豊(ゆた)かな涌(わ)き水(みず)があって、それをたたえて「コガネノイ」と呼(よ)んだのがはじまり、という説(せつ)。
また、府中(ふちゅう)にあった金井家(け)という土豪(どごう)から分(わ)かれた一族(いちぞく)が貫井(ぬくい)のあたりに住(す)んだので、そこを「小金井(こがねい)」というようになった、とかここもいろいろ、いわれがある。

国分寺(こくぶんじ)

天平(てんぴょう)13(741)年(ねん)、聖武(しょうむ)天皇(てんのう)の詔(みことのり)で、国(くに)ごとに国分寺(こくぶんじ)と国分(こくぶ)尼寺(にじ)を建(た)てることに。
ここは、武蔵国(むさしのくに)の国分寺(こくぶんじ)があったところ。地名(ちめい)はそれにちなむ。

狛江市(こまえし)

「狛(こま)」は、渡来人(とらいじん)の高句麗人(こうくりじん)、「江」は、川(かわ)や湖(みずうみ)や海(うみ)が陸地(りくち)に入(い)りくんだところ。だから「狛江(こまえ)」とは高麗人(こまびと)の住(す)む入江(いりえ)、という意味(いみ)。
応神(おうじん)天皇(てんのう)(「日本書記」では第15代天皇)のころ、朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)の国(くに)から、王(おう)さまの一族(いちぞく)が人々(ひとびと)をひきいて、ここで暮(く)らし、文化(ぶんか)を広(ひろ)めたのだという。
狛江(こまえ)の名(な)は、平安(へいあん)のはじめから記録(きろく)にでてくる。

立川市(たちかわし)

奈良(なら)・平安(へいあん)のころから、武蔵(むさし)国府のあった、府中(ふちゅう)あたりの人々(ひとびと)は、南北(なんぼく)に連(つ)らなる山々(やまやま)を見(み)て「多摩(たま)の緯山(よこやま)」と呼(よ)び、それに対(たい)して、東西(とうざい)に流(なが)れる川(かわ)(多摩川(たまがわ))を「経川(たてかわ)」と呼(よ)んだ。これが地名(ちめい)のはじまり、とする説(せつ)。
また、ここにはタチ(「館(トリデ-)」があって、そばを川(かわ)が流(なが)れているので、タチ川(かわ)と呼(よ)ぶようになり、タチに住(す)む人々(ひとびと)が立川(たちかわ)氏(し)を名(な)のったのがはじまりだという説(せつ)も。

多摩市(たまし)

明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、関戸(せきど)・連光寺(れんこうじ)・貝取(かいとり)・乞田(きつた)・落合(おちあい)・和田(わだ)・東寺方(ひがしてらかた)・一ノ宮(いちのみや)の8か村(そん)と百草村(もぐさむら)と落川村(おちかわむら)の飛地(とびち)が合併(がっぺい)して多摩村(たまむら)に。
多摩(たま)という地名(ちめい)は万葉集(まんようしゅう)にもでてくる古(ふる)いもの。大(おお)むかしから、人々(ひとびと)の暮(く)らしの中心(ちゅうしん)だった多摩川(たまがわ)の名(な)から、まわりの地域(ちいき)も多摩(たま)と呼(よ)ぶようになったのでは、という説(せつ)がある。
多摩(たま)は「太婆」「多波」とも書(か)かれ、「タバ」とも読(よ)まれた。「タバ」は古(ふる)い朝鮮語(ちょうせんご)で峠(とうげ)の意味(いみ)だから、「タバガワ」は、峠(とうげ)をこえて流(なが)れてくる川(かわ)のことだったのでは、というし、いや「魂川(たまかわ)」の意味(いみ)だ、とも。
霊(れい)の力(ちから)を持(も)つ、神聖(しんせい)な川(かわ)ということなんだろう。また、玉(たま)のように美(うつく)しく、すぐれている川(かわ)だから「玉川(たまがわ)」ではないか、ともいう。

