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11. 武蔵(むさし)武士(ぶし)

武蔵(むさし)武士(ぶし)のたんじょう!

武蔵武士のたんじょう!
  むかし、むかし、そのむかし、平安(へいあん)時代(じだい)とよばれた頃(ころ)、武蔵国(むさしのくに)は京(きょう)の都(みやこ)から見(み)れば、遠(とお)い遠(とお)い東国(とうごく)のさいはての地(ち)だった。ここには、都(みやこ)の貴族(きぞく)や寺社(じしゃ)の荘園(しょうえん)、朝廷(ちょうてい)の牧場(まきば)などが置(お)かれていた。そして朝廷(ちょうてい)からは国司(こくし)(地方(ちほう)長官(ちょうかん))という役人(やくにん)が派(は)けんされていた。
  今(いま)の府中(ふちゅう)は、武蔵国府(むさしこくふ)といって、当時(とうじ)の役所(やくしょ)があったところだ。
  国司(こくし)の任期(にんき)は、もとは4年(ねん)または6年(ねん)と限(かぎ)られていたが年数(ねんすう)がきても都(みやこ)に帰(かえ)らずいついてしまう者(もの)が多(おお)かった。国司(こくし)でいた間(あいだ)に開(かい)こんした土地(とち)を手(て)ばなしていくのは惜(お)しかったし、第一(だいいち)、地方(ちほう)では都(みやこ)からの貴人(きじん)・役人(やくにん)としてあがめられる国司(こくし)たちも、都(みやこ)に帰(かえ)れば下級(かきゅう)貴族(きぞく)にすぎなかった。
  ところで当時(とうじ)の東国(とうごく)はそうとう治安(ちあん)が悪(わる)かった。
  盗賊(とうぞく)たちが歩(ある)きまわるは、東北(とうほく)地方(ちほう)には朝廷(ちょうてい)に従(したが)わない蝦夷(えぞ)とよばれる豪族(ごうぞく)たちはいるは……。
きつねの絵   延喜(えんぎ)9(919)年(ねん)には、前(まえ)の国府(こくふ)の役人(やくにん)、源任(みなもとのまこと)が武蔵国府(むさしこくふ)を襲(おそ)うし、承平(じょうへい)5(935)年(ねん)には平将門(たいらのまさかど)の乱(らん)もおきている。
  やむをえず、朝廷(ちょうてい)では、地方(ちほう)に居(い)ついた国司(こくし)や郡司(ぐんし)らに警察力(けいさつりょく)を与(あた)えることになった。
  こうして、土地(とち)を持(も)ち、戦(たたか)う力(ちから)を強(つよ)めていった者(もの)が、武士(ぶし)とよばれるようになり、武蔵国(むさしのくに)のあちこちをねじろにした武蔵(むさし)武士(ぶし)があらわれる。
  この武士(ぶし)たちが鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)をつくりあげ、武士(ぶし)中心(ちゅうしん)の時代(じだい)がやって来(く)る。
  天正(てんしょう)18(1590)年(ねん)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に、小田原(おだわら)北条(ほうじょう)とともに滅(ほろ)ぼされるまで、関東平野(かんとうへいや)は戦乱(せんらん)に明(あ)け暮(く)れ、武蔵(むさし)武士(ぶし)たちがかけめぐっていたのだ!

 

 

武蔵国の郡
武蔵国(むさしのくに)は、いまの東京都(とうきょうと)・埼玉県(さいたまけん)のほとんどと神奈川県(かながわけん)川崎市(かわさきし)・横浜市(よこはまし)のほとんどをふくむ地域(ちいき)でその中(なか)は21の郡(ぐん)にわかれていた。今(いま)の多摩(たま)地区(ちく)はもちろん多摩(たま)郡(ぐん)にふくまれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年表(ねんぴょう)

年表
世紀 時代 年 ことがら
7世紀(せいき) 飛鳥(あすか) 大化(たいか)元(がん)年(ねん)(645)ごろ
  • 武蔵国(むさしのくに)が成立(せいりつ)。国府(こくふ)が多摩(たま)郡(ぐん)に置(お)かれる。
奈良
9世紀(せいき) 平安(へいあん) 貞観(じょうかん)3(861)年
  • 11月  群盗(ぐんとう)(つまり、ぬすっとの群(む)れ)のため、武蔵国(むさしのくに)は郡(ぐん)ごとに検非違使(けびいし)を置(お)く。
10世紀(せいき) 延喜(えんぎ)9(919)年
  • 武蔵国(むさしのくに)の前権介源任が盗賊(とうぞく)の頭(かしら)となって、武蔵国府(むさしこくふ)をおそう。
承平(じょうへい)5(935)年
  • 2月  平将門(たいらのまさかど)の乱(らん)  おこる。
      武蔵(むさし)も一時(いちじ)将門(まさかど)の支配下(しはいか)にはいった。
天慶(てんぎょう)3(940)年
  • 2月  平将門(たいらのまさかど)、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・平貞盛(たいらのさだもり)らに敗(やぶ)れる。
  • このころより勅旨田(ちょくしでん)や勅旨(ちょくし)牧(まき)(天皇(てんのう)の命令(めいれい)で開(かい)こんされた私有地(しゆうち)や牧場(まきば))が武蔵国(むさしのくに)の各地(かくち)に置(お)かれはじめる。
11世紀(せいき) 長元(ちょうげん)元年(1028)年
  • 6月  平忠常(たいらのただつね)の乱(らん)  おこる。
      乱(らん)は3年間(ねんかん)におよび関東(かんとう)諸国(しょこく)はあれはてる。
永承(えいしょう)6(1051)年
  • この年(とし)、前九年(ぜんくねん)の役(えき)  おこる。
永保(えいほ)3(1083)年
  • この年(とし)、後三年(ごさんねん)の役(えき)  おこる。
  • この世紀(せいき)中(ちゅう)、さかんな土地(とち)の開発(かいはつ)から、秩父氏(ちちぶし)、江戸氏(えどし)などの平家(へいけ)諸流(しょりゅう)や武蔵(むさし)七党(しちとう)など多(おお)くの武士団(ぶしだん)がたん生(じょう)する。
12世紀(せいき) 保元(ほうげん)元年(1156)年
  • 7月  保元(ほうげん)の乱(らん)  おこる。
平治(へいじ)元年(1159)年
  • 12月  平治(へいじ)の乱(らん)  おこる。
永暦(えいりゃく)元年(1160)年
  • 1月  源義朝(みなもとのよしとも)  殺(ころ)され、
  • 3月  源頼朝(みなもとのよりとも)  伊豆(いず)に流(なが)される。
治承(じしょう)4(1180)年
  • 8月  源頼朝(みなもとのよりとも)  伊豆(いず)で挙兵(きょへい)。
    源平(げんぺい)合戦(がっせん)では武蔵(むさし)武士(ぶし)が活(かつ)やくする。
文治(ぶんじ)元年(1185)年
  • 3月  平氏(へいし)滅亡(めつぼう)。
鎌倉(かまくら) 建久(けんきゅう)3(1192)年
  • 7月  源頼朝(みなもとのよりとも)  征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)となる。
≪鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)  成立(せいりつ)≫
14世紀(せいき) 元弘(げんこう)元年(1331)年
  • 9月  楠正成(くすのきまさしげ)ら挙兵(きょへい)。
元弘2
正慶元年(1332)年
  • 3月  幕府(ばくふ)、後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)を隠岐(おき)に流(なが)す。
元弘3
正慶2(1333)年
  • 5月  新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉(かまくら)攻(ぜ)め。
≪鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)  滅亡(めつぼう)≫
ここでも武蔵(むさし)武士(ぶし)が活(かつ)やくする。
南北朝(なんぼくちょう) 建武(けんむ)2(1335)年
  • 7月  中先代(なかせんだい)の乱(らん)
    • 8月  足利尊氏(あしかがたかうじ)、征東将軍(せいとうしょうぐん)となる。
延元(えんげん)元年(1336)年
  • 11月  室町(むろまち)幕府(ばくふ)  成立(せいりつ)。
延元(えんげん)3(1338)年
  • 8月  足利尊氏(あしかがたかうじ)、征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)となる。
足利尊氏

