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40. 花(はな)の江戸(えど)城(じょう) Part1(パートワン)

花(はな)の江戸(えど)城(じょう)へ

江戸城 (ニ(に)の丸(まる)、巽櫓(たつみやぐら)と多聞(たもん)、東櫓(ひがしやぐら))

130年ってほんの?ほんの? 今(いま)、皇居(こうきょ)のある場所(ばしょ)は、ほんの130年(ねん)ぐらい前(まえ)までは、江戸城(えどじょう)だった。
徳川(とくがわ)家康(いえやす)の関東(かんとう)入国(にゅうこく)以来(いらい)(1590)、雨(あま)もりの修理(しゅうり)から始(はじ)まって、全国(ぜんこく)大名(だいみょう)をかりだし、工事(こうじ)につぐ工事(こうじ)を重(かさ)ね、50年(ねん)の月日(つきひ)をかけて完成(かんせい)した江戸城(えどじょう)は日本一(にっぽんいち)の広大(こうだい)な城(しろ)だった。
そして、その後(ご)も徳川(とくがわ)三百年(ねん)の間(あいだ)にいくたびもの火事(かじ)などの災害(さいがい)に出会(であ)いながら、再建(さいけん)をくり返(かえ)した。(復旧(ふっきゅう)作業(さぎょう)はおよそ80回(かい)とか)
「大変(たいへん)だったんだねえ」と思(おも)わず肩(かた)を抱(だ)きしめたくなるその歴史(れきし)を、みんなでいっしょにたどってみようね。

なりきって、はりきって、花の江戸城へ!

江戸城(えどじょう)年表(ねんぴょう)