調布市(ちょうふし)

むかし、朝廷(ちょうてい)に納(おさ)める調(ちょう)(みつぎ物(もの))としてここで布(ぬの)を作(つく)っていたので、「武州(ぶしゅう)調布(てづくり)の里(さと)」と呼(よ)ぶように。万葉集(まんようしゅう)に「多摩川(たまがわ)に  さらす  てづくり  さらさらに  何(なん)ぞ  この児(こ)の  ここだ愛(いと)しき」(多摩川(たまがわ)でさらすてづくりの布(ぬの)のようにさらにさらになんでこの子(こ)がこんなに愛(いと)しいのだろう)と歌(うた)われている。

西東京市(にしとうきょうし)

いろんないわれがあるんだねえ平成(へいせい)13(2001)年(ねん)1月(がつ)21日(にち)、田無市(たなしし)と保谷市(ほうやし)が合併(がっぺい)して市(し)になった。
応募(おうぼ)された名前(なまえ)の中(なか)で、一番人気(いちばんにんき)の名前(なまえ)だった。
 

八王子市(はちおうじし)

華厳(けごん)菩薩(ぼさつ)妙行(みょうぎょう)という名(な)高(だか)い僧(そう)が修行中(しゅぎょうちゅう)のこと。牛頭(ごず)天王(てんのう)があらわれ、8人(にん)の王子(おうじ)をまつるように告(つ)げた。延喜(えんぎ)16(916)年(ねん)、妙行(みょうぎょう)は、深沢(ふかざわ)山に牛頭(ごず)八王子(はちおうじ)権現(ごんげん)を建(た)て、これが地名(ちめい)のはじまりに。

羽村市(はむらし)

天文5(1536)年(ねん)の資料(しりょう)に「羽村(はむら)」の地名(ちめい)がでてくる。これが一番(いちばん)古(ふる)い記録(きろく)。
長淵郷(ながぶちごう)の、あるいは三田領(みたりょう)の、いちばん東(ひがし)はじだったので「端村(はむら)」といい、そこから「羽村(はむら)」になったのでは…という。

東久留米市(ひがしくるめし)

古(ふる)くから暮(く)らしの中心(ちゅうしん)だった黒目川(くろめがわ)の呼(よ)び方(かた)がなまって「クルメ」になったのだろう、と。
黒目(くろめ)は「来目」、「久留米」とも書(か)かれていたらしいし。
市(し)になる時(とき)、九州(きゅうしゅう)福岡県(ふくおかけん)に、同(おな)じ名(な)の市(し)があるので東京(とうきょう)の「東」を頭(あたま)につけ、「東久留米(ひがしくるめ)」になった。

東村山市(ひがしむらやまし)

平安(へいあん)の中(なか)ごろ、このあたりは、武蔵(むさし)七党(しちとう)の一(ひと)つ、村山党(むらやまとう)が勢力(せいりょく)を持(も)っていて、村山(むらやま)地方(ちほう)と呼(よ)ばれていた。明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、久米川(くめがわ)・大岱(おんた)・野口(のぐち)・廻(めぐ)り田(た)・南(みなみ)秋津(あきつ)の5か村(そん)が合併(がっぺい)して一(ひと)つの村(むら)に。村山(むらやま)郷(ごう)の東(ひがし)にあるので「下村山(しもむらやま)」という名(な)もあがったけれど、話(はな)し合(あ)いで「東村山(ひがしむらやま)」に決(きま)った。

東大和市(ひがしやまとし)

大正(たいしょう)8(1919)年(ねん)11月(がつ)6日(むいか)、清水(しみず)・狭山(さやま)・高木(たかぎ)・奈良橋(ならはし)・蔵敷(ぞうしき)の6か村(そん)が合併(がっぺい)して「大和村(やまとむら)」に。
「東大和(ひがしやまと)」になったのは、昭和(しょうわ)45(1970)年(ねん)10月(がつ)1日(ついたち)。「大(おお)いに和(わ)する」(とても仲良(なかよ)くする)という意味(いみ)の「大和」に東京(とうきょう)の「東」をつけた。