武蔵(むさし)七党(しちとう)

武蔵国(むさしのくに)の武士団(ぶしだん)は血縁(けつえん)(血(ち)のつながり)で結(むす)ばれた集(あつ)まりだ。
中(なか)でも武蔵(むさし)七党(しちとう)というのが有名(ゆうめい)だ。7つの党(とう)の数(かぞ)え方(かた)はきちんと決(きま)っていないけれど、主(おも)なものはつぎのとおりだ。

野与党(のいよとう)  

平忠常(たいらのただつね)の次男(じなん)胤宗(たねむね)の子(こ)、基宗(もとむね)がおこす。

基宗(もとむね)は野与(のいよ)の荘官(しょうかん)だった。
南北(なんぼく)埼玉(さいたま)郡(ぐん)に勢力(せいりょく)をもつ。

西党(にしとう)  

日奉連(ひまつりのむらじ)宗頼(むねより)が武蔵守(むさしのかみ)となって、その一族(いちぞく)は武蔵国府(むさしこくふ)から西(にし)を中心(ちゅうしん)に発展(はってん)。そのため西党(にしとう)とよばれるようになる。

小川(おがわ)・由比(ゆい)の牧(まき)を支配(しはい)していたともいわれ、一族(いちぞく)には平山(ひらやま)氏(し)、小川(おがわ)氏(し)、立川(たちかわ)氏(し)、由井(ゆい)氏(し)、二宮(にのみや)氏(し)、川口(かわぐち)氏(し)などがある。

私市党(きさいとう)  

私市(きさい)家盛が武蔵守(むさしのかみ)になってやって来(き)てはじまったといわれる。

「私市(きさい)」は皇后(きさいのみや)領地(りょうち)(天皇(てんのう)のおきさきの領地(りょうち))を治(おさ)める仕事(しごと)をする人(ひと)で、皇后の牧(まき)の管理(かんり)もしていた。北埼玉(きたさいたま)郡(ぐん)から大里(おおさと)郡(ぐん)中心(ちゅうしん)。
一族(いちぞく)には久下(くげ)氏(し)、成木(なりき)氏(し)などがある。

児玉党(こだまとう)  

藤原(ふじわら)氏(し)の一門(いちもん)。藤原道隆(ふじわらのみちたか)の孫(まご)の子(こ)、維能(これよし)が武蔵介(むさしのすけ)となって児玉(こだま)郡(ぐん)を開(かい)たくしたのがはじまり。

一族(いちぞく)には児玉(こだま)氏(し)、越生(おごせ)氏(し)など。

横山党(よこやまとう)  

小野篁(おののたかむら)の7代目(だいめ)の子孫(しそん)といわれる小野(おのの)孝泰(たかやす)が武蔵守(むさしのかみ)となってやって来(き)て、多摩(たま)の横山(よこやま)(今(いま)の八王子(はちおうじ))を中心(ちゅうしん)に開(かい)たく。

武蔵(むさし)七党(しちとう)中(ちゅう)最大(さいだい)の規模(きぼ)を誇(ほこ)る。一族(いちぞく)に横山氏(よこやまし)、椚田(くぬぎだ)氏(し)、由木(ゆぎ)氏、藍原(あいはら)氏(し)などがある。ちなみに、小野篁(おののたかむら)は平安(へいあん)初期(しょき)の有名(ゆうめい)な学者(がくしゃ)で、参議(さんぎ)だ。
【参議とは】奈良時代にできた役職。朝廷での会議に参加できる人だ。

丹党(たんとう)  

宣化(せんか)天皇(てんのう)より出(で)た多治比古(たじひこ)王(おう)の子(こ)、広足(ひろたり)が丹治(たんじ)の姓(せい)をもらい、武蔵守(むさしのかみ)となってやって来(き)たのがはじまり。秩父(ちちぶ)・児玉(こだま)の両(りょう)郡(ぐん)が中心(ちゅうしん)で秩父(ちちぶ)郡(ぐん)の石田(いしだ)の牧(まき)を管理(かんり)していたらしい。

 

村山党(むらやまとう)  

平忠常(たいらのただつね)の子孫(しそん)で、野与(のいよ)基永(もとなが)の弟(おとうと)、村山貫主(むらやまかんじゅ)頼任(よりとう)がそのはじまり。

狭山さやま丘陵きゅうりょう中心ちゅうしんに活かつやく。一族いちぞくには、金子かねこ氏し、狭山さやま氏し、山口やまぐち氏し、久米くめ氏し、難波田なにわだ氏しなどがある。

猪俣党(いのまたとう)  