工事、工事のくりかえしなんですね

江戸城年表
年 できごと
治承(じしょう)4(1180)年(ねん) 10月(がつ) 江戸(えど)太郎(たろう)重長(しげなが)、一族(いちぞく)をひきいて、武蔵国(むさしのくに)に入国(にゅうこく)した源頼朝(みなもとのよりとも)の軍(ぐん)に加(くわ)わる。(初(はじ)め秩父(ちちぶ)姓(せい)、のち江戸(えど)姓(せい)をなのる)
康正(こうしょう)2(1456)年(ねん) 扇谷(おうぎがやつ)上杉家(うえすぎけ)の執事(しつじ)、太田(おおた)資清(すけきよ)、資長(すけなが)(道灌(どうかん))親子(おやこ)、江戸城(えどじょう)の建設(けんせつ)を始(はじ)める。
長禄(ちょうろく)元(がん)(1457)年(ねん) 4月(がつ)8日(ようか) 江戸城(えどじょう)完成(かんせい)。
文明(ぶんめい)18(1486)年(ねん) 7月(がつ)26日(にち) 太田(おおた)道灌(どうかん)、上杉(うえすぎ)定正(さだまさ)に暗殺(あんさつ)される。
大永(たいえい)4(1524)年(ねん) 1月(がつ) 北条(ほうじょう)氏綱(うじつな)、上杉(うえすぎ)朝興(ともおき)をやぶり、江戸城(えどじょう)を奪(うば)う。これより、江戸城(えどじょう)は、小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)の一支城(いちしじょう)となる。
天正(てんしょう)17(1589)年(ねん) 11月(がつ)24日(か) 豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)、小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)に宣戦(せんせん)布告(ふこく)。
天正(てんしょう)18(1590)年(ねん) 4月(がつ)3日(みっか) 徳川(とくがわ)家康(いえやす)、浅野(あさの)長政(ながまさ)の攻撃(こうげき)により江戸城(えどじょう)落城(らくじょう)。
8月(がつ)1日(ついたち) 家康(いえやす)、江戸城(えどじょう)入城(にゅうじょう)。
9月(がつ)1日(ついたち) 江戸城(えどじょう)の応急(おうきゅう)修理(しゅうり)、始(はじ)まる。
天正(てんしょう)19(1591)年(ねん) 4月(がつ) 家康(いえやす)、配下(はいか)の武将(ぶしょう)たちに、領地(りょうち)1万石(まんごく)につき、人夫(にんぷ)5人(にん)を出(だ)させて、江戸城(えどじょう)修築(しゅうちく)。
文禄(ぶんろく)元(がん)(1592)年(ねん) 3月(がつ)16日(にち) 西(にし)の丸(まる)を広(ひろ)げる工事(こうじ)、始(はじ)まる。
8月(がつ) 大雨(おおあめ)で土居(どい)(土(つち)の垣(かき))がくずれ、堀(ほり)が埋(う)まる。
9月(がつ) それを修理(しゅうり)する。
文禄(ぶんろく)2(1593)年(ねん) 正(しょう)月(がつ) 修築(しゅうちく)開始(かいし)。6月(がつ) またまた修築(しゅうちく)。
8月(がつ) 大風雨(だいふうう)で、城(しろ)のところどころがこわれ、修理(しゅうり)。
西(にし)の丸(まる)完成(かんせい)。二(に)の丸(まる)・三(さん)の丸(まる)・吹上(ふきあげ)のおおもとの工事(こうじ)始(はじ)まる。
慶長(けいちょう)8(1603)年(ねん) 2月(がつ)12日(にち) 家康(いえやす)、征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)となり、江戸(えど)幕府(ばくふ)を開(ひら)く。
3月(がつ) 神田山(かんだやま)をくずし、洲崎(すざき)の埋(う)め立(た)てを始(はじ)める。
水路(すいろ)をつくる工事(こうじ)も始(はじ)める。
慶長(けいちょう)9(1604)年(ねん) 6月(がつ)1日(ついたち) 幕府(ばくふ)、江戸城(えどじょう)を広(ひろ)げる工事(こうじ)の命令(めいれい)をだす。
8月(がつ) 西国(さいごく)の大名(だいみょう)たち、石材(せきざい)などを江戸(えど)に運(はこ)ぶことを命(めい)じられる。
慶長(けいちょう)10(1605)年(ねん) 4月(がつ)16日(にち) 秀忠(ひでただ)、二(に)代(だい)将軍(しょうぐん)となる。
慶長(けいちょう)11(1606)年(ねん) 正(しょう)月(がつ) 秀忠(ひでただ)、諸(しょ)大名(だいみょう)に江戸城(えどじょう)の修築(しゅうちく)を命(めい)じる。
11月(がつ) 江戸城(えどじょう)の工事(こうじ)のため、武州(ぶしゅう)成木村(なりきむら)(今(いま)の青梅市(おうめし))に石灰(せっかい)御用(ごよう)を命(めい)じる。
慶長(けいちょう)12(1607)年(ねん) 9月(がつ) 天守台(てんしゅだい)、完成(かんせい)。
9月(がつ)末(まつ) 5層(そう)の大天守(だいてんしゅ)、完成(かんせい)。屋根(やね)瓦(がわら)は銅(どう)で葺(ふ)かれる。この頃(ころ)、大手門(おおてもん)、完成(かんせい)。本(ほん)丸(まる)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)の工事(こうじ)おわる。
慶長(けいちょう)15(1610)年(ねん) 3月(がつ) 西(にし)の丸(まる)の工事(こうじ)、始(はじ)まる。
慶長(けいちょう)16(1611)年(ねん) 3月(がつ) 西(にし)の丸(まる)の外堀(そとぼり)を広(ひろ)げる。
慶長(けいちょう)19(1614)年(ねん) 正(しょう)月(がつ) 西(にし)の丸(まる)下(した)の大名(だいみょう)小路(こうじ)の石垣(いしがき)、工事(こうじ)始(はじ)まる。
4月(がつ) 本(ほん)丸(まる)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)、および中郭(ちゅうかく)の最大(さいだい)規模(きぼ)の石垣(いしがき)の修築(しゅうちく)工事(こうじ)、始(はじ)まる。
10月(がつ) 大阪(おおさか)冬(ふゆ)の陣(じん)のため、工事(こうじ)は一時(いちじ)中止(ちゅうし)。
元和(げんな)元(がん)(1615)年(ねん) 4月(がつ) 大阪(おおさか)夏(なつ)の陣(じん)。
5月(がつ) 豊臣家(とよとみけ)、滅亡(めつぼう)。
元和(げんな)2(1616)年(ねん) 神田川(かんだがわ)を外堀(そとぼり)にする工事(こうじ)、始(はじ)まる。
4月(がつ) 家康(いえやす)、亡(な)くなる。
元和(げんな)6(1620)年(ねん) 秀忠(ひでただ)、土居(どい)をすべて石垣(いしがき)になおす。
4月(がつ) 竹橋門(たけばしもん)など、内郭(ないかく)(内側(うちがわ)のかこい)の門(もん)が完成(かんせい)する。
元和(げんな)8(1622)年(ねん) 2月(がつ) 西(にし)の丸(まる)、ふたたび修築(しゅうちく)。ここを前(ぜん)将軍(しょうぐん)の住居(じゅうきょ)とする。
本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)・天守(てんしゅ)櫓(やぐら)の修築(しゅうちく)、天守台(てんしゅだい)の石垣(いしがき)の改修(かいしゅう)、始(はじ)まる。
元和(げんな)9(1623)年(ねん) 7月(がつ)27日(にち) 家光(いえみつ)、三(さん)代(だい)将軍(しょうぐん)となる。
この年(とし) 天守(てんしゅ)櫓(やぐら)と天守台(てんしゅだい)の修築(しゅうちく)、おわる。
寛永(かんえい)元(がん)(1624)年(ねん) この年(とし)、西(にし)の丸(まる)御殿(ごてん)の改修(かいしゅう)、おわる。
寛永(かんえい)3(1626)年(ねん) 正(しょう)月(がつ) 西(にし)の丸(まる)、とくに石垣(いしがき)をふたたび修築(しゅうちく)。
寛永(かんえい)4(1627)年(ねん) この年(とし)、半蔵門(はんぞうもん)の工事(こうじ)、おわる。
寛永(かんえい)5(1628)年(ねん) この年(とし)、内郭(ないかく)の石垣(いしがき)、だいたい完成(かんせい)する。
寛永(かんえい)6(1629)年(ねん) 正(しょう)月(がつ) 総構(そうがま)えを広(ひろ)げる工事(こうじ)、始(はじ)まる。
寛永(かんえい)11(1634)年(ねん) 7月(がつ)23日(にち) 西(にし)の丸(まる)御殿(ごてん)、焼(や)け失(う)せる。
寛永(かんえい)12(1635)年(ねん) 正(しょう)月(がつ) 二(に)の丸(まる)御殿(ごてん)の増築(ぞうちく)などの工事(こうじ)、始(はじ)まる。
寛永(かんえい)13(1636)年(ねん) 正(しょう)月(がつ) 江戸城(えどじょう)の工事(こうじ)、総仕上(そうしあ)げのため、全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)を総動員(そうどういん)する。この工事(こうじ)で江戸城(えどじょう)の総構(そうがま)えが完成(かんせい)。
2月(がつ) 焼(や)けた西(にし)の丸(まる)御殿(ごてん)の再建(さいけん)工事(こうじ)、始(はじ)まる。
7月(がつ) 江戸城(えどじょう)の主郭(しゅかく)・内郭(ないかく)・外郭(がいかく)、完成(かんせい)する。
寛永(かんえい)14(1637)年(ねん) 正(しょう)月(がつ) 天守(てんしゅ)、本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)の改築(かいちく)、始(はじ)まる。
寛永(かんえい)15(1638)年(ねん) 8月(がつ) 江戸城(えどじょう)内(ない)からの火事(かじ)で、本(ほん)丸(まる)が焼(や)け失(う)せる。(「寛永(かんえい)日記(にっき)」では寛永(かんえい)16年(ねん)(1639))
寛永(かんえい)16(1639)年(ねん) 9月(がつ) 焼(や)けた本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)、櫓(やぐら)、門(もん)の再建(さいけん)工事(こうじ)始(はじ)まる。よく年(ねん)、4月(がつ)、本(ほん)丸(まる)完成(かんせい)。
寛永(かんえい)20(1643)年(ねん) 二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)の石垣(いしがき)を修理(しゅうり)。
三(さん)の丸(まる)に三(さん)の丸(まる)御殿(ごてん)を建(た)てる。
慶安(けいあん)元(がん)(1648)年(ねん) 9月(がつ) 西(にし)の丸(まる)、またまた修築(しゅうちく)始(はじ)まる。
慶安(けいあん)4(1651)年(ねん) 8月(がつ)18日(にち) 家綱(いえつな)、四(よん)代(だい)将軍(しょうぐん)となる。
