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18. 多摩(たま)の絹(きぬ)の道(みち) -シルクロード-

絹(きぬ)の道(みち)

横浜市中において外国人生糸を見分る図
「横浜(よこはま)市中(しちゅう)において外国人(がいこくじん)生糸(きいと)を見(み)分(わく)る図(ず)」

  むかし、むかし、大(おお)むかしから、ユーラシア大陸(たいりく)には漢(かん)(今(いま)の中国(ちゅうごく))の都(みやこ)からタクラマカン砂漠(さばく)を横切(よこぎ)ってヨーロッパへつながる道(みち)があったとさ。
  長(なが)く険(けわ)しい道(みち)だけど、東西(とうざい)の人(ひと)や文化(ぶんか)が往(ゆ)き来(き)した。紀元前(きげんぜん)2世紀(せいき)頃(ごろ)からは中国(ちゅうごく)から運(はこ)ばれる絹貿易(きぬぼうえき)が盛(さか)んになったものだから、のちの世(よ)で「絹(きぬ)の道(みち)」(シルク・ロード)と名(な)がついた。
  絹(きぬ)は何(なに)にもまさる布(ぬの)として、アウレリアヌス帝(てい)時代(じだい)(270~275年(ねん))のローマではその重(おも)さと同(おな)じだけの金(きん)が支払(しはら)われたんだと。ヨーロッパの人(ひと)たちはしばらくの間(あいだ)この美(うつく)しいものが蚕(かいこ)という虫(むし)が吐(は)き出(だ)す糸(いと)から作(つく)られるとは知(し)らなんだ。
にあうー?   貴族(きぞく)、金持(かねも)ち…世界中(せかいじゅう)の人々(ひとびと)から絹(きぬ)は愛(あい)され、大切(たいせつ)にされた。
  幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)にかけて、多摩(たま)にも「絹(きぬ)の道(みち)」があったとさ。絹(きぬ)を織(お)るための生糸(きいと)を運(はこ)んだ道(みち)だったんだと。日本(にっぽん)が世界(せかい)の国々(くにぐに)にひらかれると、山梨(やまなし)・長野(ながの)・群馬(ぐんま)などから八王子(はちおうじ)に集(あつ)められた生糸(きいと)は、これらの道(みち)を通(とお)って港(みなと)横浜(よこはま)に運(はこ)ばれていったそうな。
   横浜(よこはま)からは、外国船(がいこくせん)が運(はこ)んで来(き)た新(あたら)しい知識(ちしき)や考(かんが)え方(かた)が流(なが)れてきた。生糸(きいと)と人(ひと)と文化(ぶんか)が往(ゆ)き来(き)した多摩(たま)の「絹(きぬ)の道(みち)」。

地図

日本(にっぽん)開国(かいこく)のころ

養蚕(ようさん)・製糸(せいし)

  • 紀元前(きげんぜん)17~11世紀(せいき)なかば。中国(ちゅうごく)の殷(いん)の時代(じだい)、すでに黄河(こうが)流域(りゅういき)で養蚕(ようさん)がおこなわれていたらしい。
  • 1~3世紀(せいき)。中国(ちゅうごく)から日本(にっぽん)に養蚕(ようさん)が伝(つた)わる。
  • 5世紀(せいき)なかば。機織(はたお)りの技術(ぎじゅつ)も伝(つた)わる。

江戸(えど)時代(じだい)   養蚕(ようさん)は主(おも)に中部(ちゅうぶ)・関東(かんとう)・東北(とうほく)でおこなわれる。

  • 1860(安政(あんせい)7)年(ねん)。前年(ぜんねん)の横浜(よこはま)開港(かいこう)によって生糸(きいと)・蚕種(さんしゅ)がヨーロッパへの最大(さいだい)の輸出品(ゆしゅつひん)となる。
  • 1860(万延(まんえん)元(がん))年(ねん)うるう3月(がつ)。幕府(ばくふ)は「五品江戸廻令」を出(だ)す。
    この年(とし)、ヨーロッパで蚕(かいこ)の病気(びょうき)が流行(りゅうこう)。日本(にっぽん)の生糸(きいと)のねだんはあがる、あがる。
  • 1867(慶応(けいおう)3)年(ねん)。蚕種(さんしゅ)の輸出(ゆしゅつ)のねだん、去年(きょねん)に比(くら)べて26倍(ばい)にはねあがる。密輸(みつゆ)もさかん。

生糸(きいと)は大人気(だいにんき)!
明治(めいじ)時代(じだい)   1868年(ねん)9月(がつ)、改元(かいげん)。明治(めいじ)になる。

 

  • 1872(明治(めいじ)5)年(ねん)。官営(かんえい)富岡(とみおか)製糸(せいし)工場(こうじょう)、動(うご)きだす。
  • 1873(明治(めいじ)6)年(ねん)5月(がつ)。八王子(はちおうじ)に生糸改会社(きいとあらためかいしゃ)できる。輸出(ゆしゅつ)する生糸(きいと)の質(しつ)を少(すこ)しでも良(よ)くするためだ。
  • 1874(明治(めいじ)7)年(ねん)。この年(とし)、鑓水村(やりみずむら)の生糸(きいと)商人(しょうにん)、商売(しょうばい)と道中(どうちゅう)の無事(ぶじ)を祈(いの)り、絹(きぬ)の道(みち)に道了堂(どうりょうどう)を建(た)てる。(浅草(あさくさ)の花川戸(はなかわど)から移(うつ)してきたものだ。)
  • 1884(明治(めいじ)17)年(ねん)。アメリカの絹織業(きぬおりぎょう)が発達(はったつ)。日本(にっぽん)の生糸(きいと)はアメリカに輸出(ゆしゅつ)されるようになる。
  • 1894(明治(めいじ)27)年(ねん)。日清(にっしん)戦争(せんそう)おこり、まゆ、生糸(きいと)のねだんはむちゃくちゃあがる。蚕糸(さんし)業(ぎょう)ますます盛(さか)ん。
  • 1911(明治(めいじ)44)年(ねん)。日本(にっぽん)の生糸(きいと)の生産(せいさん)高(だか)、世界(せかい)第(だい)一位(い)となる。