横山党(よこやまとう)の一族(いちぞく)。小野(おのの)孝泰(たかやす)の子孫(しそん)時範(ときのり)が児玉(こだま)郡(ぐん)猪俣(いのまた)に館(やかた)をつくり、猪俣(いのまた)氏(し)となった。那珂(なか)郡(ぐん)が中心(ちゅうしん)。一族(いちぞく)には、猪俣(いのまた)氏(し)、荏原(えばら)氏(し)、人見(ひとみ)氏(し)、男衾(おぶすま)氏(し)、甘糟(あまかす)氏(し)、岡部(おかべ)氏(し)など。

『平家(へいけ)物語(ものがたり)』の中(なか)で薩摩守(さつまのかみ)平忠度(たいらのただのり)を討(う)ちとったといわれる岡部(おかべ)六弥太(ろくやた)忠澄(ただすみ)もこの一族(いちぞく)だ。

牧(まき)と武士(ぶし)

うまが寝ている絵 「牧(まき)」とはつまり、牧場(まきば)だよ。武蔵国(むさしのくに)には石川(いしかわ)牧(まき)(横浜市(よこはまし))、小川(おがわ)牧(まき)(秋川市(あきかわし))、由比(ゆい)牧(まき)(八王子市(はちおうじし))、立野(たちの)牧(まき)(横浜市(よこはまし))、秩父(ちちぶ)牧(まき)(秩父(ちちぶ)市(し))、小野(おの)牧(まき)(秩父(ちちぶ)郡(ぐん))などがあった。
(牧の位置は『荘園分布図』竹内理三編をもとにしました。)
牧(まき)では馬(うま)を育(そだ)てていたんだ。牧(まき)を土台(どだい)に発展(はってん)した武士団(ぶしだん)は多(おお)い。何(なに)しろこのころの戦(たたか)いは騎馬戦(きばせん)が中心(ちゅうしん)だから。馬(うま)を育(そだ)てる牧(まき)と武士団(ぶしだん)の関(かか)わりは深(ふか)いんだよ。

 

平氏(へいし)と源氏(げんじ)

桓武(かんむ)平氏(へいし)

桓武かんむ天皇てんのう(784年ねん即位そくい)のひまご(孫まごの子こ)の子こにあたる高望王たかもちおうが平たいらの姓せいをもらって上総介かずさのすけとなって東国とうごくに来きた。
その子孫(しそん)はそれぞれ関東(かんとう)の国々(くにぐに)の上級(じょうきゅう)の役人(やくにん)となり、土着(どちゃく)し、力(ちから)をたくわえていった。伊豆(いず)の北条(ほうじょう)、相模(さがみ)の土肥(どい)、三浦(みうら)、上総(かずさ)の上総(かずさ)、下(しも)総の千葉(ちば)、武蔵(むさし)の秩父氏(ちちぶし)らは「坂東(ばんどう)八平氏(へいし)」といわれ、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱(らん)から鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)ができるころにかけて大(おお)いに活(かつ)やくした。

秩父氏(ちちぶし)の一族(いちぞく)

秩父氏(ちちぶし)は平良文(たいらのよしふみ)(高望王(たかもちおう)の五男(ごなん))の孫(まご)将常(まさつね)からはじまる名門(めいもん)だ。一族(いちぞく)には畠山(はたけやま)氏(し)、河越(かわごえ)氏(し)、江戸氏(えどし)などがある。
南(みなみ)多摩(たま)郡(ぐん)を本拠(ほんきょ)にしていた小山田(おやまだ)氏(し)も、そのはじまりは畠山(はたけやま)重能(しげよし)(鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)初(はじ)めごろの重臣(じゅうしん)畠山(はたけやま)重忠(しげただ)の父(ちち))の弟(おとうと)、有重(ありしげ)だ。
また、有重(ありしげ)の子(こ)、稲毛(いなげ)三郎(さぶろう)重成(しげなり)は橘樹(たちばな)郡(ぐん)に勢力(せいりょく)をもった。

清和(せいわ)源氏(げんじ)

清和(せいわ)天皇(てんのう)(858年(ねん)即位(そくい))の孫(まご)が源(みなもと)の姓(せい)をもらい、天慶(てんぎょう)年間(ねんかん)(938~941?年)武蔵介(むさしのすけ)となって武蔵国(むさしのくに)に来(き)た。
源氏(げんじ)の名(な)をあげたのは源頼信(みなもとのよりのぶ)(この人(ひと)は平忠常(たいらのただつね)の乱(らん)をしずめている)の子(こ)、頼義(よりよし)とその子(こ)義家(よしいえ)だ。
2人(ふたり)は奥州(おうしゅう)の安倍頼時(あべのよりとき)父子(ふし)の乱(らん)をおさめ、また、義家(よしいえ)は後三年(ごさんねん)の役(えき)でも活(かつ)やく。
関東(かんとう)の武士(ぶし)たちは、義家(よしいえ)をうやまい、慕(した)った。
鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)をひらいた源頼朝(みなもとのよりとも)はこの義家(よしいえ)のひまごだ。

鎌倉(かまくら)街道(かいどう)

鎌倉街道は歴史と伝統にみちたロマン街道じゃな幕府(ばくふ)のある鎌倉(かまくら)へむかういく筋(すじ)かの道(みち)を鎌倉(かまくら)街道(かいどう)とか、鎌倉(かまくら)往還(おうかん)とよぶ。関東(かんとう)の武士(ぶし)たちと幕府(ばくふ)を結(むす)びつける道(みち)であったし、戦(いく)さがおこって「いざ鎌倉(かまくら)!」という時(とき)は、軍事用(ぐんじよう)の路線(ろせん)にもなった。そのうち、主(おも)な道(みち)は

 

上(かみ)の道(みち)

分倍河原駅南口には新田義貞の像がある鎌倉(かまくら)小山田(おやまだ)(町田市(まちだし))関戸(せきど)(多摩(たま)市(し))分倍河原(ぶばいがわら)(府中市(ふちゅうし))恋ヶ窪(こいがくぼ)(国分寺市(こくぶんじし))久米川(くめがわ)(東村山市(ひがしむらやまし))をとおる。
小平(こだいら)を通(とお)っているのは、このルートなのだ!
 

下(しも)の道(みち)

鎌倉かまくら鶴見つるみ(横浜市よこはまし)下総しもうさ・上総かずさ(千葉県ちばけん)へむかう。

中(なか)の道(みち)

上かみの道みちと下しもの道みちのまん中なかあたりを通とおり、府中ふちゅうで上かみの道みちと合流ごうりゅうする。

おもな武士団のねじろ

中世(ちゅうせい)のこんな出来事(できごと)、あんな人(ひと)

にあうー?