明暦(めいれき)3(1657)年(ねん) 正(しょう)月(がつ)18~19日(にち) 江戸城(えどじょう)と城下町(じょうかまち)、振袖(ふりそで)火事(かじ)(明暦(めいれき)の大火(たいか))で大被害(だいひがい)。西(にし)の丸(まる)をのぞいて、天守(てんしゅ)、本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)、すべて焼(や)け失(う)せる。建てちゃ焼け建てちゃ焼けしてるわけだ
死者(ししゃ)10万(まん)人(にん)という。天守(てんしゅ)は再建(さいけん)されないままとなる。
8月(がつ) 本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)の櫓(やぐら)、門(もん)を再建(さいけん)する。
万治(まんじ)元(がん)(1658)年(ねん) 5月(がつ)9日(ここのか)~万治(まんじ)2(1659)年(ねん)8月(がつ)29日(にち) 再建(さいけん)大(だい)工事(こうじ)、おこなわれる。
延宝(えんぽう)8(1680)年(ねん) 8月(がつ)23日(にち) 綱吉(つなよし)、五(ご)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
宝永(ほうえい)6(1709)年(ねん) 5月(がつ)1日(ついたち) 家宣(いえのぶ)、六(ろく)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
宝永(ほうえい)7(1710)年(ねん) 吹上(ふきあげ)の御成門(おなりもん)、完成(かんせい)。
正徳(しょうとく)3(1713)年(ねん) 4月(がつ)2日(ふつか) 家継(いえつぐ)、七(しち)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
享保(きょうほう)元(がん)(1716)年(ねん) 4月(がつ)30日(にち) 吉宗(よしむね)、八(はち)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
享保(きょうほう)6(1721)年(ねん) 三角(さんかく)矢来(やらい)物見(ものみ)櫓(やぐら)を吹上(ふきあげ)に築(きず)く。
享保(きょうほう)9(1724)年(ねん) 正(しょう)月(がつ)30日(にち) 江戸(えど)市中(しちゅう)の大火(たいか)で芝口門(しばぐちもん)、焼(や)け失(う)せる。
これ以降(いこう)、再建(さいけん)されず。
享保(きょうほう)16(1731)年(ねん) 4月(がつ) 江戸(えど)市中(しちゅう)で大火(たいか)。
8月(がつ) 虎ノ門(とらのもん)、焼(や)け失(う)せる。
延享(えんきょう)2(1745)年(ねん) 11月(がつ)2日(ふつか) 家重(いえしげ)、九(きゅう)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
宝暦(ほうれき)10(1760)年(ねん) 9月(がつ)2日(ふつか) 家治(いえはる)、十(じゅう)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
明和(めいわ)元(がん)(1764)年(ねん) 2月(がつ) 江戸(えど)市中(しちゅう)で大火(たいか)。鍜治橋門(かじばしもん)、焼(や)け失(う)せる。
明和(めいわ)5(1768)年(ねん) 竹橋門(たけばしもん)に雷(かみなり)がおっこちて、燃(も)えあがる。ただちに再建(さいけん)。
安永(あんえい)元(がん)(1772)年(ねん) 2月(がつ) 大火(たいか)で日比谷門(ひびやもん)、桜田門(さくらだもん)、馬場(ばば)先門(さきもん)、常磐橋(ときわばし)門(もん)を焼(や)く。
天明(てんめい)7(1787)年(ねん) 3月(がつ)6日(むいか) 家斉(いえなり)、十一(じゅういち)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
文化(ぶんか)3(1806)年(ねん) 3月(がつ)4日(よっか) 大火(たいか)で山下橋(やましたばし)、数寄屋橋(すきやばし)、鍛治橋(かじばし)門番所(もんばんしょ)、呉服橋門(ごふくばしもん)、常磐橋門(ときわばしもん)、焼(や)け失(う)せる。
天保(てんぽう)8(1837)年(ねん) 5月(がつ)10日(とおか) 家慶(いえよし)、十二(じゅうに)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
天保(てんぽう)9(1838)年(ねん) 3月(がつ) 西(にし)の丸(まる)から火事(かじ)。御殿(ごてん)、門(もん)、長屋(ながや)が焼(や)け失(う)せる。
天保(てんぽう)10(1839)年(ねん) 12月(がつ) 西(にし)の丸(まる)御殿(ごてん)、長屋(ながや)など再建(さいけん)される。
弘化(こうか)元(がん)(1844)年(ねん) 5月(がつ)10日(とおか) 江戸城(えどじょう)本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)から火事(かじ)。大奥(おおおく)、表(おもて)御殿(ごてん)、黒書院(くろしょいん)、柳営(りゅうえい)御殿(ごてん)(将軍(しょうぐん)の御殿(ごてん))が焼(や)け失(う)せる。
弘化(こうか)2(1845)年(ねん) 2月(がつ) 去年(きょねん)全焼(ぜんしょう)した本(ほん)丸(まる)柳営(りゅうえい)御殿(ごてん)を再建(さいけん)。
嘉永(かえい)5(1852)年(ねん) 6月(がつ) 江戸城(えどじょう)西(にし)の丸(まる)御殿(ごてん)から火事(かじ)。全焼(ぜんしょう)。
嘉永(かえい)6(1853)年(ねん) 7月(がつ)22日(にち) 家正(いえまさ)、十三(じゅうさん)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
安政(あんせい)5(1858)年(ねん) 10月(がつ)25日(にち) 家茂(いえしげ)、十四(じゅうよん)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
安政(あんせい)6(1859)年(ねん) 10月(がつ) 本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)、全焼(ぜんしょう)。
万延(まんえん)元(がん)(1860)年(ねん) 11月(がつ) 本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)、再建(さいけん)される。
文久(ぶんきゅう)3(1863)年(ねん) 6月(がつ)3日(みっか) 西(にし)の丸(まる)御殿(ごてん)から火事(かじ)。伏見(ふしみ)櫓(やぐら)、下乗門(げじょうもん)をのぞく西(にし)の丸(まる)、全焼(ぜんしょう)。
11月(がつ)15日(にち) 本(ほん)丸(まる)と二(に)の丸(まる)、焼(や)け失(う)せる。二(に)の丸(まる)、ただちに再建(さいけん)。本(ほん)丸(まる)は再建(さいけん)されないままとなる。
慶応(けいおう)2(1866)年(ねん) 12月(がつ)5日(いつか) 慶喜(よしのぶ)、十五(じゅうご)代(だい)将軍(しょうぐん)になる。
慶応(けいおう)3(1867)年(ねん) 10月(がつ)15日(にち) 大政(たいせい)奉還(ほうかん)。江戸城(えどじょう)は徳川家(とくがわけ)のものでなくなる。
12月(がつ) 二(に)の丸(まる)御殿(ごてん)、全焼(ぜんしょう)する。これ以降(いこう)、再建(さいけん)されない。
明治(めいじ)元(がん)(1868)年(ねん) 4月(がつ)11日(にち) 江戸城(えどじょう)、開城(かいじょう)。
7月(がつ) 「江戸(えど)」は「東京(とうきょう)」となる。
9月(がつ) 明治(めいじ)天皇(てんのう)、東京(とうきょう)に行幸(ぎょうこう)。江戸城(えどじょう)西(にし)の丸(まる)にはいる。江戸城(えどじょう)は東京城(とうきょうじょう)と名(な)をかえ、皇居(こうきょ)になる。
明治(めいじ)3(1870)年(ねん) 11月(がつ) 半蔵門(はんぞうもん)ほか5門(もん)の渡(わたり)櫓(やぐら)をとりこわす。
明治(めいじ)5(1872)年(ねん) 3月(がつ) 西(にし)の丸(まる)を中心(ちゅうしん)に旧(きゅう)内郭(ないかく)を皇居(こうきょ)にさだめる。
8月(がつ) 日比谷(ひびや)、数寄屋橋(すきやばし)、一ツ橋(ひとつばし)、虎ノ門(とらのもん)、赤坂(あかさか)、四谷(よつや)、市ヶ谷(いちがや)など21の門(もん)のとりこわし決定(けってい)。
10月(がつ) 陸軍省(りくぐんしょう)、本(ほん)丸(まる)に残(のこ)る建物(たてもの)のとりこわしを願(ねが)い出(で)る。富士見(ふじみ)櫓(やぐら)、拮橋(はねばし)、数寄屋橋(すきやばし)をのぞいて、許可(きょか)される。
明治(めいじ)21(1888)年(ねん) 10月(がつ) 新(あたら)しい宮殿(きゅうでん)が旧(きゅう)西(にし)の丸(まる)に建(た)てられる。
明治(めいじ)22(1889)年(ねん) 1月(がつ) 「東京城(とうきょうじょう)」は「宮城(きゅうじょう)」と名(な)をかえる。
大正(たいしょう)8(1919)年(ねん) 二(に)の丸(まる)の堀(ほり)を埋(う)め立(た)て、宮内庁(くないちょう)の病院(びょういん)、馬場(ばば)などを建(た)てる。
大正(たいしょう)12(1923)年(ねん) 9月(がつ)1日(ついたち) 関東(かんとう)大震災(だいしんさい)。大手門(おおてもん)、半蔵門(はんぞうもん)などは焼(や)け失(う)せる。伏見(ふしみ)櫓(やぐら)、富士見(ふじみ)櫓(やぐら)、坂下門(さかしたもん)などはくずれる。
大正(たいしょう)14(1925)年(ねん) 関東(かんとう)大震災(だいしんさい)の被害(ひがい)のうち、西(にし)の丸(まる)大手門(おおてもん)、富士見(ふじみ)櫓(やぐら)、巽(たつみ)櫓(やぐら)、伏見(ふしみ)櫓(やぐら)、伏見(ふしみ)多聞(たもん)櫓(やぐら)、本(ほん)丸(まる)数寄屋(すきや)多聞(たもん)櫓(やぐら)、平河門(ひらかわもん)、外(そと)桜田門(さくらだもん)、坂下門(さかしたもん)が復興(ふっこう)される。
昭和(しょうわ)20(1945)年(ねん) 5月(がつ)25日(にち) 東京(とうきょう)空襲(くうしゅう)のため、宮殿(きゅうでん)、焼(や)け失(う)せる。
昭和(しょうわ)23(1948)年(ねん) 「宮城(きゅうじょう)」から「皇居(こうきょ)」と正式(せいしき)に名(な)まえをかえる。
昭和(しょうわ)39(1964)年(ねん) 東京(とうきょう)オリンピックを記念(きねん)して、田安門(たやすもん)を復元(ふくげん)する。
田安門(たやすもん)、北(きた)の丸(まる)を森林(しんりん)公園(こうえん)にして武道館(ぶどうかん)をたてる。
昭和(しょうわ)42(1967)年(ねん) 本(ほん)丸(まる)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)の一部(いちぶ)を「東御苑(ひがしぎょえん)」として公開(こうかい)する。