その後(ご)の多摩(たま)の養蚕(ようさん)…

 

  • 1930(昭和(しょうわ)5)年(ねん)。生糸(きいと)の業界(ぎょうかい)も世界(せかい)恐慌(きょうこう)のあおりをうける。
  • 1941(昭和(しょうわ)16)年(ねん)。太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)はじまり、生糸(きいと)の輸出(ゆしゅつ)禁止(きんし)。製糸(せいし)工場(こうじょう)はつぎつぎと軍需(ぐんじゅ)工場(こうじょう)にかわっていった…。

横浜(よこはま)開港(かいこう)   欧米(おうべい)の目(め)はアジアへ!

  • 1853(嘉永(かえい)6)年(ねん)6月(がつ)3日(みっか)。ペリー、浦賀(うらが)に来航(らいこう)。
  • 1854(安政(あんせい)元(がん))年(ねん)1月(がつ)16日。ペリー、再来(さいらい)。 3月(がつ)3日(みっか)。日米(にちべい)和親(わしん)条約(じょうやく)むすぶ。
  • 1856(安政(あんせい)3)年(ねん)。アメリカ駐日(ちゅうにち)総領事(そうりょうじ)タウンゼント・ハリス、下田(しもだ)に来航(らいこう)。
  • 1858(安政(あんせい)5)年(ねん)6月(がつ)19日(にち)。日米(にちべい)修好(しゅうこう)通商(つうしょう)条約(じょうやく)むすぶ。日本(にっぽん)の鎖国(さこく)時代(じだい)のおわり。
  • 1859(安政(あんせい)6)年(ねん)6月(がつ)。神奈川(かながわ)(横浜(よこはま))・長崎(ながさき)・箱館(はこだて)の3港(こう)をひらき、アメリカをはじめ、イギリス・フランス・ロシア・オランダら外国(がいこく)と貿易(ぼうえき)はじまる。

世界(せかい)情勢(じょうせい)

  • 18~19世紀(せいき)。ヨーロッパでイギリスを中心(ちゅうしん)に産業(さんぎょう)革命(かくめい)はじまる。
    原料(げんりょう)を求(もと)めて、また、大量(たいりょう)に作(つく)り出(だ)される商品(しょうひん)を売(う)りさばくため、イギリスやフランス、アメリカらはアジアへ進出(しんしゅつ)しはじめる。
  • 1840~42年(ねん)。イギリスと清(しん)(今(いま)の中国(ちゅうごく))の間(あいだ)でアヘン戦争(せんそう)。
  • 1856年(ねん)。アロー号(ごう)事件(じけん)おこる。これをきっかけにイギリス・フランス対(たい)清(しん)の第(だい)2次(じ)アヘン戦争(せんそう)おこる。
    結果(けっか)、清(しん)はこれらの国(くに)のなかば植民地(しょくみんち)となってしまった。
    この間(かん)、アメリカも着々(ちゃくちゃく)とアジア進出(しんしゅつ)をねらう。

交通(こうつう)   産業(さんぎょう)革命(かくめい)は運輸(うんゆ)の手段(しゅだん)をかえた!

  • 1804年(ねん)。イギリスのリチャード・トレビシック、世界(せかい)最初(さいしょ)の蒸気(じょうき)機関車(きかんしゃ)を走(はし)らせる。

<以後(いご)、鉄道(てつどう)は欧米(おうべい)にアッという間(ま)にひろがってゆく>

  • 1870(明治(めいじ)3)年(ねん)4月(がつ)15日(にち)。
    玉川(たまがわ)上水(じょうすい)を荷(に)を運(はこ)ぶための船(ふね)が通(とお)りはじめる。月(つき)に6回(かい)。5と9のつく日(ひ)に船(ふね)は通(とお)った。(八王子(はちおうじ)の市(いち)のよく日(じつ)なんだねえ、これが。)多摩(たま)はもちろん、長野(ながの)や山梨(やまなし)の生糸(きいと)も運(はこ)ばれた。
  • 1872(明治(めいじ)5)年(ねん)3月(がつ)。上水(じょうすい)の汚(よご)れにびっくりした東京府(とうきょうふ)。国(くに)に申(もう)し入(い)れて通船(つうせん)は中止(ちゅうし)になる。
      この年(とし)9月(がつ)、新橋(しんばし)~横浜(よこはま)間(かん)に鉄道(てつどう)開通(かいつう)。
  • まかせなさーい 1875(明治(めいじ)8)年(ねん)。八王子(はちおうじ)の商人(しょうにん)から「絹(きぬ)の道(みち)」を馬車(ばしゃ)の通(とお)れる道(みち)に、との願(ねが)いが神奈川(かながわ)に出(で)る。
  • 明治(めいじ)10年代(ねんだい)。多摩(たま)では馬車(ばしゃ)がただひとつの交通(こうつう)機関(きかん)。
  • 1889(明治(めいじ)22)年(ねん)8月(がつ)。新宿(しんじゅく)~八王子(はちおうじ)間(かん)に甲武(こうぶ)鉄道(てつどう)開通(かいつう)。(今(いま)の中央線(ちゅうおうせん)のことだよ。)これで多摩(たま)は、横浜(よこはま)より東京(とうきょう)が身近(みぢか)になる。
  • 1908(明治(めいじ)41)年(ねん)9月(がつ)。明治(めいじ)27年(ねん)からず~っと願(ねが)い出(で)ていた横浜(よこはま)鉄道(てつどう)。やっとゆるされ、八王子(はちおうじ)~横浜(よこはま)間(かん)開通(かいつう)。
    だが、すでに、多摩(たま)は、1893(明治(めいじ)26)年(ねん)4月(がつ)、名実(めいじつ)ともに東京府(とうきょうふ)に組(く)みこまれていたのだった。