武蔵国府(むさしこくふ)と国司(こくし)・郡司(ぐんし)

  9世紀(せいき)以降(いこう)、朝廷(ちょうてい)は全国(ぜんこく)を66の国(くに)と2つの島(しま)にわけた。そして、そのそれぞれに守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の階級(かいきゅう)の役人(やくにん)らを中央(ちゅうおう)から派(は)けんして政治(せいじ)を行(おこな)わせたり、警察(けいさつ)や裁判所(さいばんしょ)の役目(やくめ)させたりした。これを国司(こくし)という。
  国司(こくし)が仕事(しごと)する役所(やくしょ)を国衙(こくが)といい、その所在地(しょざいち)を国府(こくふ)といった。武蔵(むさし)の国府(こくふ)は今(いま)の府中(ふちゅう)だ。
  国司(こくし)の下(した)には郡(ぐん)内(ない)の政務(せいむ)を行(おこな)う役人(やくにん)、郡司(ぐんし)がいた。国司(こくし)が4年(ねん)または6年(ねん)の任期(にんき)があるのに対(たい)し、郡司(ぐんし)は任期(にんき)なし。しかも代々(だいだい)子孫(しそん)に伝(つた)えられるかたちで地方(ちほう)豪族(ごうぞく)が任命(にんめい)されることが多(おお)かった。

検非違使(けびいし)

  もともとは京都(きょうと)の安全(あんぜん)を守(まも)る仕事(しごと)をする役人(やくにん)だった。のちに地方(ちほう)の国々(くにぐに)にも置(お)かれるようになる。
  野盗(やとう)が集(あつ)まって乱暴(らんぼう)を働(はたら)くので、武蔵国(むさしのくに)も郡(ぐん)ごとに検非違使(けびいし)が置(お)かれた。
  が、武士(ぶし)が成長(せいちょう)してくると、形(かたち)だけのものになってしまう。

平将門(たいらのまさかど)の乱(らん)(935年)

  将門(まさかど)は桓武(かんむ)平氏(へいし)の出(で)。相続(そうぞく)問題(もんだい)で一族(いちぞく)が争(あらそ)うなか、叔父(おじ)の国香(くにか)を討(う)ち、さらに関東(かんとう)8か国(こく)を支配(しはい)して、自分(じぶん)を「新皇(しんのう)」(新(あたら)しい天皇(てんのう))と称(しょう)した。
  940年(ねん)、将門(まさかど)は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、平貞盛(たいらのさだもり)らに討(う)ちとられた。

平忠常(たいらのただつね)の乱(らん)(1028年)

  平将門(たいらのまさかど)の乱(らん)の後(のち)、東国(とうごく)では桓武(かんむ)平氏(へいし)が勢力(せいりょく)を伸(の)ばした。中(なか)でも平忠常(たいらのただつね)は、上総(かずさ)・下総(しもうさ)(今(いま)の千葉県(ちばけん))あたりを足(あし)がかりにして力(ちから)をつけ、朝廷(ちょうてい)に納(おさ)める物(もの)を押(おさ)えてしまった。
  朝廷(ちょうてい)はなかなかこの反乱(はんらん)をしずめることができなかった。乱(らん)より3年後(ねんご)、甲斐守(かいのかみ)源頼信(みなもとのよりのぶ)が討手(うって)に命(めい)じられると忠常(ただつね)は降伏(こうふく)。
  この乱(らん)の後(のち)、東国(とうごく)では清和(せいわ)源氏(げんじ)が勢力(せいりょく)を持(も)つようになる。

武蔵(むさし)の戦(いく)さ上手(じょうず)

  まず将門(まさかど)を討(う)った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)。鎌倉(かまくら)時代(じだい)には熊谷(くまがい)次郎(じろう)直実(なおざね)・斎藤(さいとう)別当(べっとう)実盛(さねもり)・畠山(はたけやま)重忠(しげただ)・金子(かねこ)十郎(じゅうろう)・平山(ひらやま)武者所(むしゃどころ)季重(すえしげ)ら『平家(へいけ)物語(ものがたり)』などに登場(とうじょう)する有名人(ゆうめいじん)がいる。室町(むろまち)時代(じだい)には新田義貞(にったよしさだ)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・長尾(ながお)景春(かげはる)・太田道真(おおたみちざね)とその子(こ)道灌(どうかん)が活(かつ)やくした。

前九年(ぜんくねん)の役(えき)(1051年)・後三年(ごさんねん)の役(えき)(1083年)

  陸奥(むつ)(今(いま)の東北(とうほく)の東部(とうぶ)のちいき)の安倍(あべ)氏(し)は朝廷(ちょうてい)にそむいて半(なか)ば独立(どくりつ)した国家(こっか)をその地(ち)に築(きず)いてしまった。
  これが前九年(ぜんくねん)の役(えき)のはじまりで、源頼義(みなもとのよりよし)(平忠常(たいらのただつね)の乱(らん)を治(おさ)めた源頼信(みなもとのよりのぶ)の子(こ))が陸奥守(むつのかみ)となり、これを平定(へいてい)。戦(たたか)いは12年間(ねんかん)にもおよんだ。
  一方(いっぽう)、後三年(ごさんねん)の役(えき)は、奥羽(おうう)(東北(とうほく)地方(ちほう))の豪族(ごうぞく)清原(きよはら)氏(し)のおこした一族(いちぞく)の間(あいだ)の紛争(ふんそう)。こちらは源頼義(みなもとのよりよし)の長男(ちょうなん)で八幡(はちまん)太郎(たろう)といわれた源義家(みなもとのよしいえ)が平定(へいてい)した。

保元(ほうげん)の乱(らん)(1156年)

  皇室(こうしつ)の皇位(こうい)継承(けいしょう)問題(もんだい)(誰(だれ)が天皇(てんのう)になるか)と藤原(ふじわら)氏(し)一族(いちぞく)の間(あいだ)の権力(けんりょく)争(あらそ)いが結(むす)びついておきた乱(らん)。
  崇徳上皇(すとくじょうこう)と藤原頼長(ふじわらのよりながが挙兵(きょへい)したのに対(たい)し、後白河(ごしらかわ)天皇(てんのう)(崇徳上皇(すとくじょうこう)の弟(おとうと))と関白(かんぱく)藤原忠通(ふじわらのただみち)が源義朝(みなもとのよしとも)・平清盛(たいらのきよもり)らを味方(みかた)にむかえ討(う)った。
  戦(たたか)いは一日(いちにち)でおわり、敗(やぶ)れた崇徳上皇(すとくじょうこう)は讃岐国(さぬきのくに)へ流(なが)されてしまった。