江戸(えど)城(じょう)の歴史(れきし) その1

かっこいい役がどうしても考えつかないんだ

1.家康(いえやす)がやって来(く)る前(まえ)の江戸(えど)

鎌倉(かまくら)時代(じだい)

「江戸(えど)」の名(な)が歴史(れきし)に登場(とうじょう)するのは、武士(ぶし)が活躍(かつやく)した中世(ちゅうせい)。平家(へいけ)の勢(いきお)いが盛(さか)んだった頃(ころ)、武蔵国(むさしのくに)に秩父(ちちぶ)別当(べっとう)重弘(しげひろ)という平氏系(へいしけい)の人(ひと)があった。その孫(まご)の重長(しげなが)は治承(じしょう)4年(ねん)(1180)、石橋(いしばし)合戦(がっせん)の後(のち)、源頼朝(みなもとのよりとも)について、重(おも)く用(もち)いられた。その勢力(せいりょく)は、今(いま)の千代田区(ちよだく)を中心(ちゅうしん)に台東区(たいとうく)、文京区(ぶんきょうく)、港区(みなとく)、新宿区(しんじゅくく)あたりにまでおよんでいた。そして、この重長(しげなが)が麹町(こうじまち)台地(だいち)に「江戸(えど)館(やかた)」を建(た)てた。江戸城(えどじょう)のもととなる建物(たてもの)だ。
そのころの江戸(えど)は海(うみ)に面(めん)した低湿地(ていしっち)の西(にし)に武蔵野(むさしの)台地(だいち)が広(ひろ)がっていた。武蔵野(むさしの)台地(だいち)はさらに西(にし)から東(ひがし)へ、品川(しながわ)台地(だいち)、麻布(あざぶ)台地(だいち)、麹町(こうじまち)台地(だいち)、本郷(ほんごう)台地(だいち)、上野(うえの)台地(だいち)と、5つの小(ちい)さな台地(だいち)に分(わ)かれる。台地(だいち)と台地(だいち)の間(あいだ)には沼(ぬま)や川(かわ)があって、江戸(えど)湊(みなと)へと流(なが)れこみ、たくさんの入江(いりえ)ができていた。

室町(むろまち)時代(じだい)

このころの江戸(えど)は関東(かんとう)管領(かんれい)、上杉(うえすぎ)定正(さだまさ)の支配(しはい)だった。その重臣(じゅうしん)だった太田(おおた)道灌(どうかん)は康正(こうしょう)3年(ねん)(1457)、かつての江戸(えど)館(やかた)あとに江戸城(えどじょう)を築(きず)いた。谷(たに)を利用(りよう)して、たくさんの堀(ほり)をつくり、城(しろ)は子(し)・中(ちゅう)・外(げ)(下)の三郭(さんかく)からなっていた。中城(ちゅうじょう)は本(ほん)丸(まる)、子城(しじょう)は二(に)の丸(まる)、外城(げじょう)は三(さん)の丸(まる)にあたる。まわりには道灌(どうかん)の家臣(かしん)たちの根小屋(ねごや)が置(お)かれ、物見(ものみ)のための20の櫓(やぐら)と5つの石門(せきもん)が守(まも)りをかためていた。
城(しろ)のまわりはにぎわい、城下町(じょうかまち)も発達(はったつ)した。けれど文明(ぶんめい)18年(ねん)(1486)、道灌(どうかん)が主君(しゅくん)の上杉(うえすぎ)定正(さだまさ)に暗殺(あんさつ)されると、江戸(えど)はさびれた田舎(いなか)になってしまった。