  

横浜(よこはま)の港(みなと)が開(ひら)かれて

1.横浜(よこはま)開港(かいこう

 江戸(えど)時代(じだい)も弘化(こうか)年間(ねんかん)(1844~47)にはいると日本(にっぽん)のあちこちに外国船(がいこくせん)が姿(すがた)を見(み)せはじめた。
  欧米(おうべい)の国々(くにぐに)がアジアに進出(しんしゅつ)してきたのだ。中(なか)でもアメリカは、清(しん)(今(いま)の中国(ちゅうごく))との貿易(ぼうえき)で太平洋(たいへいよう)を横断(おうだん)するため、中(なか)継(つ)ぎの港(みなと)として、日本(にっぽん)に注目(ちゅうもく)した。
ペリー   嘉永(かえい)6(1853)年(ねん)6月(がつ)3日(みっか)、アメリカの東(ひがし)インド艦隊(かんたい)司令官(しれいかん)、マシューズ・ガルブレイス・ペリーが4隻の軍艦(ぐんかん)をひきいて浦賀(うらが)沖(おき)に姿(すがた)を見(み)せた。
  今(いま)にも合戦(かっせん)がはじまるかと江戸(えど)の町(まち)はもう大混乱(だいこんらん)。デマは乱(みだ)れ飛(と)ぶ。旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)は武器(ぶき)の買(か)い出(だ)しにかけまわる。物価(ぶっか)はあがる。疎開(そかい)する人(ひと)もでる。パニックになった。ペリーは、「また来年(らいねん)くる。」と約束(やくそく)して、10日間(かかん)で出(で)ていったけれど。
  よく年(とし)、1月(がつ)16日(にち)。ペリーが再(ふたた)び江戸(えど)湾(わん)を訪(おとず)れ、何度(なんど)もの話(はな)し合(あ)いののち、3月(がつ)3日(みっか)、ついに日米(にちべい)和親(わしん)条約(じょうやく)をむすぶのに成功(せいこう)。
下田(しもだ)・箱館(はこだて)を開港(かいこう)して
アメリカの船(ふね)に水(みず)・食糧(しょくりょう)・石炭(せきたん)・薪(まき)を供給(きょうきゅう)すること。
下田(しもだ)にアメリカからの駐在員(ちゅうざいいん)をおくこと。
ハリス というのが主(おも)な内容(ないよう)だ。
  安政(あんせい)3(1856)年(ねん)7月(がつ)、日米(にちべい)和親(わしん)条約(じょうやく)にしたがって、アメリカから駐日(ちゅうにち)総領事(そうりょうじ)としてタウンゼント・ハリスが下田(しもだ)にやって来(き)た。今度(こんど)は日本(にっぽん)と通商(つうしょう)条約(じょうやく)を結(むす)ぶため、ハリスは頑張(がんば)った。
  おとなりの清(しん)で勢力(せいりょく)を伸(の)ばしているイギリスとフランスが日本(にっぽん)にやって来(く)る前(まえ)に、アメリカは有利(ゆうり)な約束(やくそく)をむすばなくっちゃ、と急(いそ)いでいたのだ。
  安政(あんせい)5(1858)年(ねん)6月(がつ)19日(にち)。日米(にちべい)修好(しゅうこう)通商(つうしょう)条約(じょうやく)をむすぶ。ハリスはいくつかの港(みなと)・市場(いちば)を開(ひら)くことを望(のぞ)んだ。
  そして神奈川(かながわ)・長崎(ながさき)・箱館(はこだて)が開港(かいこう)場(じょう)となった。

2.プレゼントの交換(こうかん)

1,2の3でだそうね・・ゲコ?  ペリーの2度目(どめ)の来日(らいにち)のとき、日本(にっぽん)とアメリカでプレゼントの交換(こうかん)をした。
  アメリカからは電信機(でんしんき)だの銀板(ぎんばん)写真(しゃしん)だの望遠鏡(ぼうえんきょう)だの「これが科学(かがく)技術(ぎじゅつ)だ!!」というふうな品物(しなもの)が贈(おく)られた。中(なか)でも6才(さい)ぐらいのこどもを乗(の)せて走(はし)れる蒸気(じょうき)機関車(きかんしゃ)の模型(もけい)は日本(にっぽん)人(じん)をびっくりさせた。
  日本(にっぽん)は、お返(かえ)しに絹織物(きぬおりもの)・陶器(とうき)・塗(ぬ)りものなど伝統(でんとう)工芸品(こうげいひん)や美術品(びじゅつひん)を送(おく)った。アメリカ艦隊(かんたい)へのプレゼント、米(こめ)200俵(ぴょう)は江戸(えど)からよんだ力士(りきし)にボートまで運(はこ)ばせ、すもうをひろうした。