日野市(ひのし)

奈良(なら)時代(じだい)、ここにのろし台(だい)があって「飛火野(とびひの)」と呼(よ)ばれていたことによる、という説(せつ)。
また、むかし、この地(ち)を開(ひら)いた日奉宗頼(ひまつりのむねより)の子孫(しそん)が先祖(せんぞ)をまつって建(た)てた神社(じんじゃ)を「日ノ宮(ひのみや)」と名付(なづ)けたことによる、という説(せつ)。
日野(ひの)中納言(ちゅうなごん)資朝卿(きょう)の子孫(しそん)がここに来(き)たので、という説(せつ)。
それから、日当(ひあ)たりの良(よ)い土地(とち)、という意味(いみ)でついた、という説(せつ)。いろいろある。いずれにしても戦国(せんごく)時代(じだい)にはすでにあった地名(ちめい)なんだ。

日(ひ)の出町(でまち)

昭和(しょうわ)30(1955)年(ねん)6月(がつ)1日(ついたち)、大久野(おおくの)村(むら)と平井(ひらい)村(むら)が合併(がっぺい)して一(ひと)つの村(むら)に。この時(とき)、西(にし)はずれにある「日(ひ)の出(で)山」から名(な)をもらった。日(ひ)の出(で)のようにますます栄(さか)えるようにとの願(ねが)いもこめられている。

檜原村(ひのはらむら)

平安(へいあん)のころから、ここは檜原郷(ひのはらごう)と呼(よ)ばれていた。
ヒバラ、とか読(よ)み方(かた)は違(ちが)っても「檜原」の地名(ちめい)は山村(さんそん)に多(おお)い。「檜」はヒノキのことだから、山(やま)とは関(かか)わりが深(ふか)いんだ。
ただ、西(にし)多摩(たま)の檜原(ひのはら)は、室町(むろまち)時代(じだい)「日野原」と書(か)かれたこともあるので、日当(ひあ)たりのいい「日(ひ)の原(はら)」の意味(いみ)だったのかも。また、領主(りょうしゅ)の平山氏(ひらやまし)は日野(ひの)の日奉(ひまつり)の一族(いちぞく)だったので、そこから「日野原(ひのはら)」と言(い)われるようになったのかも。

府中市(ふちゅうし)

645年(ねん)の大化(たいか)の改新(かいしん)で、全国(ぜんこく)に60あまりの国(くに)が生まれ、武蔵国(むさしのくに)も旡邪志(むざし)・胸刺(むなさし)・知々夫(ちちぶ)が一(ひと)つになって誕生(たんじょう)した。
ここは、その国府(こくふ)(役所(やくしょ)がある場所(ばしょ))だった。
国(くに)の都(みやこ)で、政治(せいじ)・経済(けいざい)・文化(ぶんか)・交通(こうつう)の中心地(ちゅうしんち)。それで府中(ふちゅう)と呼(よ)ばれたんだ。

福生市(ふっさし)

“麻(あさ)の生(お)い茂(しげ)る原(はら)っぱ”という意味(いみ)の「総生(ふさう)」がなまったというもの。
むかし、「麻(あさ)」は「総(ふさ)」と言(い)っていたから。
それから、アイヌ語(ご)の湖(みずうみ)の口(くち)「フチ」と湖(みずうみ)の片(かた)ほとり「チャ」からきたというもの。
「フッチャ」は湖(みずうみ)のほとり、ということだ。
また、アイヌ語(ご)の涌(わ)き水(みず)(ブッセ)からきている、という説(せつ)も。

町田市(まちだし)