江戸城(えどじょう)は別名(べつめい)「千代田城(ちよだじょう)」

『御府内(ごふない)備考(びこう)』(注釈)によると、道灌(どうかん)が、城(しろ)を構(かま)える場所(ばしょ)を求(もと)めて、たどりついた村(むら)そのころの江戸の風景の名(な)をたずねたところ「千代田(ちよだ)、宝田(たからだ)、祝田村(いわいだむら)」の三(さん)か村(そん)だという。とても縁起(えんぎ)のいい名前(なまえ)なので、ここに城(しろ)をかまえたら、栄(さか)えることまちがいなし、と道灌(どうかん)は心(こころ)を決(き)めたという。そして、城(しろ)は、徳川(とくがわ)家康(いえやす)が入国(にゅうこく)するまでは「千代田城(ちよだじょう)」と呼(よ)ばれていた。
(注釈)『御府内(ごふない)備考(びこう)』というのは幕府(ばくふ)が文政(ぶんせい)12年(ねん)(1829)に完成(かんせい)させた、江戸(えど)府内(ふない)の地誌(ちし)。江戸城(えどじょう)や町(まち)、神社(じんじゃ)、お寺(てら)について歴史(れきし)、由来(ゆらい)などの説明(せつめい)がのっている。
 

2.家康(いえやす)、関東(かんとう)入国(にゅうこく) 戦国(せんごく)時代(じだい)のおわり

天正(てんしょう)18年(ねん)(1590)8月(がつ)1日(ついたち)、徳川(とくがわ)家康(いえやす)は江戸城(えどじょう)にはいった。小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)を滅(ほろ)ぼし、天下(てんか)統一(とういつ)をはたした豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)からのほうびとしての領地(りょうち)替(が)えだった。小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)のもとの領地(りょうち)である関八州(かんはっしゅう)(注釈)を与(あた)えられたのだけれど、かわりにそれまでの領地(りょうち)はとりあげられた。京都(きょうと)から遠(とお)くなってしまうわけだから、あまりいい条件(じょうけん)ではなかった。
そして家康(いえやす)が入国(にゅうこく)したころの江戸城(えどじょう)は荒(あ)れはてていた。石垣(いしがき)は一ヶ所(いっかしょ)もなく、芝(しば)の土手(どて)で、城(しろ)の建物(たてもの)も板葺(いたぶ)きの田舎家(いなかや)だった。家康(いえやす)はとりあえず雨(あま)もりの修理(しゅうり)!をして、江戸城(えどじょう)と城下町(じょうかまち)の建設(けんせつ)大計画(だいけいかく)を練(ね)りはじめるのだった。
(注釈)≪関八州(かんはっしゅう)≫
ハイッ交換!ってわけね 武蔵(むさし)(今(いま)の東京(とうきょう)・埼玉(さいたま))、相模(さがみ)(神奈川(かながわ))、安房(あわ)(千葉(ちば))、上総(かずさ)(千葉(ちば))、下総(しもうさ)(千葉(ちば)・茨城(いばらき))、常陸(ひたち)(茨城(いばらき))、上野(こうずけ)(群馬(ぐんま))、下野(しもつけ)(栃木(とちぎ))
≪それまでの家康(いえやす)の領地(りょうち)≫
駿河(するが)(今(いま)の静岡(しずおか))、遠江(とおとうみ)(静岡(しずおか))、三河(みかわ)(愛知(あいち))、甲斐(かい)(山梨(やまなし))、信濃(しなの)(長野(ながの))

3.江戸(えど)の都市(とし)計画(けいかく)

江戸(えど)の町(まち)づくりの最初(さいしょ)のお手本(てほん)は「平安京(へいあんきょう)」だ。平安京(へいあんきょう)は中国(ちゅうごく)は唐(とう)の都(みやこ)の長安(ちょうあん)をお手本(てほん)にしたものだ。そして、長安(ちょうあん)は陰陽学(おんみょうがく)(注釈)の「四神(ししん)相応(そうおう)の地形(ちけい)」を選(えら)んでつくられた都市(とし)だ。「四神(ししん)相応(そうおう)の地形(ちけい)」というのは人間(にんげん)が幸福(こうふく)にくらす条件(じょうけん)を備(そな)えた地形(ちけい)をいう。つまり、江戸の北の山が富士山?
東(ひがし)に「青竜(せいりゅう)」の神(かみ)が宿(やど)る川(かわ)。
南(みなみ)に「朱雀(すざく)」の神(かみ)が宿(やど)る平野(へいや)。
西(にし)に「白虎(びゃっこ)」の神(かみ)が宿(やど)る道(みち)。
北(きた)に「玄武(げんぶ)」の神(かみ)が宿(やど)る山(やま)。
これらがそろった土地(とち)を選(えら)んで都市(とし)をつくるのがいいわけだ。
江戸(えど)は平川(ひらかわ)を青竜(せいりゅう)、江戸(えど)湊(みなと)を朱雀(すざく)、東海道(とうかいどう)を白虎(びゃっこ)、富士山(ふじさん)を玄武(げんぶ)の神(かみ)にみたてて、計画(けいかく)がすすめられた。
(注釈)「陰陽学(おんみょうがく)」というのは古代(こだい)の中国(ちゅうごく)でさかんになった学問(がくもん)。今(いま)の天文学(てんもんがく)や地理学(ちりがく)、哲学(てつがく)などを合(あ)わせたようなもの。
さいこうの立地条件です

四神(ししん)全員(ぜんいん)ご紹介(しょうかい)

青竜東方(とうほう)を守護(しゅご)する神(かみ)。「清流(せいりゅう)」を意味(いみ)し、肥(こ)えた地(ち)をはぐくんで豊作(ほうさく)と家運(かうん)の栄(さか)えをまねく。

 

 

 

 

朱雀南方(なんぽう)を守護(しゅご)する神(かみ)。平野(へいや)などの広(ひろ)い場所(ばしょ)を意味(いみ)し、陽(ひ)あたりのよい、平安(へいあん)な生活(せいかつ)をさずける。

 

 

 

 

白虎西方(さいほう)を守護(しゅご)する神(かみ)。長(なが)い道(みち)を意味(いみ)し、人通(ひとどお)りの多(おお)いにぎやかさから、商売(しょうばい)繁盛(はんじょう)と子孫(しそん)繁栄(はんえい)をまねく。

 

 

 

 

玄武北方(ほっぽう)を守護(しゅご)する亀(かめ)と蛇(へび)の合体(がったい)した神(かみ)。高(たか)い丘(おか)を意味(いみ)し、家(いえ)を守(まも)り、健康(けんこう)と長寿(ちょうじゅ)をさずける。

 

4.「の」の字(じ)の都市(とし)、江戸(えど) 江戸(えど)時代(じだい)