3.外国(がいこく)との貿易(ぼうえき)

  開港(かいこう)といったって、田畑(たはた)・沼(ぬま)をつぶして作(つく)った野(の)っ原(ぱら)。急(いそ)いで商人(しょうにん)をあつめ、体裁(ていさい)をととのえなけりゃならない。幕府(ばくふ)は開港(かいこう)場(じょう)で商売(しょうばい)をしたい人(ひと)の出(で)かせぎ、移住(いじゅう)を呼(よ)びかけた。安政(あんせい)6(1859)年(ねん)1月(がつ)のことだ。
  よく月(げつ)、2月(がつ)には、幕府(ばくふ)の御用(ごよう)商人(しょうにん)三井(みつい)が外国(がいこく)奉行(ぶぎょう)から命令(めいれい)をうけ、横浜(よこはま)に店(みせ)を出(だ)した。
  安政(あんせい)6(1859)年(ねん)6月(がつ)2日(ふつか)、長崎(ながさき)・箱館(はこだて)とともに横浜(よこはま)開港(かいこう)。いよいよ外国(がいこく)との貿易(ぼうえき)のはじまりだ。しかし、最初(さいしょ)は日本(にっぽん)の商人(しょうにん)も、外国(がいこく)の人(ひと)が何(なに)をほしがっているのかわからない。瀬戸物(せともの)・小間物(こまもの)・塩(しお)・海産物(かいさんぶつ)…とさまざまな品物(しなもの)がならんだ。
  おりしも1850~60年代(ねんだい)、ヨーロッパの生糸(きいと)生産国(せいさんこく)の中心(ちゅうしん)、フランスとイタリアで蚕(かいこ)の病気(びょうき)が流行(りゅうこう)。よそからたくさん輸入(ゆにゅう)しなければならなくなって、開国(かいこく)した日本(にっぽん)の生糸(きいと)はヨーロッパの市場(しじょう)に加(くわ)わることになった。また健康(けんこう)な蚕種(さんしゅ)(蚕の卵のこと)もおおいに求(もと)められた。
  生糸(きいと)が売(う)れると知(し)ると、日本(にっぽん)の商人(しょうにん)たちも生糸(きいと)を集(あつ)めてまわった。養蚕(ようさん)の中心(ちゅうしん)は関東(かんとう)西部(せいぶ)から中部(ちゅうぶ)地方(ちほう)だったから、最寄(もよ)りの港(みなと)である横浜(よこはま)は生糸(きいと)輸出(ゆしゅつ)の中心地(ちゅうしんち)となった。
  1862(文久(ぶんきゅう)2)年(ねん)には、生糸(きいと)は横浜(よこはま)港(こう)での輸出(ゆしゅつ)総額(そうがく)の8割(わり)を占(し)めていた。

4.五品(ごしな)江戸(えど)廻令(まわしれい)

  開港(かいこう)以来(いらい)、商品(しょうひん)は買(か)いあさられ、生産地(せいさんち)から直接(ちょくせつ)開港(かいこう)場(じょう)に送(おく)られるため、物価(ぶっか)は上(あ)がり、国内(こくない)では日用品(にちようひん)さえ不足(ふそく)した。京都(きょうと)の西陣(にしじん)、足利(あしかが)の桐生(きりう)などの織物(おりもの)業者(ぎょうしゃ)をはじめ、武州(ぶしゅう)でも多摩(たま)・入間(いるま)・比企郡(ひきぐん)などの織屋(おりや)農民(のうみん)たちは原材料(げんざいりょう)の生糸(きいと)が手(て)にはいらなくなって、これ以上(いじょう)生糸(きいと)輸出(ゆしゅつ)が続(つづ)いたら仕事(しごと)が成(な)り立(た)たない、生活(せいかつ)していけない、というところまで追(お)い詰(つ)められた。
  そこで万延(まんえん)元(がん)(1860)年(ねん)うるう3月(がつ)、幕府(ばくふ)は「五品(ごしな)江戸(えど)廻令(まわしれい)」を出(だ)した。雑穀(ざっこく)・水油(みずあぶら)・蝋(ろう)・呉服(ごふく)・生糸(きいと)の五品(ごしな)に限(かぎ)り、まず江戸(えど)の問屋(とんや)にまわし、国内(こくない)で必要(ひつよう)な分(ぶん)をとってから、残(のこ)りを横浜(よこはま)へ送(おく)るようにという命令(めいれい)だ。外国(がいこく)との貿易(ぼうえき)と国内(こくない)の品物(しなもの)の流(なが)れを幕府(ばくふ)がしっかり管理(かんり)するつもりだったのだ。
  けれど、自由(じゆう)に商売(しょうばい)したい地方(ちほう)の商人(しょうにん)と取引(とりひき)相手(あいて)の外国人(がいこくじん)商人(しょうにん)からも反対(はんたい)を受(う)け、この命令(めいれい)はあまり効果(こうか)があがらなかった。

5.生糸(きいと)のあつまる町(まち)  八王子(はちおうじ)