平治(へいじ)の乱(らん)(1159年)

  保元(ほうげん)の乱(らん)で活(かつ)やくした平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)に対(たい)する朝廷(ちょうてい)の扱(あつか)いやほうびにはかなり差(さ)があった。清盛(きよもり)の方(ほう)がまさって、義朝(よしとも)を圧倒(あっとう)するようになった。
  義朝(よしとも)は清盛(きよもり)の留守(るす)をねらって挙兵(きょへい)したが、急(いそ)ぎ帰(かえ)った清盛(きよもり)軍(ぐん)に敗(やぶ)れ、殺(ころ)されてしまう。
  義朝(よしとも)の子(こ)、13歳(さい)の頼朝(よりとも)は伊豆(いず)に流(なが)された。
  成人(せいじん)した頼朝(よりとも)は1180年(ねん)、伊豆(いず)で挙兵(きょへい)。平氏(へいし)を滅(ほろ)ぼし、1192年(ねん)征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)となって、鎌倉(かまくら)に日本初(にっぽんはつ)の武家(ぶけ)政権(せいけん)をつくりあげた。

御家人(ごけにん)とは…

  家人(けにん)というのはもともとは貴族(きぞく)や武士(ぶし)の家来(けらい)のことだ。
  鎌倉(かまくら)時代(じだい)には源頼朝(みなもとのよりとも)に見参(けんざん)の礼(れい)をした(直接(ちょくせつ)お目(め)にかかって、その家来(けらい)となった)武士(ぶし)のことを、頼朝(よりとも)に敬意(けいい)をあらわして御家人(ごけにん)とよんだ。「御」というのは敬(うやま)う気(き)持(も)ちをあらわす言葉(ことば)だからね。

鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の滅亡(めつぼう)まで

  源頼朝(みなもとのよりとも)のひらいた鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)も、源氏(げんじ)の血(ち)は三代(さんだい)将軍実朝(しょうぐんさねとも)で絶(た)えた。それより後(あと)は、頼朝(よりとも)の妻(つま)、政子(まさこ)の一族(いちぞく)である北条氏(ほうじょうし)が執権(しっけん)として政治(せいじ)を行(おこな)うようになった。
  しかし、鎌倉(かまくら)時代(じだい)も末(すえ)になると貴族(きぞく)や武士(ぶし)の間(あいだ)から、幕府(ばくふ)に対(たい)する不満(ふまん)が高(たか)まってきた。

新田義貞(にったよしさだ)と鎌倉(かまくら)攻(ぜ)め(1333年)

  新田義貞(にったよしさだ)は上野国(こうずけのくに)の生(う)まれ。源氏(げんじ)の名門(めいもん)だったが北条氏(ほうじょうし)から長(なが)い間(あいだ)冷(つめ)たい扱(あつか)いをうけてきた。
  はじめは幕府(ばくふ)の命令(めいれい)で、楠正成(くすのきまさしげ)のこもる千早城(ちはやじょう)の攻撃(こうげき)に加(くわ)わっていたが、のち、後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)に味方(みかた)して挙兵(きょへい)した。1333年(ねん)5月(がつ)8日(ようか)のことだ。
5月11日には  小手指原(こてさしがはら)(今(いま)の所沢(ところざわ))で
5月12日には  久米川(くめがわ)(東村山市(ひがしむらやまし)と埼玉県(さいたまけん)の境(さかい))で幕府(ばくふ)軍(ぐん)と戦(たたか)い、連勝(れんしょう)。
5月15日には  分倍河原(ぶばいがわら)(今(いま)の府中(ふちゅう))で執権(しっけん)北条(ほうじょう)高時(たかとき)の弟(おとうと)、泰家(やすいえ)軍(ぐん)と戦(たたか)い、
よく5月16日の決戦(けっせん)で義貞(よしさだ)軍(ぐん)が勝(か)ち、幕府(ばくふ)軍(ぐん)は鎌倉(かまくら)に退(しりぞ)いた。
5月18日からは鎌倉(かまくら)総(そう)攻撃(こうげき)にはいり
5月22日  北条(ほうじょう)高時(たかとき)が自殺(じさつ)。鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)は滅亡(めつぼう)した。

中先代(なかせんだい)の乱(らん)(1335年)

  北条(ほうじょう)高時(たかとき)の子(こ)、時行(ときゆき)が鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の復活(ふっかつ)をはかっておこした反乱(はんらん)。
  1335年(ねん)7月(がつ)、武蔵(むさし)で足利(あしかが)直義(ただよし)(尊氏(たかうじ)の弟(おとうと))らを破(やぶ)り、鎌倉(かまくら)をおとした。が、8月(がつ)には東(ひがし)に下(くだ)ってきた尊氏(たかうじ)に敗(やぶ)れ、時行(ときゆき)は逃(に)げた。
  この乱(らん)の後(ご)、尊氏(たかうじ)は関東(かんとう)にとどまり、後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)の建武(けんむ)政権(せいけん)に対抗(たいこう)するようになった。
  時行(ときゆき)はその後(ご)、南朝(なんちょう)軍(ぐん)に加わり、1352年(ねん)には鎌倉(かまくら)に攻(せ)め入(い)ったが、捕(とら)えられ、殺(ころ)された。

後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)と楠正成(くすのきまさしげ)

  後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)は1321年(ねん)に即位(そくい)。幕府(ばくふ)を倒(たお)す計画(けいかく)をしたが、失敗(しっぱい)して、1332年(ねん)、隠岐(おき)に流(なが)された。それにもめげず、1333年(ねん)隠岐(おき)を脱出(だっしゅつ)。諸国(しょこく)に幕府(ばくふ)を倒(たお)すための挙兵(きょへい)を呼(よ)びかけた。
  楠正成(くすのきまさしげ)は河内国(かわちのくに)(今(いま)の大阪(おおさか))の豪族(ごうぞく)だが、出身(しゅっしん)は明(あき)らかではない。後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)の計画(けいかく)に加(くわ)わり、1331年(ねん)河内赤坂城(かわちあかさかじょう)に挙兵(きょへい)。よく年(とし)には千早城(ちはやじょう)に移(うつ)り、幕府(ばくふ)軍(ぐん)と戦(たたか)い、諸国(しょこく)に幕府(ばくふ)を倒(たお)す軍(ぐん)をおこすよううながした。