明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、本町田(ほんまちだ)・原町田(はらまちだ)・森野(もりの)・南(みなみ)大谷(おおや)の4か村(そん)が合併(がっぺい)して町田村(まちだむら)に。
「町」は田(た)んぼの区画(くかく)を意味(いみ)する言葉(ことば)だった。区画(くかく)された田(た)んぼ地(ち)で、町田(まちだ)と呼(よ)ぶようになった。

瑞穂(みずほ)町

昭和(しょうわ)15(1940)年(ねん)11月(がつ)10日(とおか)、箱根が崎(はこねがさき)・石畑(いしはた)・長岡(ながおか)の3か村(そん)が合併(がっぺい)した時(とき)、岡田(おかだ)東京(とうきょう)府知事(ふちじ)が名付(なづ)けて瑞穂(みずほ)町に。
この年(とし)、日本(にっぽん)は、紀元(きげん)2600年(ねん)を国(くに)をあげて祝(いわ)った。(日本(にっぽん)のはじまりは『古事記(こじき)』の神武天皇(てんのう)即位(そくい)の紀元(きげん)前(ぜん)660年(ねん)から、という考(かんが)え方(かた)によるもの。)
「瑞穂(みずほ)」はみずみずしい稲(いね)の穂(ほ)のこと。「瑞穂(みずほ)の国(くに)」と言(い)えば日本(にっぽん)のことだった。

三鷹市(みたかし)

江戸(えど)時代(じだい)、このあたりは幕府(ばくふ)御用(ごよう)の茅場(かやば)や将軍家(しょうぐんけ)のお鷹場(たかば)があった。
明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、世田谷領(せたがやりょう)・府中(ふちゅう)領(りょう)・野方領(のがたりょう)の三領(りょう)のお鷹場(たかば)の村々(むらむら)が合併(がっぺい)した時(とき)、「三鷹村(みたかむら)」と名付(なづ)けた。

武蔵野市(むさしのし)

明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、吉祥寺(きちじょうじ)・境(さかい)・関前(せきまえ)・西(にし)窪(くぼ)の4か村(そん)と井口(いぐち)新田(しんでん)飛地(とびち)が合併(がっぺい)して武蔵野村(むさしのむら)に。
武蔵野(むさしの)の原(はら)の中(なか)に位置(いち)しているので、こう名付(なづ)けた。

武蔵(むさし)村山市(むらやまし)

平安(へいあん)のころ、村山党(むらやまとう)が栄(さか)えた地(ち)なので、大正(たいしょう)6(1917)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、中藤(なかとう)・三ツ木(みつぎ)・岸(きし)の3か村(そん)が合併(がっぺい)して、村山村(むらやまむら)となる。
昭和(しょうわ)45(1970)年(ねん)11月(がつ)3日(みっか)、市(し)になったとき、山形県(やまがたけん)に「村山市(むらやまし)」があるので、武蔵国(むさしのくに)の名(な)をとり、「武蔵(むさし)村山市(むらやまし)」とした。

おまちかね!  小平市(こだいらし)

おまちかね明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)、小川(おがわ)村(むら)・小川(おがわ)新田(しんでん)・大沼田(おおぬまた)新田(しんでん)・野中(のなか)新田(しんでん)与右衛門組(よえもんぐみ)・野中(のなか)新田(しんでん)善左衛門組(ぜんざえもんぐみ)・鈴木(すずき)新田(しんでん)・廻(めぐ)り田(た)新田(しんでん)が合併(がっぺい)して一(ひと)つの村(むら)に。
新田(しんでん)ごとに代表者(だいひょうしゃ)が出(で)て、村(むら)のなまえを話(はな)し合(あ)った。7つの村(むら)が集(あつ)まってできるから「七里(ななさと)村(むら)」という案(あん)も出(で)たけれど、「小平(こだいら)」に決(きま)り!
このあたり、月(つき)のかくれる場所(ばしょ)もない平(たい)らな土地(とち)であることと、いちばん初(はじ)めに開拓(かいたく)されたのが、小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)の小川(おがわ)村(むら)なので、「小」の字(じ)と「平」を組(く)み合(あ)わせたのだ。