「の」の字型の江戸慶長(けいちょう)3年(ねん)(1598)8月(がつ)に豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)が亡(な)くなるや、慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600)9月(がつ)には徳川(とくがわ)方(がた)(東軍(とうぐん))と豊臣(とよとみ)方(がた)(西軍(せいぐん))の間(あいだ)に、天下(てんか)分(わ)け目(め)といわれる関ヶ原(せきがはら)の戦(たたか)いがおこった。勝利(しょうり)をおさめた家康(いえやす)は、慶長(けいちょう)8年(ねん)(1603)2月(がつ)に征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)となり江戸(えど)に幕府(ばくふ)を開(ひら)いた。こうなると、江戸(えど)を日本(にっぽん)の中心(ちゅうしん)にふさわしい都市(とし)にしなければならない。そのためには「四神(ししん)相応(そうおう)」の考(かんが)えによる建設(けんせつ)計画(けいかく)をもう一度(いちど)見(み)なおす必要(ひつよう)がでてきた。
そこで生(う)まれたのが「の」の字(じ)型(がた)の都市(とし)拡張(かくちょう)計画(けいかく)だ。丘(おか)や川(かわ)など、自然(しぜん)の地形(ちけい)をうまく生(い)かして、うずまき状(じょう)の堀(ほり)をのばし、それに五街道(ごかいどう)を組(く)み合(あ)わせる、というアイディアだ。東海道(とうかいどう)、中山道(なかせんどう)、奥州(おうしゅう)道中(どうちゅう)、日光(にっこう)道中(どうちゅう)、甲州(こうしゅう)道中(どうちゅう)の五(いつ)つの街道(かいどう)を、江戸(えど)の中心(ちゅうしん)、日本橋(にほんばし)を出発点(しゅっぱつてん)として整備(せいび)し、脇(わき)街道(かいどう)につなげ、全国(ぜんこく)に江戸(えど)を中心(ちゅうしん)とした交通網(こうつうもう)をめぐらしたのも、この時期(じき)の家康(いえやす)の仕事(しごと)だ。おかげで江戸(えど)の町(まち)は品物(しなもの)の流通(りゅうつう)には便利(べんり)だし、無限(むげん)に広(ひろ)がることの可能(かのう)な都市(とし)になった。
のーの字っ 寛永(かんえい)12年(ねん)(1635)からは江戸城(えどじょう)の総構(そうがま)えの工事(こうじ)も大詰(おおづ)めの段階(だんかい)にはいる。
西北部(せいほくぶ)の外堀(そとぼり)が掘(ほ)られて、「の」の字(じ)の堀(ほり)は右(みぎ)うずまきに隅田川(すみだがわ)から江戸(えど)湊(みなと)へ通(つう)じた。そのつぎに、家光(いえみつ)は最後(さいご)の仕上(しあ)げとして、もう一度(いちど)本(ほん)丸(まる)に手(て)を入(い)れる。
寛永(かんえい)14年(ねん)(1637)正(しょう)月(がつ)から工事(こうじ)は始(はじ)まり、寛永(かんえい)17年(ねん)(1640)4月(がつ)に完了(かんりょう)。天正(てんしょう)18年(ねん)(1590)の家康(いえやす)関東(かんとう)入国(にゅうこく)から、孫(まご)の家光(いえみつ)まで、50年間(ねんかん)の月日(つきひ)をかけた道(みち)のりだった。
 

江戸(えど)城(じょう)の歴史(れきし) その2

5.天下普請(てんかふしん)

それまでは、自分だって天下人なんだもん(じぶん)の配下(はいか)の武将(ぶしょう)たちに城(しろ)の手(て)直(なお)しや、城下町(じょうかまち)づくりを命(めい)じていた家康(いえやす)だった。けれど、幕府(ばくふ)を開(ひら)いてからは全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)に命令(めいれい)を下(くだ)し、天下一(てんかいち)の城(しろ)づくりをめざした。世(よ)に「天下普請(てんかふしん)」と言(い)われる大工事(だいこうじ)だ。
まず初(はじ)めに慶長(けいちょう)8年(ねん)(1603)3月(がつ)、江戸(えど)湊(みなと)を整備(せいび)し、船(ふな)着(つ)き場(ば)をつくった。それから神田山(かんだやま)をきりくずし、その土(つち)で遠浅(とおあさ)の日比谷(ひびや)入江(いりえ)の埋(う)め立(た)てをした。
こうした町(まち)づくりとともに江戸城(えどじょう)の工事(こうじ)も、どんどん進(すす)められていった。
秀忠(ひでただ)が二(に)代(だい)将軍(しょうぐん)を継(つ)ぎ、家康(いえやす)が亡(な)くなった(元和(げんな)2年(ねん)・1616)あと、本(ほん)丸(まる)が元和(げんな)8年(ねん)(1622)に完成(かんせい)。もはや戦国(せんごく)向(む)きではない、平和(へいわ)な時代(じだい)の城(しろ)にできあがった。
元和(げんな)9年(ねん)(1633)7月(がつ)。秀忠(ひでただ)はその子(こ)、家光(いえみつ)に将軍(しょうぐん)職(しょく)をゆずって、西(にし)の丸(まる)に隠居(いんきょ)した。
三(さん)代(だい)将軍(しょうぐん)家光(いえみつ)は、寛永(かんえい)7年(ねん)(1630)に二(に)の丸(まる)に茶室(ちゃしつ)のある御殿(ごてん)と大庭園(だいていえん)を完成(かんせい)させた。小堀(こぼり)遠州(えんしゅう)(注釈)の設計(せっけい)による立派(りっぱ)な別荘(べっそう)だ。
はじめは雨もりなんかしてたのね (注釈)小堀(こぼり)遠州(えんしゅう) 江戸(えど)の初(はじ)めの茶人(ちゃじん)。千利休(せんのりきゅう)・古田織部(ふるたおりべ)とあわせ三(さん)大(だい)茶人(ちゃじん)といわれる。家康(いえやす)から家光(いえみつ)まで将軍(しょうぐん)三(さん)代(だい)に仕(つか)え、作事(さくじ)(工事(こうじ))奉行(ぶぎょう)として二条城(にじょうじょう)二(に)の丸(まる)、大阪城(おおさかじょう)本(ほん)丸(まる)などたくさんの建築(けんちく)や庭園(ていえん)をてがけた。

江戸城(えどじょう)とその城下町(じょうかまち)の建築(けんちく)の歴史(れきし)は、大(おお)きくつぎの4つの時期(じき)に分(わ)けられる。

 

1.第(だい)1次(じ)建設(けんせつ)期(き)

家康(いえやす)入国(にゅうこく)の天正(てんしょう)18年(ねん)(1590)から、慶長(けいちょう)7年(ねん)(1602)まで。
関東(かんとう)地方(ちほう)を支配(しはい)することになった家康(いえやす)の城下町(じょうかまち)づくり時代(じだい)。
 

2.第(だい)2次(じ)建設(けんせつ)期(き)