足利尊氏(あしかがたかうじ)

  新田氏(にったし)とならぶ源氏(げんじ)の名門(めいもん)。はじめは「高氏(たかうじ)」だったが、幕府(ばくふ)を倒(たお)した時(とき)のほうびに、後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)の名(な)尊治(たかはる)の一字(いちじ)を賜(たま)わり、「尊氏(たかうじ)」となる。
  1335年(ねん)、北条(ほうじょう)時行(ときゆき)の乱(らん)をしずめるため鎌倉(かまくら)へ下(くだ)り、次(つ)いで建武(けんむ)政権(せいけん)にそむき、京(きょう)の都(みやこ)に攻(せ)めのぼった。
  よく年(とし)、戦(たたか)いに破(やぶ)れ、九州(きゅうしゅう)におちのびたが、再(ふたた)び挙兵(きょへい)。楠正成(くすのきまさしげ)らを破(やぶ)り、京(きょう)の都(みやこ)にはいって、1336年(ねん)、光明(こうみょう)天皇(てんのう)をたて、室町(むろまち)幕府(ばくふ)をひらいた。1338年(ねん)には征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)となり、ここに再(ふたた)び源氏(げんじ)の血統(けっとう)による武家(ぶけ)政権(せいけん)ができあがった。
  後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)は吉野(よしの)にのがれて南朝(なんちょう)をひらき、北朝(ほくちょう)をたてた足利(あしかが)氏(し)の幕府(ばくふ)に対抗(たいこう)した。
  朝廷(ちょうてい)が再(ふたた)び統一(とういつ)されたのは1392年(ねん)のことだ。

武蔵野(むさしの)合戦(がっせん)

  足利尊氏(あしかがたかうじ)と新田義貞(にったよしさだ)の対立(たいりつ)は、1335年(ねん)、中先代(なかせんだい)の乱(らん)がおさまった後(あと)に早(はや)くも表面化(ひょうめんか)。関東(かんとう)の武士(ぶし)たちもふた手(て)に分(わ)かれた。この新田(にった)・足利(あしかが)の争(あらそ)いは、南北朝(なんぼくちょう)の対立(たいりつ)するきっかけの一(ひと)つともなった。
  新田義貞(にったよしさだ)は1338年(ねん)、藤島(ふじしま)(今(いま)の福井県(ふくいけん))で戦死(せんし)。その後(ご)は足利尊氏(あしかがたかうじ)方(がた)と新田(にった)義興(よしおき)(義貞(よしさだ)の子(こ))・義宗(よしむね)(義興(よしおき)の弟(おとうと))の争(あらそ)いとなり、1352年(ねん)うるう2月(がつ)に決戦(けっせん)をむかえた。
  小手指原(こてさしがはら)(埼玉県(さいたまけん))・人見原(ひとみはら)(府中市(ふちゅうし))・金井原(かないばら)(小金井市(こがねいし))などを舞台(ぶたい)に合戦(かっせん)をくりひろげ、この時期(じき)を境(さかい)に新田(にった)軍(ぐん)は勢(いきお)いがおとろえていく。義興(よしおき)は足利(あしかが)基氏(もとうじ)(尊氏の四男坊だ)・畠山(はたけやま)国清(くにきよ)にはかられ、武蔵(むさし)矢野口(やのくち)の渡(わたし)(稲城市(いなぎし))で殺(ころ)された。

挂甲・大鎧姿5世紀(せいき)ごろ、朝鮮(ちょうせん)を経(へ)て日本(にっぽん)に伝(つた)わった中国(ちゅうごく)の挂甲(けいこう)(「かけよろい」といわれる古代(こだい)のよろい)が鎧(よろい)の起源(きげん)だ。
平安(へいあん)時代(じだい)になると、武士(ぶし)の騎馬(きば)の射戦(しゃせん)(馬(うま)にのって弓矢(ゆみや)で戦(たたか)うこと)にむくスタイルにかわっていった。

 

こんなにあるぞ!多摩(たま)のお城(しろ)と古戦場(こせんじょう)マップ

分布図は「多摩の古城址」参照
多摩のお城と古戦場マップ

1.川口(かわぐち)兵庫介(ひょうごのすけ)館(やかた)跡(あと)(八王子市(はちおうじし)川口(かわぐち))

  川口(かわぐち)氏(し)は武蔵(むさし)七党(しちとう)の西党(にしとう)の一族(いちぞく)。鎌倉(かまくら)時代(じだい)から室町(むろまち)時代(じだい)まで、この館(やかた)をねじろに川口(かわぐち)郷(ごう)を支配(しはい)した。応永年間(ねんかん)(1394~1428年)の兵庫介(ひょうごのすけ)幸季(ゆきすえ)のころに最(もっと)も繁栄(はんえい)したといわれる。

2.初沢(はつざわ)城跡(じょうあと)(八王子市(はちおうじし)初沢(はつざわ)町(まち))

  またの名(な)を椚田(くぬぎだ)城(じょう)。高乗寺城(こうじょうじじょう)。武蔵(むさし)七党(しちとう)の横山党(よこやまとう)に属(ぞく)す椚田(くぬぎだ)城(じょう)の住居(じゅうきょ)だともいうし、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の重臣(じゅうしん)大江広元(おおえのひろもと)の子孫(しそん)、長井氏(ながいし)の城(しろ)だったともいう。

3.浄泉寺(じょうせんじ)城跡(じょうあと)(八王子市(はちおうじし)館町(たてまち))

  平安(へいあん)時代(じだい)の武将(ぶしょう)で、源頼義(みなもとのよりよし)の家臣(かしん)であった鎌倉(かまくら)権五郎(ごんごろう)景政(かげまさ)の館(やかた)のあとといわれる。が、北条(ほうじょう)氏照(うじてる)の重臣(じゅうしん)、近藤(こんどう)出羽守(でわのかみ)の館(やかた)だったという説(せつ)もある。権五郎(ごんごろう)景政(かげまさ)は義家(よしいえ)に従(したが)って出陣(しゅつじん)した後三年(ごさんねん)の役(えき)で右目(みぎめ)を射(い)ぬかれたという。その姿(すがた)のまま敵(てき)を討(う)ち、陣地(じんち)へ帰(かえ)ると、味方(みかた)の者(もの)が景政(かげまさ)の顔(かお)に足(あし)をかけ、矢(や)をひきぬこうとした。景政(かげまさ)は、「武士(ぶし)が弓矢(ゆみや)にあたって死(し)ぬのは世(よ)の常(つね)だ。が、生(い)きているうちに顔(かお)を足(あし)でふみつけられるのはかんべんならん!」と怒(おこ)ったとか。