村(むら)や町(まち)のうつりかわり

1868年(ねん)、明治(めいじ)の新政府(しんせいふ)ができると、いろいろな改革(かいかく)がおこなわれた。
政治(せいじ)を行(おこな)うための地域(ちいき)の分(わ)け方(かた)も、今(いま)のような形(かたち)になるまでには、いくつかのふし目(め)が。

明治(めいじ)4(1871)年(ねん)7月(がつ)  廃藩(はいはん)置県(ちけん)

江戸(えど)時代(じだい)の藩(はん)をとりやめ、かわりに全国(ぜんこく)を県(けん)に分(わ)ける。(東京(とうきょう)と京都(きょうと)と大阪(おおさか)は「府(ふ)」)

明治(めいじ)5(1872)年(ねん)4月(がつ)  大区(だいく)小区(しょうく)制(せい)

府(ふ)や県(けん)の中(なか)をいくつかの大(おお)きな区(く)(大区(だいく))に分(わ)け、その中(なか)をさらに小(ちい)さな区(く)(小区(しょうく))に分(わ)けて、政治(せいじ)を行(おこな)う単位(たんい)としたもの。この時(とき)、いっしょに「名主(なぬし)」とか、「庄屋(しょうや)」の制度(せいど)もとりやめている。

明治(めいじ)11(1878)年(ねん)7月(がつ)  郡区(ぐんく)町村(ちょうそん)編成法(へんせいほう)

大区(だいく)小区(しょうく)制(せい)は、自然(しぜん)にできあがっていった、むかしからの村々(むらむら)の分(わ)け方(かた)を無視(むし)するものだった。
そういうこともあって、大区(だいく)小区(しょうく)制(せい)はなかなかなじまなかった。
この「郡区(ぐんく)町村(ちょうそん)編成法(へんせいほう)」は、全(まった)く江戸(えど)時代(じだい)のとおりというわけではないけれど、もともとの村(むら)のあり方(かた)を考(かんが)えにいれたもの。
府(ふ)や県(けん)の下(した)に郡(ぐん)や区(く)を置(お)き、その下(した)に町(まち)や村(むら)を置(お)いた。

明治(めいじ)22(1889)年(ねん)4月(がつ)  市制(しせい)町村(ちょうそん)制(せい)

「郡区(ぐんく)町村(ちょうそん)編成法(へんせいほう)」でできた町(まち)や村(むら)を、今度(こんど)は整理(せいり)し、まとめあわせることに。
ここで、全国(ぜんこく)に7万(まん)1,000以上(いじょう)あった町(まち)や村(むら)は、1万(まん)5,000ほどに減(へ)った。多摩(たま)の市町村(しちょうそん)もこの年(とし)、ずいぶん合併(がっぺい)しているよね。
それが、今(いま)の地域(ちいき)の分(わ)け方(かた)のもとになっている。

参考(さんこう)にした本(ほん)

「小平(こだいら)事始(ことはじめ)年表(ねんぴょう)(稿(こう))」
「東京(とうきょう)百年史(ひゃくねんし)」
「多摩(たま)の歴史(れきし)」
「小平(こだいら)むかしむかし」
「小平(こだいら)ちょっと昔(むかし)」
「小平(こだいら)郷土(きょうど)研究会(けんきゅうかい)  会報(かいほう)第(だい)2号(ごう)」
「多摩(たま)の地名(ちめい)」
「東京(とうきょう)の名所(めいしょ)・旧跡(きゅうせき)」
「角川(かどかわ)地名(ちめい)大辞典(だいじてん)」
小平(こだいら)の地図(ちず)(古いのから現在のものまで)

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掲載日 令和7年8月1日