  「浅川(あさかわ)を渡(わた)れば  富士(ふじ)のかげ清(きよ)く  桑(くわ)の都(みやこ)に  青嵐(あおあらし)吹(ふ)く」
  西行(さいぎょう)法師(ほうし)(鎌倉(かまくら)時代(じだい)の人(ひと))の歌(うた)をはじまりに八王子(はちおうじ)は「桑(くわ)の都(みやこ)」の名(な)で呼(よ)ばれた。桑都(そうと)日記(にっき)(八王子の塩野適斎が書いた、1582~1824年までの千人同心の記録と解説)には「野(の)っ原(ぱら)は広大(こうだい)で桑(くわ)は1000万(まん)株(かぶ)。そこに住(す)む人(ひと)たちはみな養蚕(ようさん)でくらしている」と書(か)かれている。
  桑(くわ)の都(みやこ)は蚕(かいこ)を育(そだ)て、生糸(きいと)から絹(きぬ)織物(おりもの)を作(つく)る町(まち)になった。
  八王子(はちおうじ)織物(おりもの)は江戸(えど)の元禄(げんろく)時代(じだい)ごろから始(はじ)まり、1700年代(ねんだい)のなかばには、その名(な)が全国(ぜんこく)に広(ひろ)がった。
  もともと4の日(ひ)、8の日(ひ)の月(つき)6回(かい)ひらかれていた八王子(はちおうじ)の市(いち)は横浜(よこはま)が開港(かいこう)されると生糸(きいと)商人(しょうにん)が活(かつ)やくするようになった。甲州(こうしゅう)街道(かいどう)の宿駅(しゅくえき)である八王子(はちおうじ)は、まわりの養蚕(ようさん)地帯(ちたい)から生糸(きいと)をあつめやすい。横浜(よこはま)にも近(ちか)い。条件(じょうけん)がぴったりだったんだね。

6.目(め)こぼしの道(みち)「絹(きぬ)の道(みち)」

絹の道ルート図  生糸(きいと)商人(しょうにん)は、生糸(きいと)をカゴで背負(せお)ったり、天秤(てんびん)でかついだり、小(ちい)さな甲州(こうしゅう)馬(ば)の背中(せなか)に乗(の)せたり、といろいろな方法(ほうほう)で集(あつ)められ、八王子(はちおうじ)から横浜(よこはま)の港(みなと)へと運(はこ)ばれた。「絹(きぬ)の道(みち)」とは生糸(きいと)を運(はこ)ぶこれらの道(みち)すべてをさす。絹(きぬ)の道(みち)は、甲州(こうしゅう)街道(かいどう)のような公(おおやけ)の道(みち)とは違(ちが)い、里(さと)道(みち)だ。例(たと)えば、その一(ひと)つ。八王子(はちおうじ)から鑓水(やりみず)、原町田(はらまちだ)を通(とお)って横浜(よこはま)へ向(む)かうルート(鑓水(やりみず)道了(どうりょう)道という)。
  距離(きょり)こそ、横浜(よこはま)までいちばん短(みじか)いけれど、道(みち)巾(はば)はせまいところは3尺(じゃく)(90センチメートル)くらい。馬車(ばしゃ)も通(とお)れず、多摩(たま)丘陵(きゅうりょう)を越(こ)えるなど歩(ある)き辛(づら)いところもあって、けっこうしんどい道(みち)だったらしい。
  八王子(はちおうじ)から馬車(ばしゃ)で甲州(こうしゅう)街道(かいどう)を通(とお)って東京(とうきょう)に出(で)、そこから鉄道(てつどう)で横浜(よこはま)へ行(い)く方(ほう)が距離(きょり)は遠(とお)くても楽(らく)、という話(はなし)もある。
  けれど、公道(こうどう)である甲州(こうしゅう)街道(かいどう)を行(い)けば宿(しゅく)ごとに荷(に)を積(つ)みかえねばならないきまりだとか、口(くち)銭(せん)10文(もん)とか、別(べつ)の手間(てま)とお金(かね)がかかる。絹(きぬ)の道(みち)はそういう面倒(めんどう)のない裏(うら)道(みち)、抜(ぬ)け道(みち)、お目(め)こぼしの道(みち)だった。

7.蚕(かいこ)の種屋(たねや)さん

地図   蚕(かいこ)の卵(たまご)は1.3ミリメートルくらいのだ円形(えんけい)で「種(たね)」とよばれた。
  卵(たまご)を紙(かみ)に産(う)みつけさせた蚕種(さんしゅ)紙(し)を農家(のうか)に売(う)る仕事(しごと)を「種屋(たねや)」といった。小平(こだいら)でも明治(めいじ)25年(ねん)にこの商売(しょうばい)が始(はじ)まっている。
  中(なか)でも根古坂(ねっこざか)の小野(おの)弥十郎(やじゅうろう)は大正(たいしょう)10(1921)年(ねん)、全国(ぜんこく)蚕種(さんしゅ)製造者(せいぞうしゃ)番付(ばんづけ)で関東(かんとう)の大関(おおぜき)といわれるほどの規模(きぼ)だった。

8.鑓水(やりみず)商人(しょうにん)