4.片倉(かたくら)城跡(じょうあと)(八王子市(はちおうじし)片倉町(かたくらまち))

  室町(むろまち)時代(じだい)前期(ぜんき)、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の重臣(じゅうしん)だった大江広元(おおえひろもと)の子孫(しそん)、長井(ながい)道広(みちひろ)が築(きず)いたともいうし、その父(ちち)、大江(おおえ)備中守(びっちゅうのかみ)師親(もろちか)がつくったという説(せつ)も。
  このあたり、もともとは横山氏(よこやまし)の土地(とち)だったが、鎌倉(かまくら)時代(じだい)に大江(おおえ)氏(し)に与(あた)えられた。その後(ご)100年(ねん)ほどこの地(ち)は大江(おおえ)氏(し)が支配(しはい)。応永(おうえい)9(1402)年(ねん)、長井(ながい)道広(みちひろ)が奥州(おうしゅう)で伊達(だて)氏(し)との戦(たたか)いに破(やぶ)れ、死(し)ぬとこの城(しろ)も使(つか)われなくなった。
  戦国(せんごく)時代(じだい)には、小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)の支城(しじょう)の一(ひと)つだったが、天正(てんしょう)18(1590)年(ねん)、豊臣(とよとみ)軍(ぐん)の小田原(おだわら)攻(ぜ)めとともに滅(ほろ)んだ。

5.古手(こて)指ヶ原(さしがはら)古戦場(こせんじょう)(狭山(さやま)丘陵(きゅうりょう)北(きた)・所沢(ところざわ)市(し)西部(せいぶ))

  • 元弘(げんこう)3(1333)年(ねん)、鎌倉(かまくら)攻(ぜ)めの新田義貞(にったよしさだ)軍(ぐん)と幕府(ばくふ)の北条(ほうじょう)軍(ぐん)がはじめてここで出会(であ)い、戦(たたか)う。
  • 建武(けんむ)2(1335)年(ねん)、中先代(なかせんだい)の乱(らん)の時(とき)もここで合戦(かっせん)があった。
  • 正平7(1352)年(ねん)、武蔵野(むさしの)合戦(がっせん)。足利尊氏(あしかがたかうじ)対(たい)新田(にった)義興(よしおき)・義宗(よしむね)軍(ぐん)がここで戦(たたか)う。

6.山口(やまぐち)城跡(じょうあと)(所沢市山口)

  村山(むらやま)貫(かん)主頼任(よりとう)の孫(まご)、小七郎(こしちろう)家継(いえつぐ)が山口(やまぐち)氏(し)を名(な)のり、この地(ち)に館(やかた)をかまえたのがはじまり。山口(やまぐち)氏(し)は鎌倉(かまくら)時代(じだい)前(まえ)からこのあたり一帯(いったい)に勢力(せいりょく)を持(も)っていた。
  南北朝(なんぼくちょう)時代(じだい)には新田義貞(にったよしさだ)に味方(みかた)して戦(たたか)ったが足利(あしかが)に攻められて城(しろ)は滅(ほろ)んでしまった。

7.久米川(くめがわ)古戦場(こせんじょう)

ここは鎌倉(かまくら)街道(かいどう)の宿(しゅく)として栄(さか)えた地(ち)。交通(こうつう)の上(うえ)で重要(じゅうよう)な場所(ばしょ)は合戦(かっせん)の場(ば)ともなった。
  • 元弘(げんこう)3(1333)年(ねん)、新田義貞(にったよしさだ)軍(ぐん)対(たい)幕府(ばくふ)の北条(ほうじょう)軍(ぐん)ここで戦(たたか)う。
  • 建武(けんむ)2(1335)年(ねん)、中先代(なかせんだい)の乱(らん)の時(とき)もここで合戦(かっせん)。

8.立川(たちかわ)城跡(じょうあと)(立川(たちかわ)市(し)柴崎(しばさき))

  立川(たちかわ)氏(し)は武蔵(むさし)七党(しちとう)の西党(にしとう)日奉(ひまつり)氏(し)の一族(いちぞく)。源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵(きょへい)にはせさんじ、平家(へいけ)討(とう)ばつに活(かつ)やくした。
  鎌倉(かまくら)時代(じだい)から戦国(せんごく)時代(じだい)にかけ、このあたりを支配(しはい)した。城(しろ)があったのは普済寺(ふさいじ)のあたり。天正(てんしょう)18(1590)年(ねん)、豊臣(とよとみ)軍(ぐん)の小田原(おだわら)攻(ぜ)めとともに滅(ほろ)んだ。

9.三田(みた)氏(し)館(やかた)跡(あと)(国立(くにたち)市(し)谷保(やほ))

  津戸(つのと)三郎(さぶろう)為守(ためもり)が城主(じょうしゅ)だったといわれる。一方(いっぽう)、現在(げんざい)もこの地(ち)に住(す)んでいる三田(みた)氏(し)の先祖(せんぞ)が代々(だいだい)城主(じょうしゅ)だったという説(せつ)もあってこうよばれる。為守(ためもり)は鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の御家人(ごけにん)。熊谷(くまがい)直実(なおざね)と同(おな)じころの人(ひと)らしい。

10.平山(ひらやま)城跡(じょうあと)(日野(ひの)市(し)平山(ひらやま))

  武蔵(むさし)七党(しちとう)の西党(にしとう)日奉(ひまつり)氏(し)の一族(いちぞく)、平山(ひらやま)武者所(むしゃどころ)季重(すえしげ)の館(やかた)。平山(ひらやま)季重(すえしげ)は『平家(へいけ)物語(ものがたり)』『源平(げんぺい)盛衰記(せいすいき)』に登場(とうじょう)する武蔵(むさし)武士団(ぶしだん)の実力者(じつりょくしゃ)。一(いち)の谷(たに)の戦(たたか)いで熊谷(くまがい)次郎(じろう)直実(なおざね)と先陣(せんじん)あらそいをした。

11.金井原(かないばら)古戦場(こせんじょう)