家康いえやすが征夷せいい大将軍たいしょうぐんとなった慶長けいちょう8年ねん(1603)から、亡なくなる元和げんな2年ねん(1616)まで。

家康(いえやす)と二(に)代(だい)将軍(しょうぐん)秀忠(ひでただ)による、幕府(ばくふ)・首都(しゅと)建設(けんせつ)の時代(じだい)。

3.第(だい)3次(じ)建設(けんせつ)期(き)

われながらガンバッター元和(げんな)3年(ねん)(1617)から、秀忠(ひでただ)が亡(な)くなる寛永(かんえい)9年(ねん)(1632)まで。秀忠(ひでただ)と三(さん)代(だい)将軍(しょうぐん)家光(いえみつ)による幕府(ばくふ)・首都(しゅと)建設(けんせつ)の時代(じだい)。

4.第(だい)4次(じ)建設(けんせつ)期(き)

寛永かんえい10年ねん(1633)から、家光いえみつの亡なくなる慶安けいあん4年ねん(1651)まで。
家光(いえみつ)による幕府(ばくふ)・首都(しゅと)建設(けんせつ)の時代(じだい)。

五街道による全国交通網
江戸周辺の五街道と脇街道

  1. 東海道(とうかいどう)(品川(しながわ)~京都(きょうと))
  2. 甲州(こうしゅう)道中(どうちゅう)(内藤(ないとう)新宿(しんじゅく)~大諏訪(おおすわ)で中山道(なかせんどう)と合流(ごうりゅう))
  3. 中山道(なかせんどう)(板橋(いたばし)~草津(くさつ)で東海道(とうかいどう)と合流(ごうりゅう))
  4. 日光(にっこう)道中(どうちゅう)(千住(せんじゅ)~日光(にっこう))
  5. 奥州(おうしゅう)道中(どうちゅう)(宇都宮(うつのみや)で日光(にっこう)道中(どうちゅう)と分(わ)かれ、白川(しらかわ)へ)
    家康(いえやす)はこれらの五街道(ごかいどう)と脇(わき)街道(かいどう)を組(く)み合(あ)わせ、江戸(えど)を中心(ちゅうしん)に全国(ぜんこく)をむすぶ交通網(こうつうもう)を整備(せいび)した。

 

6.明暦(めいれき)の大火(たいか)

明暦(めいれき)3年(ねん)(1657)は、正(しょう)月(がつ)の2日(ふつか)からひんぱんに火事(かじ)が起(お)きた。
正(しょう)月(がつ)18日(にち)にも、午後(ごご)2時(じ)ごろ、本郷(ほんごう)丸山(まるやま)本妙寺(ほんみょうじ)から火(ひ)の手(て)があがった。おりから、この日(ひ)は風(かぜ)が強(つよ)く、たちまち広(ひろ)がった炎(ほのお)が、日本橋(にほんばし)から佃島(つくだじま)、隅田川(すみだがわ)を越(こ)えて深川(ふかがわ)にまでのび、下町(したまち)は焼(や)け野原(のはら)となった。
おびただしい死者(ししゃ)をだして、よく19日(にち)の午前(ごぜん)2時(じ)すぎ、ようやく火事(かじ)はおさまった。
と思(おも)ったら、その日(ひ)の午前(ごぜん)10時(じ)ごろ、再(ふたた)び小石川(こいしかわ)伝通院(でんつういん)表門下(おもてもんした)の与力(よりき)屋敷(やしき)から火(ひ)の手(て)があがった。昨日(きのう)につづき風(かぜ)は強(つよ)く、あおられた炎(ほのお)は近(ちか)くの水戸家(みとけ)下屋敷(しもやしき)に移(うつ)った。さらに竹橋門(たけばしもん)、牛込門(うしごめもん)、田安門(たやすもん)の外堀(そとぼり)を越(こ)え、とうとう火(ひ)の手(て)は江戸城(えどじょう)本(ほん)丸(まる)へと迫(せま)った。
50年のどりょくがたった2日でパーですよ 耐火(たいか)建築(けんちく)の大天守(だいてんしゅ)は燃(も)えない造(つく)りになっていた。ところが、その時(とき)おこった竜巻(たつまき)が窓(まど)を開(あ)けてしまい、そこから火(ひ)がはいりこんでしまったから、どうしようもない。
しかも、近(ちか)くの弾薬庫(だんやくこ)が大爆発(だいばくはつ)。本(ほん)丸(まる)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)、とつぎつぎに焼(や)けおち、時(とき)の将軍(しょうぐん)家綱(いえつな)はやっとのことで西(にし)の丸(まる)に避難(ひなん)するありさまだった。
夕方(ゆうがた)になると、さらに麹町(こうじまち)の町人地(ちょうにんち)から火事(かじ)が起(お)きた。火(ひ)は南(みなみ)へ走(はし)り、桜田(さくらだ)一帯(いったい)の大名(だいみょう)屋敷(やしき)を焼(や)き、外堀(そとぼり)に沿(そ)って南(みなみ)へ下(くだ)る。日比谷(ひびや)を焼(や)き、芝(しば)を焼(や)き、海岸(かいがん)に出(で)て、ようやくおさまった。
将軍(しょうぐん)三(さん)代(だい)、50年(ねん)の歳月(さいげつ)をかけた江戸城(えどじょう)と城下町(じょうかまち)はたった2日間(ふつかかん)で焼(や)け野原(のはら)となり、あとには5万(まん)人(にん)とも10万(まん)人(にん)ともいわれる焼死者(しょうししゃ)が出(で)た。
 

お江戸(えど)の範囲(はんい)-朱引図(しゅびきず)-

江戸の範囲

限かぎりなく広ひろがってゆく都市とし・江戸えど。その境界線きょうかいせんをはっきりさせるため文政ぶんせい元がん年ねん(1818)、幕府ばくふは地図ちずに朱色しゅいろの線せんをひいた。この線せんの中なかが江戸えどなんだ。

東(ひがし)は砂村(すなむら)・亀戸(かめいど)・木下川(きげがわ)・須田村(すだむら)まで
南(みなみ)は上大崎村(かみおおさきむら)・南(みなみ)品川(しながわ)宿(しゅく)まで
西(にし)は代々木(よよぎ)・角筈(つのはず)・戸塚(とつか)・上落合村(かみおちあいむら)まで
北(きた)は千住(せんじゅ)・尾久村(おぐむら)・滝野川(たきのがわ)・板橋(いたばし)まで

 

 

 

 

 

 

 

7.よみがえる江戸城(えどじょう)