ぼくは気が弱いのでこういうの苦手です   開港(かいこう)した横浜(よこはま)には2種類(しゅるい)の商人(しょうにん)がいた。一(ひと)つは三井(みつい)のように江戸(えど)・大阪(おおさか)など都市(とし)の大(だい)商人(しょうにん)。もう一(ひと)つは地方(ちほう)の小規模(しょうきぼ)な商人(しょうにん)だ。貿易(ぼうえき)が始(はじ)まったころは、商売(しょうばい)の才能(さいのう)があれば、資金(しきん)が少(すく)なくとも、取(と)り引(ひ)きに加(くわ)わることができた。
  産地(さんち)から安(やす)い時(とき)に生糸(きいと)を買(か)い占(し)め、値(ね)あがりを待(ま)って横浜(よこはま)で売(う)る。冒険(ぼうけん)のような商売(しょうばい)のしかたで、一晩(ひとばん)で財産(ざいさん)を築(きづ)くこともできたが、一歩(いっぽ)間違(まちが)えるととりかえしのつかないことになる。スリルがあったろうなあ。
  絹(きぬ)の道(みち)沿(ぞ)いの八王子(はちおうじ)鑓水村(やりみずむら)は多摩(たま)きっての生糸(きいと)商人(しょうにん)を何人(なんにん)も産(う)んだ。この村(むら)には、大(おお)きな屋敷(やしき)だの、接待(せったい)のための異人館(いじんかん)だのが建(た)てられ、生糸(きいと)を買(か)う外国商人(がいこくしょうにん)が訪(おとず)れた。
  今(いま)、鑓水(やりみず)には「絹(きぬ)の道(みち)」ときざまれた石碑(せきひ)と、ここの生糸(きいと)商人(しょうにん)たちが商売(しょうばい)と道中(どうちゅう)の無事(ぶじ)を祈(いの)って浅草(あさくさ)から移(うつ)してきた道了堂(どうりょうどう)が建(た)っている。

9.神奈川(かながわ)から東京(とうきょう)へ

明治(めいじ)4(1871)年(ねん)11月(がつ)14日(か)から明治(めいじ)26(1893)年(ねん)3月(がつ)31日(にち)まで西多摩郡(にしたまぐん)・南多摩郡(みなみたまぐん)・北多摩郡(きたたまぐん)の三郡(さんぐん)は神奈川県(かながわけん)だった。
  だから、役所(やくしょ)の届出(とどけで)などは神奈川(かながわ)県庁(けんちょう)のある横浜(よこはま)へ出向(でむ)くし、品物(しなもの)の流(なが)れも横浜(よこはま)へ向(む)かうし、気持(きも)ちの上(うえ)でも多摩(たま)と神奈川(かながわ)、横浜(よこはま)とのつながりは深(ふか)かった。
  明治(めいじ)22(1889)年(ねん)8月(がつ)11日(にち)。新宿(しんじゅく)~八王子(はちおうじ)間(かん)を甲武(こうぶ)鉄道(てつどう)(今(いま)のJR(ジェイアール)中央線(ちゅうおうせん))が開通(かいつう)。この距離(きょり)を約(やく)1時間(じかん)13分(ぷん)で走(はし)ったというから、かなり早(はや)い。それが毎日(まいにち)4往復(おうふく)。甲武(こうぶ)線(せん)は多摩(たま)と東京(とうきょう)を身近(みぢか)にした。さらに明治(めいじ)26年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)からは多摩(たま)は東京府(とうきょうふ)に移(うつ)った。品物(しなもの)は東京(とうきょう)の市場(いちば)へ向(む)かうようになる。
  一方(いっぽう)、「絹(きぬ)の道(みち)にも鉄道(てつどう)を」と、明治(めいじ)20(1887)年(ねん)、横浜(よこはま)の大(だい)商人(しょうにん)原(はら)善三郎(ぜんざぶろう)らが川崎(かわさき)~八王子(はちおうじ)間(かん)の工事(こうじ)を願(ねが)い出(で)たがけり続(つづ)けられ、八王子(はちおうじ)~横浜(よこはま)間(かん)、横浜(よこはま)鉄道(てつどう)(今(いま)のJR(ジェイアール)横浜(よこはま)線(せん))として許(ゆる)しが出(で)たのは明治(めいじ)37(1894)年(ねん)12月(がつ)のことだった。
  横浜(よこはま)鉄道(てつどう)は商品(しょうひん)の流(なが)れをもう一度(いちど)横浜(よこはま)に向(む)かわせる願(ねが)いがかかっていた。が、甲武(こうぶ)鉄道(てつどう)のスピードと輸送(ゆそう)の範囲(はんい)の広(ひろ)がり(明治(めいじ)36年(ねん)6月(がつ)には甲府(こうふ)まで開通(かいつう))は、多摩(たま)と横浜(よこはま)を再(ふたた)び結(むす)びつけることを許(ゆる)さなかった。品物(しなもの)は東京(とうきょう)へと向(む)かい続(つづ)け、養蚕(ようさん)も交通(こうつう)が便利(べんり)になったため、他県(たけん)の大(だい)製糸(せいし)資本(しほん)がのりこんでくるようになり、多摩(たま)の養蚕(ようさん)農家(のうか)はそれらに組(く)みこまれていった。
明治時代のこのあたりの鉄道

中華街にもよりたい!

絹の道資料館

  • 八王子市鑓水989-2
  • 八王子駅北口から「橋本行き」バスで自然公園前下車  徒歩15分
  • あいている時間  ごぜん午前9時~ごご午前4時30分
  • おやすみの日  月よう日、祝日のつぎの日、年末年始
  • 入館無料
 

シルク博物館

  • 横浜市中区山下町(山下公園そば)  シルクセンター内
  • あいている時間  ごぜん9時~ごご4時30分
  • おやすみの日  月よう日、年末年始(12月28日~1月4日)
  • 入館料  大人500円、高校・大学生200円、小・中学生100円

カイコから生糸(きいと)ができるまで

カイコの一生成長物語だね。

カイコの一生

1.卵(たまご)