正平(しょうへい)7(1352)年(ねん)、武蔵野(むさしの)合戦(がっせん)。足利尊氏(あしかがたかうじ)対(たい)新田(にった)義興(よしおき)・義宗(よしむね)の合戦(かっせん)場(じょう)。

  •   この戦(たたか)いでは秋川(あきかわ)すじの南一揆(みなみいっき)とよばれる武士団(ぶしだん)が、足利(あしかが)軍(ぐん)の先陣(せんじん)となって活(かつ)やくした。
      金井原(かないばら)(今(いま)の小金井市(こがねいし))とそれにつづく人見原(ひとみはら)(今(いま)の府中市(ふちゅうし))を舞台(ぶたい)に戦(たたか)いがくりひろげられた。

12.足利(あしかが)陣屋(じんや)(府中市(ふちゅうし)片町(かたまち))

  平安(へいあん)時代(じだい)中(なか)ごろ、平将門(たいらのまさかど)を討(う)った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が館(やかた)をたてていたところで、そのあと「市川山(いちかわざん)見性寺(けんしょうじ)」という寺(てら)になったといわれる。
  南北朝(なんぼくちょう)時代(じだい)の14世紀(せいき)中(なか)ごろ、足利尊氏(あしかがたかうじ)がこの寺(てら)を再興(さいこう)。自分(じぶん)のもとの名(な)の「高氏(たかうじ)」から一字(じ)とって「高安寺(こうあんじ)」と名(な)付(づ)けたとか。
  ちょうど分倍河原(ぶばいがわら)をみおろす絶好(ぜっこう)の場所(ばしょ)で、南北朝(なんぼくちょう)時代(じだい)から室町(むろまち)時代(じだい)、しばしば足利(あしかが)氏(し)の陣屋(じんや)(兵士(へいし)のとどまるところ)となった。ここは足利(あしかが)氏(し)の府中(ふちゅう)防衛(ぼうえい)基地(きち)だったのだ。

13.分倍河原(ぶばいがわら)古戦場(こせんじょう)(京王線(けいおうせん)府中(ふちゅう)駅(えき)南(みなみ))

  ここは鎌倉(かまくら)と府中(ふちゅう)をむすび、川越(かわごえ)にぬける鎌倉(かまくら)街道(かいどう)の重要(じゅうよう)な地点(ちてん)。幕府(ばくふ)にとって、ここで敗(やぶ)れることは鎌倉(かまくら)がおちることにつながった。
そういう場所(ばしょ)だから、必死(ひっし)の激戦(げきせん)がくりひろげられた。
  • 元弘(げんこう)3(1333)年(ねん)、鎌倉(かまくら)攻(ぜ)めの新田義貞(にったよしさだ)軍(ぐん)対(たい)北条(ほうじょう)軍(ぐん)の決戦(けっせん)場(じょう)。
  • 建武(けんむ)2(1335)年(ねん)、中先代(なかせんだい)の乱(らん)。
  • 正平(しょうへい)7(1352)年(ねん)、武蔵野(むさしの)合戦(かっせん)。

14.小沢(おざわ)城跡(じょうあと)(稲城市(いなぎし)矢野口(やのくち))

  はじめはこの地方(ちほう)の豪族(ごうぞく)のすまいだったが、のち、稲毛(いなげ)三郎(さぶろう)重成(しげなり)の城(しろ)となった。南(みなみ)武蔵(むさし)の重要(じゅうよう)な地点(ちてん)で鎌倉(かまくら)時代(じだい)より数(かぞ)えきれぬほどの戦(たたか)いの的(まと)となる。関東(かんとう)地方(ちほう)を代表(だいひょう)する山城(やまじろ)で、八王子(はちおうじ)の滝山城(たきやまじょう)と肩(かた)をならべる。

15.矢野口(やのくち)(稲城市(いなぎし)矢野口(やのくち))

  延文(えんぶん)3(1358)年(ねん)、鎌倉(かまくら)に向(む)け出陣(しゅつじん)した新田(にった)義興(よしおき)はここの渡(わたし)で謀(はか)られ、死(し)んだ。

16.桝形山(ますがたやま)城跡(じょうあと)(川崎市(かわさきし))

  小沢(おざわ)城主(じょうしゅ)、稲毛(いなげ)三郎(さぶろう)重成(しげなり)の出城(でじろ)。
  重成(しげなり)は小山田(おやまだ)有重(ありしげ)の子(こ)。妻(つま)は北条(ほうじょう)政子(まさこ)(源頼朝(みなもとのよりとも)の妻(つま))の妹(いもうと)だ。とても勢力(せいりょく)があったのだけれど、元久(げんきゅう)2(1205)年(ねん)、北条氏(ほうじょうし)の陰謀(いんぼう)のため、鎌倉(かまくら)で殺(ころ)された。

17.小野路(おのじ)城跡(じょうあと)(町田市(まちだし)小野路(おのじ)町台(まちだい))

  小山田(おやまだ)有重(ありしげ)の二男(じなん)、二郎(じろう)重義(しげよし)の住(す)んだ城(しろ)といわれる。

18.井出(いで)の沢(さわ)古戦場(こせんじょう)(町田市(まちだし)本町田(ほんまちだ))

  ここも鎌倉(かまくら)街道(かいどう)の要地(ようち)。中先代(なかせんだい)の乱(らん)の合戦(かっせん)場(じょう)。

19.関戸原(せきどはら)古戦場(こせんじょう)

  新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉(かまくら)攻(ぜ)めで分倍河原(ぶばいがわら)の戦(たたか)いのあと、幕府(ばくふ)軍(ぐん)北条(ほうじょう)泰家(やすいえ)は、あやうくここで討(う)ち死(じ)にするところ、丹(たん)党の武士(ぶし)らにたすけられ鎌倉(かまくら)へ戻(もど)った。

さて、室町幕府もおとろえて、世はまさに戦国時代!

参考(さんこう)にした本(ほん)

郷土資料室から
「東京都の歴史散歩・下」
「角川地名大辞典」
「多摩の古城址」
「多摩の歴史散歩」
「多摩丘陵の古城址」
「武蔵武士」
「多摩のあゆみ」第17号
「多摩歴史散歩1~3」
「史跡をたずねて  各駅停車シリーズ」
…その他いろいろ

児童コーナーから
「ほるぷ  日本の歴史2」
「鎌倉と南北朝」

その他
「戦国史事典」
「年表  日本の歴史1~4」
「戦国武家事典」
「平凡社大百科事典」

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41.花の江戸城  Part2  

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掲載日 令和7年8月1日