ねばーぎぶあっぷ 明暦(めいれき)の大火(たいか)によって、幕府(ばくふ)は防火(ぼうか)を考(かんが)えた城(しろ)づくり、町(まち)づくりを目指(めざ)すことになった。
この大(おお)火事(かじ)は、水堀(みずぼり)ひとつでは、城下(じょうか)からおこった火(ひ)から江戸城(えどじょう)を守(まも)ることができないと教(おし)えてくれた。そこで、お城(しろ)の敷地内(しきちない)に「火(ひ)除(よ)け地(ち)」という防火(ぼうか)用(よう)の空(あ)き地(ち)を設(もう)けることにした。関東(かんとう)では北西(ほくせい)からの季節風(きせつふう)が強(つよ)いから、本(ほん)丸(まる)のその方向(ほうこう)にあった尾張(おわり)、紀伊(きい)、水戸(みと)の御三家(ごさんけ)の屋敷(やしき)を郭(くるわ)の外(そと)に引(ひ)っ越(こ)しさせた。その跡(あと)の空(あ)き地(ち)は将軍(しょうぐん)の馬場(ばば)や薬草園(やくそうえん)に使(つか)われ、「吹上(ふきあげ)の御庭(おにわ)」と呼(よ)ばれるようになった。
その年(とし)3月(がつ)15日(にち)には、江戸城(えどじょう)を建(た)て直(なお)す工事(こうじ)が開始(かいし)された。万治(まんじ)2年(ねん)(1659)、本(ほん)丸(まる)御殿(ごてん)が再建(さいけん)。ただし、焼(や)けおちてしまった大天守(だいてんしゅ)がもう一度(いちど)そびえることはなかった。将軍(しょうぐん)の叔父(おじ)で補佐役(ほさやく)の保科(ほしな)正之(まさゆき)の「平和(へいわ)な時(じ)代(だい)に天守(てんしゅ)はいらない。そのための莫大(ばくだい)な費用(ひよう)を節約(せつやく)する方(ほう)がいい」という意見(いけん)によるものだ。
明暦(めいれき)の大火(たいか)は、江戸(えど)城郭(じょうかく)の中(なか)から、御三家(ごさんけ)や大名(だいみょう)屋敷(やしき)を押(お)し出(だ)すことになり、江戸(えど)を広(ひろ)げ「大江戸(おおえど)」にするきっかけとなった。
そして江戸城(えどじょう)は完(かん)ぺきに戦国(せんごく)の城(しろ)の機能(きのう)を捨(す)て去(さ)り、政府(せいふ)としての役割(やくわり)が中心(ちゅうしん)になった。
この状態(じょうたい)は明治(めいじ)維新(いしん)まで変(か)わることがなかった。

明暦(めいれき)大火(たいか)以後(いご)の江戸城(えどじょう)および城下町(じょうかまち)の防火(ぼうか)対策(たいさく)のまとめ

  1. 権力(けんりょく)のシンボル、5層(そう)の大天守(だいてんしゅ)は再建(さいけん)しない。
    また、これより、本(ほん)丸(まる)、二(に)の丸(まる)、三(さん)の丸(まる)の御殿(ごてん)も豪華(ごうか)にすることはひかえ、政府(せいふ)としての働(はたら)きの方(ほう)を重(おも)んじる。
  2. 御三家(ごさんけ)を内郭(ないかく)から引(ひ)っ越(こ)しさせる。
    その跡(あと)地(ち)である江戸城(えどじょう)の西北(せいほく)に火(ひ)除(よ)け地(ち)をつくる。(宝永(ほうえい)4年(ねん)(1707)より、ここは「吹上(ふきあげ)の御庭(おにわ)」となる。)
  3. 大名(だいみょう)屋敷(やしき)を内郭(ないかく)から引(ひ)っ越(こ)しさせる。
    龍ノ口(たつのくち)、竹橋内(たけばしない)、雉子(きじ)橋内(ばしない)、代官町(だいかんちょう)内(ない)にあった大名(だいみょう)たちの屋敷(やしき)替(が)えをして、その跡(あと)地(ち)を幕府(ばくふ)の公用(こうよう)とする。
  4. お寺(てら)や神社(じんじゃ)も内郭(ないかく)から引(ひ)っ越(こ)しさせる。
  5. 外郭(がいかく)のうちにも新(あら)たに火(ひ)除(よ)け地(ち)をつくる。町人(ちょうにん)用(よう)の防火(ぼうか)地帯(ちたい)だ。
  6. 新(あたら)しい市街地(しがいち)をつくる。
    小石川(こいしかわ)小日向(こひなた)の湿地(しっち)や赤坂(あかさか)ため池(いけ)の一部(いちぶ)を埋(う)め立(た)て、町(まち)づくりをする。
    (京橋(きょうばし)木挽町(こびきちょう)東(ひがし)側(がわ)の海(うみ)を埋(う)め立(た)てて、できたのが今(いま)の「築地(つきぢ)」。)
  7. 隅田川(すみだがわ)に新(あたら)しく橋(はし)を設(もう)ける。
    大火(たいか)の際(さい)、ここまで逃(に)げて来(き)て、川(かわ)を越(こ)えられず焼(や)け死(し)んだ人(ひと)が多(おお)かったのだ。万治(まんじ)2年(ねん)(1659)に橋(はし)は完成(かんせい)。武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)を結ぶので「両国橋(りょうごくばし)」と名付(なづ)けられた。

江戸城(えどじょう)のおもかげ

(『日本(にっぽん)城郭(じょうかく)古写真(こしゃしん)集成(しゅうせい)』より)

坂下門と二の丸、巽三重櫓の写真
坂下門(さかしたもん)(右手下(みぎてした))と二(に)の丸(まる)巽(たつみ)三重(さんじゅう)櫓(ろ)(明治(めいじ)初(しょ)年(ねん))

虎之門の写真
虎之門(とらのもん) 溜池(ためいけ)からの水(みず)が小(ちい)さな滝(たき)になっている。(明治(めいじ)4年(ねん))

四谷門の写真
四谷門(よつやもん) 今(いま)の四谷駅(よつやえき)のあたり(明治(めいじ)初(しょ)年(ねん))

見どころおおいよね-

参考(さんこう)にした本(ほん)

「東京(とうきょう)百科(ひゃっか)事典(じてん)」
「江戸(えど)東京(とうきょう)町(まち)づくり物語(ものがたり)」
「江戸(えど)学(がく)事典(じてん)」
「日本(にっぽん)歴史(れきし)大辞典(だいじてん)」
「江戸(えど)と江戸城(えどじょう)」
「江戸城(えどじょう)物語(ものがたり)」
「江戸(えど)東京(とうきょう)学(がく)事典(じてん)」
「江戸(えど)の町(まち)」(上(じょう))(下(げ))
「日本(にっぽん)城郭(じょうかく)の古写真集(こしゃしんしゅう)」
「東京(とうきょう)-講談社版(こうだんしゃばん)日本(にっぽん)の文化(ぶんか)地理(ちり)」
「平凡社大(へいぼんしゃだい)百科(ひゃっか)事典(じてん)」その他(ほか)いろいろ

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掲載日 令和7年8月1日