はじめ黄色(きいろ)く、何日(なんにち)かすると濃(こ)い藤色(ふじいろ)かねずみ色(いろ)に。1.3ミリメートルくらいのだ円形(えんけい)。「蚕種(さんしゅ)」とか「種(たね)」とか言(い)われる。
 

2.毛蚕(けご)

卵たまごからかえったばかりの蚕かいこの幼虫ようちゅうは大おおきさは3ミリメートルくらい。からだに毛けがはえて黒くろく、アリのようだ。これを毛蚕けごという。2~3日にちで毛けが落おちたようになって全体ぜんたいが黄色きいろっぽくなる。

3.齢(れい)

蚕かいこは1回目かいめの脱皮だっぴまでを1齢れい。2回目かいめの脱皮だっぴまでを2齢れい。5齢れいになるとまゆをつくる。

4.眠(みん)

このシャツもうきついあらあらそだちざかりね
新(あたら)しい外皮(がいひ)を作(つく)る間(あいだ)、桑(くわ)を食(た)べず頭(あたま)を持(も)ち上(あ)げ、止(とま)ったままの状態(じょうたい)になる時期(じき)がある。眠(ねむ)っているように見(み)えるので、これを「眠(みん)」という。
新(あたら)しい皮(かわ)ができると古(ふる)い皮(かわ)をぬぎすてる。(脱皮(だっぴ))脱皮(だっぴ)は4回(かい)おこなわれる。
蚕(かいこ)のひふはからだの成長(せいちょう)に合(あ)わせて大(おお)きくなることがない。大(おお)きくなってゆく幼虫(ようちゅう)は、その度(たび)きつくなったひふをぬぎすてていくんだ。
 

5.熟蚕(じゅくご)

5齢れいの末期まっきをいう。このころになると桑くわを食たべなくなり、からだがすきとおる。卵たまごからかえって熟蚕じゅくごになるまでおよそ4週間しゅうかん。その間あいだにからだの長ながさは25~30倍ばい。体重たいじゅうはなんと1万まん倍ばいになる。

6.さなぎ

熟蚕じゅくごは2日間ふつかかん休やすみなく糸いとをはいてまゆをつくり、さらに2日ふつかほどたつとまゆの中なかで脱皮だっぴしてさなぎになる。
まゆを振(ふ)ってみてカラカラと手(て)ごたえがあったら、さなぎになった証拠(しょうこ)だ。
 

7.成虫(せいちゅう)

さなぎになって2週間しゅうかんくらいで、大人おとなになってまゆから出でてくる。
でも、長(なが)い間(あいだ)人間(にんげん)に飼(か)いならされてきた蚕(かいこ)は、羽(はね)があっても飛(と)べなくなっているし、口(くち)も退化(たいか)している。
だから、交尾(こうび)して卵(たまご)を産(う)んだあとは何(なに)も食(た)べないまま、1週間(しゅうかん)ほどで死(し)んでしまうんだ。

かいこのおかあさんがたまごを生んでる絵
夕方(ゆうがた)から夜明(よあ)けにかけ、めすは休(やす)むひまもなく500個(こ)もの卵(たまご)を産(う)みつづける。
おかあさんは大変(たいへん)だよ…。

蚕(かいこ)の体重(たいじゅう)のふえ方
たべざかり!
蚕の体重のふえ方
齢(れい) ふえ方
1齢(れい)(毛蚕(けご)) 1倍(ばい)
2齢(れい)はじめ 20倍(ばい)
3齢(れい)はじめ 120倍(ばい)
4齢(れい)はじめ 730倍(ばい)
5齢(れい)はじめ 2,640倍(ばい)
熟蚕(じゅくご) 10,000 倍(ばい)

春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕

カイコを育てる

カイコを育てる

1.部屋(へや)の準備(じゅんび)

部屋(へや)を掃除(そうじ)して、蚕(かいこ)を飼(か)うための棚(たな)を作(つく)り、竹(たけ)かご(エビラ)をならべる。部屋(へや)は消毒(しょうどく)をする。エビラ

2.掃(は)き立(た)て

はきたてエビラの上(うえ)にオダテという薄(うす)いゴザを敷(し)き、その上(うえ)に蚕座(さんざ)紙(し)という紙(かみ)を敷(し)いて蚕座(さんざ)を作(つく)る。そこに卵(たまご)からかえった毛蚕(けご)を鳥(とり)の羽根(はね)のほうきでやさしく、やさしく掃(は)きおとす。

蚕種(さんしゅ)紙(がみ)
種屋(たねや)さん(蚕種(さんしゅ)製造者(せいぞうしゃ))は、蚕(かいこ)の卵(たまご)を紙(かみ)の上(うえ)に産(う)み付(つ)けさせて蚕種(さんしゅ)紙(がみ)を作(つく)る。農家(のうか)はそれを買(か)って、卵(たまご)をふ化(か)させ、養蚕(ようさん)をおこなう。

 

 

 

 

3.桑(くわ)の葉(は)を与(あた)える

りにゅう食というやつだな蚕(かいこ)は桑(くわ)の葉(は)を食(た)べて大(おお)きくなる。桑(くわ)畑(ばたけ)から毎日(まいにち)のように桑(くわ)をとってきて食(た)べさせる。
特(とく)に小(ちい)さいころは葉(は)を細(こま)かくきざんであげなければならないし、1回(かい)に食(た)べる量(りょう)が少(すく)ないから、食事(しょくじ)の回数(かいすう)を多(おお)くしなければならない。1日(にち)に5~8回(かい)。おちびの間(あいだ)は夜中(よなか)だって桑(くわ)の葉(は)を与(あた)えるんだ。
たくさんの蚕(かいこ)がいっせいに桑(くわ)を食(た)べるのは雨(あめ)の降(ふ)る音(おと)に似(に)ているそうだ。

そだてる 育(そだ)てる!
桑(くわ)を食(た)べさせるだけではないよ。何日(なんにち)かおきに蚕座(さんざ)にたまる食(た)べのこしやうんちの掃除(そうじ)もしなけりゃ。

4.まゆを作(つく)る

4齢(れい)をすぎて、からだがすきとおった蚕(かいこ)は、木(き)や紙(かみ)、わらなどで作(つく)ったマブシとよばれるまゆ作(づく)りの場所(ばしょ)に移(うつ)される。蚕(かいこ)は頭(あたま)を8の字(じ)にふりふり糸(いと)をはいてまゆを作(つく)る。
3~4日(か)するとまゆが出来上(できあ)がり。振(ふ)ってカラカラ音(おと)がしたら、まゆ作(づく)りがおわったしるし。

5.出荷(しゅっか)

マブシからまゆをあつめ、わらくずなどを取(と)りのぞき、出荷(しゅっか)する。
まゆをあつめる場所(ばしょ)で売(う)られて…

6.製糸(せいし)工場(こうじょう)へ

横浜(よこはま)開港(かいこう)のころは、農家(のうか)の副業(ふくぎょう)でしかなかった生糸(きいと)づくり。
明治(めいじ)5(1872)年(ねん)、官営(かんえい)の富岡(とみおか)製糸(せいし)工場(こうじょう)が設立(せつりつ)されると、それを真似(まね)てあちこちに小規模(しょうきぼ)ながら機械(きかい)製糸(せいし)場(じょう)ができた。
生糸(きいと)輸出(ゆしゅつ)がおどろくほど伸(の)びたのはこれらの製糸(せいし)場(じょう)があったからだ。
  1. 良(よ)くないまゆはとりのぞく。
  2. まゆを蒸(む)して、中のさなぎを殺(ころ)し…
  3. まゆを乾燥(かんそう)させる。
  4. 鍋(なべ)でまゆを煮(に)て、糸(いと)の取(と)り出(だ)し口(ぐち)を見(み)つけ…
  5. できあがり! ひきだした糸(いと)を何本(なんぼん)かより合(あ)わせて小(ちい)さな枠(わく)にまきとる。
  6. そのままでは糸(いと)同士(どうし)がくっつくのでもう1度(ど)大(おお)きな枠(わく)にまきなおす。
  7. 枠(わく)からはずすと生糸(きいと)のかせのできあがり!

女工さんたち 製糸(せいし)工場(こうじょう)は、その周辺(しゅうへん)からはもちろん、好景気(こうけいき)で人手(ひとで)不足(ぶそく)になってくると、かなり遠(とお)いところからも女工(じょこう)さんをやといいれた。12~13才(さい)ぐらいから働(はたら)きに出(で)た女(おんな)の子(こ)たちは、自分(じぶん)は一生(いっしょう)着(き)ることのないだろう絹(きぬ)を織(お)る生糸(きいと)をせっせとつむぐのだった。
八王子(はちおうじ)あたりの機織(はたお)りうたに♪早(はや)く日(ひ)が暮(く)れて  早(はや)く夜(よる)があけて  3月(がつ)2日(ふつか)がくればよい♪というのがある。3月(がつ)2日(ふつか)は年季(ねんき)あけの日(ひ)とされていた。このころは年季(ねんき)奉公(ぼうこう)で最初(さいしょ)にとりきめた期限(きげん)はつとめあげなければならなかったんだ。

 

 

 

 

明治(めいじ)~昭和(しょうわ)初(はじめ)に使(つか)われていた養蚕(ようさん)・製糸(せいし)の道具(どうぐ)

<桑(くわ)しょいかご> 桑しょいかご つみとった桑(くわ)の葉(は)を持(も)ちかえるのに使(つか)うかご。

<桑(くわ)もぎ> 桑もぎ 桑(くわ)の小枝(こえだ)が多(おお)い春(はる)に使(つか)うとか。

<桑(くわ)切(き)り機(き)> 桑切り機 桑(くわ)の葉(は)を細(こま)かくきざむのに使(つか)う。

<ねん糸機(しき)> ねん糸機 糸(いと)をより合(あ)わせるのに使(つか)う。

<座繰機(ざぐりき)> 座繰機 なべの中(なか)でまゆを煮(に)、糸(いと)をひきだして巻(ま)きとる。
明治(めいじ)10年(ねん)以降(いこう)出現(しゅつげん)。明治(めいじ)30年(ねん)以降(いこう)は輸出(ゆしゅつ)生糸(きいと)は機械(きかい)製糸(せいし)となった。

 

参考(さんこう)にした本(ほん)

「東京百年史  第1巻」
「図説横浜の歴史」
「神奈川県史」
「神奈川県の歴史  下」
「横浜の歴史」
「平凡社こども世界百科」
かがくのとも傑作集「かいこ」
科学のアルバム「カイコ」
「秋川市蚕糸業史」
「日野と養蚕」
「小平町誌」
「郷土こだいら」
「東京の交通」
「日本の鉄道」
「鉄道の時代」
「八王子物語」
「史跡でつづる東京の歴史」
「わがまちの歴史八王子」
「絹の道」
「多摩のあゆみ」第55号
「シルク・ロード・ハンドブック」ほか、いろいろ。

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掲載日 令和7年8月1日